12.分身

「一人は偽者だ」ジェルダン王は怒りを噛み殺したような声で言った。と同時に二人の女性が走る。


 しかしジェルダン王はほのかに笑みをこぼし、地を滑って突進して行く。足を作って走るより、滑った方が早いらしい。なくなっている両腕も、うねうねと形作り始めた。両腕が血のノコギリになる。一度に二人倒すつもりか、女性を挟み込む。


 片方の女性が、挟まれる前に扇子でなぎ払った。もう一人の女性も足をなぎ払う。息があがっている。ジェルダン王は、痛くもかゆくもないといったようすだ。それどころか二人もちょこまかと、と言わんばかりに苛立っているように見えた。


 しかし、ジェルダン王は冷静になる方法を知っているらしい。本物と偽者の見分け方も。

ジェルダン王は、液体状になり、渦を巻きながら僕らに向かって来た。地面をガリガリ削って、来る。


 また足手まといだ。慌てて逃げ出すと、女性が扇子の水で血の渦を受け止めてくれていた。だけどおかしい。今のは絶対、間に入るのは時間的に不可能だった。どうやったんだ?


 また驚かされた。二人いた女性は三人になっていた。最初の二人が水になって消えた。

「お前のことだ。やはりな、二人とも偽者か」


 ドリルのように渦巻く血が、女性を飲み込もうとする。水の壁が激しくしぶきを上げて押されている。このままだといつやられてもおかしくない。なのに、女性はいきなり、後ろに身を引いた。何を考えているんだ! 飲み込まれる! 


 そう思った刹那、僕らの間を取り持って、金色の光が辺りを照らした。壁を作るべく、光の円が僕らの前に現れる。


 月と十字架をかたどった球体の魔法陣。そこにぽっかりと、真っ黒な穴が開く。空間に浮かぶそれが、周囲の風をうならして、ブラックホールのごとくジェルダン王を吸い込み始めた。


 轟音、逃れようと暴れる血、ジェルダン王の悔しそうなうなり。突然音が途絶える。耳鳴りが残った。金色の光も失われていき、空間に溶け込んで、嘘のように何もかも消えた。夏の空が青い。


 しばらく静寂が続く。全てが戻ってくる。静けさ、虫の小さな声、涼しい風が妙な気分にさせ、辺りの木々がざわめく。鉄の門が役目を終えたというふうに、寂しそうに傾いている。


「逃げた」

 誰に言うでもなくそう言った女性が身をひるがえした。


「おい姉ちゃん。あんた何者? あいつ誰? 何で助けてくれたの? あんた命の恩人だ」


 グッデと同じく、聞きたいことが山ほどある。堅く結ばれた女性の唇からは、決して笑みはこぼれなかった。それでもお礼だけは言いたい。口を開きかけた途端、パシンという音が聞こえ、頬がじんわり痛くなった。平手で叩かれた。


「なぜ水の法を破ったの?」


 何がどうなっているのか理解できなかった。分かるのは二人とも頬が痛かったってこと。


「第七十八条。『この町は滅びるでしょう』と掟には記しておいたはず。あの掟はね、火水、暁のジェルダン王の封印を、誰かが解かないようにするためのものだったのよ」


  女性の静かな声の裏には、熱がこもっている。このときになって初めて、この人が怒っていることに気づいた。


「すみませんでした。法を破ってしまって。でも僕はどうしても旅に出ないといけないんです」


 つららみたいに鋭く冷たい目が向けられた。怒らせてしまった。しかし女の人は怒らなかった。その代わり冷たい口調のまま言った。

「名前は?」


 まさか名前を聞かれるとは思いもよらなかった。だから控えめに答える。


「バレ・シューベルト」

 女の人は無言。数秒後、きびすを返して歩いていく。

「あなたは?」


「私の掟を破った者に名乗る必要はない」

 二人で門の前に立ち尽くしている。名乗ることもなく、一度も振り返ることなく、水、月夜の要姫が渦をきらめかせて消え去って行く。


「あ」

 落とし物だ。月と波と十字架の彫られた、水色のコインが一枚落ちている。

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