第一幕『遥か遠い彼方の君へ』
file.01 JIMEからの手紙
石崎航という男は40半ばの特になんの特徴もない、ただの工学オタクだ。彼は長年勤めた研究所を離れて、田舎の大学で工学科の臨時講師として働いている。今の大学に来て4年ほどになる。大学で受け持っている生徒たちはとても若く、素直で、また熱意に溢れており、案外可愛らしいものだ。今日も講義を終え、ラップトップを片付けたりして生徒を見送っていると、彼の生徒が教卓周りに集まった。
「石崎先生、プログラムについてなんですけど・・・ここ、エラー制御のコマンド見てもらっていいですか?」
「おう、ちょっとパソコン貸してみ。・・・ん〜、こっちの設計で衝突を起こしてるな。だから、こっち側の設計を考え直してみろ?」
「そういうことかぁ!ありがとうございます、帰って手直ししてみます」
「俺でよければいつでも聞きに来てくれ」
「先生、さっきの授業についてわからないところがあって」
「おうよ。どこが分からんかったか、教えてくれ」
講義終わりだけでなく、廊下や食堂・・・ありがたいことに学内のどこにいても生徒の誰かしらが彼に声をかける。石崎はいい環境に恵まれたなぁ、と片手に持ったアイスコーヒーに口をつけた。
しかし、今日は珍しいことに事務員に呼び止められた。
「石崎先生ですね?あなた宛にお手紙が届いていますよ」
「おう?なぜ俺宛てだろう?」
「先生は非常勤ですし、研究室もお持ちでないのに・・・不思議なこともありますね」
「とにかくありがとうございます、どうすればいいかな」
「はい!別館にある学生課の隣、総事務課にお声がけください。お手隙の時で結構ですよ」
「あい。承知しました。いつもごくろーさんです」
「石崎先生こそ、生徒の人気者だと伺っています。うちに来てくれてありがとうございます」
「がはは!テキトーなおっさんだから皆友達感覚なんでしょうねぇ。では後ほど事務室で。」
「ふふ。ええ、では失礼いたします」
事務員の女性は軽く頭を下げて食堂の方へ入っていった。
石崎は空になったコーヒー缶を捨てるとその足で事務課に向かい、手紙を受け取った。
なんの変哲もない白い封筒には「石崎航様」と確かに記されていて、住所は大学のもので間違いない。ペラりと後ろの差出人を見て、彼は息を呑んだ。
【ジュラシック医療工学研究所(JIME) 所長 三神叶恵】
そこにある三神という差出人は、10年前に石崎もあったことのある人物だ。今から5年前に飛行機の不時着事故で亡くなったと聞いていたのに、これではまるで幽霊からの手紙だ。
石崎は気味の悪い手紙を自身のカバンにしまい込み、大学を後にした。
家について間も無く、石崎はカバンから手紙を引っ張り出した。
キッチリと封をされた白い手紙に寒気を覚え、石崎は身体を震わせた。
中を見ると以下のようにあった。
___
拝啓 石崎航様
この頃は気温も高く、蒸し返すような暑い日が続きますね。いかがお過ごしでしょうか。
私は10年前までJIMEにてお世話になりました、三神と申します。
覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私が「歩く車椅子」を企画したときに背中を押してもらったので、私は一方的に貴方様へ感謝と尊敬を抱いておりました。当時は笑いものにされたのが悔しいばかりで、石崎様へお礼のひとつも言えませんでしたこと、ここに陳謝いたします。
さて、以下より本題です。
ここ最近では当研究所に新しい研究者も入って来なくなり、人員不足が続いております。ここでひとつ、石崎様には医療工学におけるワークショップを開いていただき、若い学生への啓蒙活動を行っていただきたいのです。もちろん謝礼は出します。
その打ち合わせのためにも、今度JIMEへお越しいただけませんでしょうか。
ご快諾いただけます場合は同封した書類にサインをして、お越しいただきますようお願い申し上げます。
敬具
三神 叶恵
___
石崎は手紙に目を通して唖然とした。なんということだろう。「歩く車椅子」の話は十数年前にも遡るので今の所員が悪戯に送ってきた手紙ではなさそうだ。
さらに、同封された契約書を見てみると十分すぎるほどの報酬が記載されていた。
今は気が動転していて、決断には良くないだろう。石崎はそう心に決めて一度手紙を元の形に戻して、自身の手帳へ挟み込んだ。
その後夕食を摂り、論文の執筆にあたりながら、自分は今悪夢を見ているのだろうかと考える。
突然現れた手紙。亡くなった旧知の同僚。誰も知り得ない記憶。依頼と報酬。
石崎はめまいを覚え、その日は早く眠りについた。
これから起こる想像もつかないほどの絶望を、彼はまだ知らない。
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