第13話 足が攣った!

 数日後、俺は皇宮に上がることにした。


 意思決定を行う人々の近くに行かねば、必要な情報は得られない。

 太后と生さぬ仲の皇帝の力関係も把握せねば。


 例えば、特に太后にとってこの「趙小瑶」にはどんな価値があるのか。そして、周王ではなく、泉北郡王を夫に選んだ理由は何なのかを見定めねば。


 そうと決まれば、郡王夫人らしい振る舞いなどを身につけねばならんなあ、紫薇に教えてもらうに限るだろうが、一日で終わらないだろうな、と思った。


 郡王に相談すると、「そんなものはいらない」と言った。


「なぜだい?ほら、俺が変なことをすると恥をかいちゃうだろ?」


 郡王はヒヒッと笑って答えた。


「本王も、夫人の記憶喪失と四十だというのを、夫人の悪質ないたずらかと思っていた」


 そりゃそうだ。

 俺がここで聞く話を全てはそのまま受け取れないでいる。つまり百パーセントの信頼を置いていないということだ。

 それ以上に、花の十八歳のタヌキ顔少女が「俺は四十男だぞ」と言う方が荒唐無稽だ。


「趙小瑶はそういういたずらをする女だったのかい?」

「まさか。趙尚書が『この子が男子ならば、科挙を受けさせて礼部に属させるのに』とおっしゃったことがある」

「礼部というのは、ええと……」


 俺が必死に世界史の教科書を脳内で開いているが、郡王が答えを言った。


「儀礼全般を司る」


 あー、礼儀作法にうるさそうな。つまり、学級委員長タイプか。


 俺はこのタヌキ顔が、セーラー服を着て髪の毛をきつめの三つ編みに縛って、メガネをクイっとさせているのを連想してしまった。

 この手のステレオタイプ的学級委員長が同じクラスにいたことはないが。


 郡王の朝服(ちょうふく)は緋色だ。日本の着物は袖口を半分くらいは縫ってあるが、袖口は縫ってないらしい。


 俺に着せられたものは、萌黄色の衣だった。シルクなのはわかるが、結構重たい。髪の毛にはあまり飾りをつけないようにしてもらって、出発だ。


「つまり今、四角四面な女が、めちゃくちゃなことをしてるように見えてるんだな」


 郡王は頷いた。


「素っ頓狂という文字が歩くようだ」


 俺は天を仰いだ。

 俺だって、日本のサラリーマンだぞ……。


「中途半端に学ぶと、ふざけているようにしか見えぬ。この状態を見ていただく方が信じやすいのだ」


 そう言って、郡王は俺よりも先に馬車に上がりやがった。


 俺はなあ。着たこともないような衣装をつけて、履いたこともないような靴を履いて、体には筋肉があまりにもなさすぎて、すっ転びそうなんだぞ。


 郡王は、上から俺に手を差し伸ばした。


「おつかまり」


 馬車はヨーロッパの馬車とは少し違う。巨大なお神輿みたいなもので、大きな車輪がついている。


 日本の平安時代の牛車を見たことがあるだろうか。俺が見たのは、圭に連れられて行った宇治の「源氏物語博物館」だったかな。

 西洋の馬車よりも平安時代の牛車の方が近い。巨大なものに乗るためには段を登らねばならない。


 確かに、上から引っ張ってもらう方が合理的だった。


 馬車の中にはコの字に段が作ってあり、ここに腰掛けるらしい。


 前は布を垂らすだけだ。そういや、「平家物語」には京に入った木曽義仲はかつて平宗盛が使っていた牛車に乗るのだが、乗り慣れないのでひっくり返って後ろから落ちて笑われるシーンがあった。俺だって落ちたくないので、後ろを確認したが、後ろは封じてあって、小さな覗き窓がつけてあるだけだ。横にも窓があるが簾のようなものが垂らしてあって、外はよく覗けない。


 俺が外を見たそうな顔をしたからだろうか、郡王はささっと両方の簾を上げた。

 中は明るくなるが、ちょっと冷たい風が入り始め、俺は目を細めた。


 通りに並ぶ建物は木造だが、王府の建物とは比べ物にならない。道ゆく人の格好も、やはり現代とは思えない。


 車輪にタイヤなんてものはない。揺れるし、うるさい。

 パカパカと馬の蹄の音がするし、ゴロゴロ大きな木製車輪が動く音がする。

 現代のように車道と歩道が分離されているわけでもない。だが、うるさいから、よほどのことでもない限り飛び出してくることもないのだろう。

 速さだってそうだ。馬車の速度と人の歩く速度がそんなに変わらず、なんとものんびりしたものである。


 ちらりほらりと白い花が咲いているのが見えた。なんとなく桜ではないなと思う。


「……梅?」


 郡王は微笑んで答えた。


「梅はとっくに散ってしまった。梨だ。昔、この南都に赴任した役人が『紅袖の織綾、柿蒂を誇り、青旗の沽酒、梨花を趁す(*白居易 杭州春望)』と詠んだので、南都には柿と梨を植える人が多くて、名産になってしまった。王府にも柿と梨が植えてあるが、北殿と南殿の間にはないから見ておらぬな」


 そう言っているうちに馬車は緩やかな坂を登り始めた。


 皇帝が療養に来たことで、南都離宮は「皇宮」と呼ばれるようになった。皇帝が離れれば、相変わらず「南都離宮」と呼ばれるだろうけれど、全快できればおそらく通称は「慶寿宮」のままだろう。


 そんなことを郡王が説明し、馬車は止まった。


 見上げれば、少しオレンジっぽさが強い黄色い瓦の建物が三段に連なっていた。赤い壁がそそり立つ。つまり宮は丘を使って、高いところから見下ろす形なのだろう。


「一番下にあるのが、南都政務府。普段本王は日中ここにいる。この先からは太子以下は自らの足で登らねばならぬ」


 おう。階段……。


「政務府の入り口に、大きな銅鑼がある。何か訴えを起こしたい者は、誰でもあれを叩けば本王は配下の者にそれに耳を傾けさせねばならなくなる」


 この体は軟弱すぎる。


 中央は皇帝しか通れないと言うことなので脇を一段一段登るのだが、なんとまあ、十段しかない政務府までの階段の、五段目で足が攣った。


「……殿下、あの、足が、攣った……」

「そりゃ大変だ」


 ぐっと俺の体を片腕で持ち上げて、軽々と下ろしたのだ。さらに、俺を石段に座らせて、攣った右足を揉み始めた。

 そういやこの足は小さい。


「この足は纏足されてないよな?」

「されてないとも。太祖の時代から本朝では纏足は禁止されている。郡王の側室以上、つまり郡王の正室や、親王の側室に正室、皇帝の妃嬪、そして三后は纏足されていることが禁じられているので、読書人階級では纏足は廃れた」

「運動するのか?この女」

「するわけがないではないか」


 俺が目を郡王の後ろに向けると、人々が跪いた。


「泉北郡王殿下と安渓県君娘子にご挨拶申し上げます」

 

 この南都慶寿宮から下ることのない皇帝、太后、皇后を除いて、今南都にいる人間で最も身分が高いのが周王だろう。しかし周王は南都に何の権限も持たない。

 つまり、南都の人にとって南都を預かる泉北郡王の方が周王よりも重要だ。

 その郡王夫妻が慶寿宮に入るところでもたついている。この人たちにとって大変困った状況になっているというわけだ。


 郡王が口を開こうとしたときに、後ろからすらりとした男が一人前に進み出た。

 人々は男にも挨拶をしたので、郡王は口を開くタイミングを逸してしまった。


「周親王殿下にご挨拶申し上げます」

 周王はにこやかに微笑んで、俺たちの前でまた手を前に出してお辞儀をした。

「八兄(はちにい)さま八嫂(はちねえ)さま、九弟がご挨拶申し上げます。どうかなさいましたか」


 郡王が答えた。


「皆の者構わぬ。我ら夫妻を気にするでない。あちら側から先に上がって良い」


 手で指し示す郡王の仕草は優雅だ。そそられる。


 俺たちは真ん中を避けて、向かって右側から登ろうとしていた。郡王は向かって左側から登れと言ったのだ。

 そして今度は周王に言った。


「周王殿下に泉北郡王がご挨拶申し上げます」


 俺も続いてみた。


「しゅ、周王殿下に、あ、安渓県君がご挨拶申し上げます」

「なさいますな」


 忠犬九ちゃんは、俺の様子を察したらしい。


「……足が攣ったのですか?」

 

 人々はこちらには来ないが、視線を感じる。

 周王が立ちはだかり、腰に手を当てて、幅も長さもある袖を翻して俺たちを隠そうとするが、そんなことできるものか。


「構わぬ。先に登って良い」


 これまた声を震わせて周王が人々の挨拶に答えるのだ。


「お立ち」


 郡王に引っ張られるようにして俺は立ったのだが、すぐに郡王は俺の前で身をかがめている。


「お乗り」


 は!?


「早く。おんぶするから」


 は!?


 遠からず近からずというところから、ほぉーっとため息が聞こえる。


「郡王さまが、夫人を?」

「お若いっていいわねえ」


 そうだった。この連中、二十歳と十八だった。


「はやくお乗り」


 郡王に急かされて、空気に飲まれるように俺はおんぶされたのだ。

 俺の半分の年齢の坊やに。


 普通、重い人をおぶったら、前かがみになるじゃないか。

 いいかい。俺は一応十八歳ということになってる。

 それをおぶったら、そりゃ体が前かがみになるってもんだろ。

 郡王ときたら、まっすぐに立ってやがる。

 俺はリュックサックか何かかな。悔しい!


「兄さま、お待ちを」


 周王が郡王の裾をたくし上げ、俺に持たせた。


 郡王は、スタスタと石段を上がっていきやがるのだが、なんとも良いね、男の広い背中ってやつは。

 そして、俺の背中と付かず離れずのところに周王の大きな手が落下に備えているのもわかる。

 近からず遠からずから、おおーっと声が聞こえれば、もうどうすればいいんだ。四十年間でこんなことはなかったんだぞ。


 俺は郡王の背中に顔を埋め、沈香の甘い香りを嗅いだ。

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