第10話 クッキー

 翌日は、ちょっと大変なことになった。

 二時間目終わりの休み時間、次の教科の準備に俺が机をあさっていると、

「あのぉ、このクラスに句綱君っていますか?」

 鈴を転がしたような澄んだ声と共に、色素の薄いゆるふわロングがドアから顔を覗かせた。途端にどよめく一年二組。

「りっりっ璃珠先輩っ!」

「句綱ならここにいますが、句綱ごときになんの用が!?」

「わざわざ璃珠先輩に足を運ばせるなんて。お前が出向け、句綱!」

 事情も知らず罵倒するな、同級生ども。

 一年生の動揺を物ともせず、小柄な先輩は俺を見つけると躊躇いなく教室に入ってきた。

「昨日はありがとう、句綱君。これ、お礼に」

 差し出されたのは、小さなクッキーの包み。

「お礼なんて。俺、なんにもしてませんよ」

 たまたまその場に居合わせただけだ。逆に恐縮してしまう俺に、弧泉先輩はたおやかに笑う。

「でも、お世話になったから。そのお店のクッキー美味しいよ。昨日、優衣奈とお茶した帰りに買ったの」

「じゃあ、遠慮なく」

 俺が受け取ると、先輩はまた嬉しそうに笑って去っていく。彼女の姿が見えなくなると、真っ先に飛びついてきたのは須崎烈矢だ。

「けぇ〜いぃ〜? これはどういうことだぁ!? いつの間にりじゅたんとお近づきになったんだよ」

 地を這うような重低音で囁きながら、俺の首に腕を巻きつける。ぐえぇ、絞まる。落ちる。

「昨日、目の前でコケたから助け起こしただけ」

 力ずくで腕を振りほどく俺に、烈矢は憮然としたままだ。

「なんだよ、その好感度爆上げイベントは! どこに行けば発生すんだよ!?」

 恋愛シミュレーションゲームじゃないんだから。

「いいなー、りじゅたんクッキー。いいなー」

 烈矢はよだれを垂らしそうな勢いで焼き菓子の包みを凝視する。

「市販品だって言ってたぞ?」

「璃珠先輩が触ったなら、それはもうりじゅたんクッキー!」

 さいですか。触ったのはビニール包装だけだけどな。

 烈矢は今までに見たことのない真剣な眼差しで、

けい、このクッキーを俺に売ってくれ。小学校から貯めたお年玉と親戚からの入学祝いを合わせれば50は出せる!」

「やめろ、一時の衝動で口座を空にするのは」

 片手を広げる幼馴染に、俺は冷静にツッコむ。推しへの課金がエグい。烈矢のお母さんになんて謝ればいいんだ。

「でも、フリマアプリなら100は行くぞ?」

「出品しねーよ。ほら」

 俺はうんざりしながら烈矢の手に封を切っていないクッキーを載せる。

「欲しいならやるよ」

「マジか! 慧、神!」

 神の多い世の中だな。最初から金払う気なんかないくせに。

 俺を拝んでから包みのリボンを解く烈矢に、遠巻きに見ていた男子達が群がってくる。

「俺にも一口!」

「欠片でいい!」

「せめて匂いだけでも!」

「離れろハイエナども! これは俺んだ!」

 クッキーを高く掲げて逃げる烈矢の胴や足にクラスメイトが追いすがる。どっかで見たことある光景。ああ、あれだ。国語の教科書に載ってた『蜘蛛の糸』の挿絵。

「くそぅ、一枚しか残らなかった」

 壮絶な争奪戦の果て、ワイシャツの第二ボタンが引き千切られた烈矢が悔しそうにクッキーを齧る。

「俺も慧みたいに、璃珠先輩に名前覚えられるように頑張らなきゃ」

 俺はたまたまだからな。それにしても、弧泉璃珠はすごい人気だな。わからなくもないが。

 もったいなくて飲み込めないと咀嚼を続ける烈矢の肩の向こうに、つややかなストレートの黒髪が映る。

 ……架河森だ。

 一連の騒動を見ていたであろう彼女は、俺の視線に気づくと唇の端だけでニヤッと嗤って目を逸した。


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