第2話 日常

 架河森かがもり薄荷はっか鴗澤そにざわ高等学校一年二組在籍。

 俺が知っている彼女のプロフィールはそれくらい。入学して夏休みが過ぎ、もうすぐ前期が終わる九月になっても、俺は架河森とまともに会話したことがない。それくらい彼女は存在感のないクラスメイトだった。

 一番長く喋ったのは、多分昨日だ。

 翌日の教室。俺は窓際の前から三番目の席に座って授業を受ける架河森を密かに観察する。数学の教科書を開き、教師の声にシャーペンを走らせる彼女は、いつもの教室に違和感なく溶け込んでいる。昨日のニヤニヤ笑いながら上級生を振った奴とは別人に見えるほどに。

 だが、架河森には妙な噂があったっけ。それは……。

けい、次移動教室だぞ」

 不意に声をかけられ我に返る。いつの間にか二時間目の授業が終わっていた。

「次の授業何だっけ?」

「化学だよ」

 筆記用具を抱えて「しっかりしろよ」と苦笑するのは、須崎すざき烈矢れつや。俺とは小学校から一緒の、いわゆる腐れ縁の幼馴染だ。

「そんなにボーッと何眺めててたんだ?」

 慌てて机の中から化学の教科書を取り出す俺をよそに、烈矢は膝を折って視線を低くすると、先程まで俺が顔を向けていた方向を確認する。そして、「はは〜ん」と得心がいったように一人で頷いた。

「慧が見てたのは架河森か」

 耳元で囁かれて、ギクリと身体がこわばる。

「別に……」

「照れるなって。大丈夫、秘密にしといてやるから」

 咄嗟に言い訳する俺の首に腕を回し、烈矢は快闊に笑う。いや、ホントに誤解なんだって。迷惑がる俺に気づかず、烈矢は続けて声を潜めて、

「でも架河森はやめとけよ。あいつ、誰かの彼氏を寝取ったって噂だし」

 ――お前、『略奪女』なんだろ?

 昨日の上級生の言葉が耳に蘇る。

 高校に入学してすぐの頃、奇妙な噂を耳にしたことがある。

 曰く、『架河森薄荷は親戚の婚約者を寝取って破談にさせた略奪女だ』と。

 しかし、当時はまだクラスメイトの顔と名前が一致していないような時期で、架河森自身もやたらと影が薄かったせいか大した話題にはならず、いつの間にか消えてしまった。加害者かがもりは何も語らず、被害者が不明だったことも、燃えきらなかった原因だろう。中学卒業したばかりの俺らに『寝取り』と言われても現実感なかったしな。

 結局『略奪女』の噂の真相は闇に消え、単語だけが記憶に残った。だが、

「だけど、最近の架河森って変わったよな」

「何が?」

 怪訝そうに聞き返した俺に、烈矢はしたり顔で語る。

「女子力上がったっていうか、オシャレになったっていうか。夏休み前の髪型はダサい一つ縛りだったけど、今は垂らしてるし、スカートも膝下丈から膝上になってるじゃん」

 よく見てるな。スカート丈なんか気にしたことなかったぞ。

「夏休みデビューってやつかな? 今まで空気だったのに、ちょっと目を引くようになったよな」

 だから上級生に告白されて……『略奪女』の噂が再燃し出したのか。まあ、たまたま現場に居合わせただけの俺には関係ないことだが。

「そういえば、三東みとうは今日も来てないな」

 これ以上架河森の話を続けたくなくて、俺は話題を変えた。架河森の席の真後ろ、窓際の前から四番目の机は夏休み前から空いている。そこは三東菜摘なつみという女子生徒の席だ。しかし彼女は、七月の初め頃から学校に来なくなっていたのだ。

「何か事情があるのか?」

 うちの高校は進学校で受験倍率もそこそこ高い。せっかく入学したのに不登校なんて惜しいと思う。俺は三東とも大して会話していないが、真面目で物静かな雰囲気の女子だったと記憶している。怪我や病気だという話は聞かないから、欠席は他の理由なのだろうが。

「さあね。俺らが首を突っ込んだってしょうがないだろ」

「それもそうだな」

 烈矢の身も蓋もない発言に、俺は頷くしかない。

 三東も……架河森も、ただクラスが同じというだけで昨日まで俺になんの接点もなかったような人物だ。

「ほら、早くいかねーと遅れるぞ」

 烈矢に促されて、反射的に俺は壁時計に目を遣った。やばい、次の授業まであと三分だ。東校舎ここから化学実験室のある西校舎までは遠いのに。

 俺と烈矢は大急ぎで一年二組の教室を飛び出した。

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