31 夏江の覚醒
ー 警視庁,保健室 ー
先日開催された『水香の能力あぶり出し作戦』の成果報告会と指輪捕獲の対策会議で,夏江は人形に宿した悪霊によって昏睡状態にさせられてしまった。その後,警視庁内の保健室に運ばれて,懸命の治療を受けた。だが,警視庁の保健室にいる女医の技量では,昏睡状態になった原因がまったく不明だった。だって,真面目に仕事したくないから,暇そうな警視庁の保健医になったからだ。もし,手に負えない患者が来たら,さっさと専門の病院に紹介状を書いて追い返すだけだ。
だが,夏江の場合,いったいどこの専門医を紹介したらいいのかさえも不明だった。気絶した当時の状況から判断して,現代医学では対応不可能な霊障によるものだと考えることも可能だ。
一晩経過した。
だが,夏江はいまだ目覚めなかった。
翌日,超現象捜査室の室長が保健室に来て,夏江がいまだ目覚めないことを知ってある提案をした。
室長「珠季さん,これは夏江が身を張って手に入れたものです。これを夏江に使ってはどうでしょうか?」
そういいながら,室長は夏江が手に入れた三鈷杵を珠季に渡した。
珠季とは女医の名前だ。三鈷杵など見るのも初めての珠季は怪訝な顔をした。
珠季「これは,いったいなんなのですか?」
室長「夏江がいうには,魂力上級の悪霊でも追い払える悪霊退治の道具です。なんでも,三鈷杵の中にある液体を相手に振るかけることで,有効に働くそうです」
珠季「まあ,毒でなければ,降りかけてもいいとは思いますが,,,」
室長「では,試してもいいですね?」
珠季「はぁ,,,」
珠季は気のない返事をした。だって,すでに医学の知識では判断のしようもない状況だ。
室長も,三鈷杵など使ったこともないが,四苦八苦して,なんとか三鈷杵を分解して,その中にある半透明のガラス管を取り出した。そして,その栓を開けて中身の液体を夏江の額部分に降りかけた。
ギャー-ーー!!
夏江は急に大声で叫んで,両手で顔を覆った。その後,全身が小刻みに震えだした。その震えは徐々に収まっていった。
室長や珠季は,これで夏江が意識を取り戻すものと期待した。だが,夏江は意識を取り戻さなかった。夏江の霊魂は,いったい,どこに行ってしまったのか?
実は,三鈷杵に収められていた聖なる精子によって,夏江の体から悪霊を見事に退散させることができた。だが,この聖なる精子は,あまりに強力だった。悪霊のみならず,夏江の霊魂までも自分の体から追い出されてしまった。
夏江は,はからずも幽体離脱を経験してしまった。
夏江の霊魂は,保健室の上空で浮遊していた。そして,夏江は自分の肉体を鏡からではなく,上空から見ることができた。ベッドの傍らには,室長と女医の珠季の姿も見えた。彼らの話し声もしっかりと聞き取ることができた。
夏江の霊魂は思った。「これって,もしかして,幽体離脱を経験しているの?すっごーーい。もし,自由に幽体離脱ができたら,なんと素敵なんでしょう!!」
夏江の霊魂は,こんな状況にもかかわらず楽観的だった。
一方,あと一歩のところで憑依できるところだった悪霊は,聖なる精子の退魔パワーによって,夏江の体から吹き飛ばされてしまった。その悪霊は,保健室の周囲をぐるぐると這い回って,この部屋の片隅に置かれていた木製の箱の中に逃げ込むことに成功した。その箱の中には,例の人形が収納されていた。
この人形は,α隊隊長が夏江へのお詫びの気持ちとして,彼女に差し上げるために,夏江のいる保健室の角に置いていった。夏江がすぐに意識を取り戻すと思ったので,彼女が目覚めたら女医の珠季から人形を渡してもらうように依頼したものだ。
悪霊の生前の名前は美澪といった。この美澪の霊魂が夏江の体から去る刹那,夏江は美澪が経験した生前の記憶を垣間見た。
その記憶とは,処女を奪われて,あらゆる肉体的拷問を受け,さらには,わけのわからない子供を妊娠して難産の末に,命を落としたという悲惨な過去を持っていた。
美澪は,初恋の彼に処女を与えることもできず,わけのわからない連中に蹂躙され続けた結果,徐々に復讐心が養われていった。死後,悪霊となって人形に宿した後も,人形を抱く人間から微かではあるが精気を奪う能力を身につけていき,とうとう,魂力上級レベルの悪霊にまでなってしまった。
まさか,もう一歩で完全に夏江の体を支配完了できるという時,魂力でいう上級レベルのパワーを持つ美澪の霊魂をも退治できるような,強力な退魔能力を秘めた『聖液』が浴びせられるとは夢にも思っていなかった。
幽体離脱の能力も,初級からS級と区別することができる。初級では1分程度,中級では10分,上級ともなると1時間は可能になる。S級になってしまうと,丸1日も可能になってしまう。
夏江の幽体離脱を経験した時間はわずか1分たらずだ。それでも,夏江ははからずも初級レベルの幽体離脱能力を得てしまった。
1分後,夏江の霊魂はゆっくりと自分の体に戻っていった。自分の身体を取り戻してみると,自分の額部分に何か粘っこいものがついているのがわかった。しかも,なんともいえぬいやらしい匂いがした。
自分が意識を失っていたこと,ベッドのそばに分解された三鈷杵があったことから,この粘っこいものが精子であると同時に『聖液』であることを理解した。
夏江は,慌てて近くにあるちり紙をとって,額部分に浴びせられた精子の液体を拭った。それでも,ネバネバがとれず,濡れタオルをもらって,額の汚れをなんとか綺麗にした。
夏江が落ち着いた頃を見計らって,室長が声をかけた。
室長「夏江,どうだ?意識を取り戻したか?」
その質問に,少し間を置いてから夏江は答えた。
夏江「はい,ありがとうございます。どうやら,ある霊魂によって,憑依されている最中だったようです。その霊魂の記憶を少し垣間見ることができました。とても不幸な少女の記憶でした」
夏江は,自分が幽体離脱を経験したことは言わないことにした。まだ,自由にその能力を発揮できるかどうかわからないからだ。
室長「・・・,そうか,,,して,その少女は,もう浄化されたのかな?」
夏江「なんとも,そこまではわかりません。もしかしたら,まだ,わたしの体内のどこかに潜んでいるかもしれません」
室長「そうか。もし,何か異常を感じたら,すぐに連絡しなさい。高名な霊媒師を呼んで,除霊の儀式をしてもらう。今日はこのまま帰って休養しなさい。2,3日休養していいから,しっかりと体調を整えてから職場に復帰しなさい」
夏江「わかりました。そうさせていただきます」
夏江が意識を取り戻したので,α隊長から預かっていた人形のことを思い出した。
珠季「夏江さん,α隊長から預かりものがありますので,持っていってくれますか?」
そう言って珠季は,人形を収納した木製の箱を夏江に渡した。その箱を受け取った夏江は,箱を開けて中を見た。
キャーーー!!
思わず,夏江はその箱を床に放り投げた。この反応に,女医の珠季は怪訝そうな顔をした。
その箱の中身が例の人形だとわかったので,室長が珠季に説明した。
室長「その人形には悪霊が取り憑いていたらしい。その人形に魔除けのお札の効果を試したら,夏江が気絶してしまった。偶然かどうかわからないが,夏江の気絶には人形に取り憑いた悪霊と密接に関係があるようだ」
珠季「じゃあ,どうしてα隊長はわざわざそんな人形を夏江さんにあげるようなことをしたんでしょう?」
室長「んーー,わからん。でも,悪霊が取り憑いているとわかった以上,夏江に預かってもらって,完全に除霊してもらいたかったのかもしれん」
珠季「・・・,そういうことにしましょうか」
珠季は,放り投げられた箱を拾い上げて机の上に置いて,夏江に言った。
珠季「夏江さん,少し,落ち着いてください。あなたには,悪霊退治のお札があるのでしょう?だったら,この箱の中の人形を完全に除霊できるはずです。α隊長はそれが望みだったと思います」
夏江「・・・」
夏江には,もう有効なお札も三鈷杵も持っていなかった。でも,人形をこの部屋に放置しておくわけにもいかず,とりあえず,自分のアパートに持って帰ることにした。明日にでも,高野山に持っていって,そこで預かってもらえばいいと考えた。
夏江「わかりました。この人形は,近々,どこかの寺院に預かってもらうようにします」
夏江は,いやいやながら人形を収めた箱を手提げ袋に入れて,室長と女医の珠季に別れの挨拶をした後,自宅に戻っていった。
自宅に戻る道すがら,通りすがり人たちの様子が変だった。 道行く人の体から光が放つのが見えてしまうのだ。始めは,何が原因かわからなかった。でも,すぐに理解した。それはオーラだった。
夏江は,オーラを見る能力を身につけてしまった。これまでも,微かにではあるが,見える時もあった。それが,常時見えるようになってしまった。
帰りの電車の中で,夏江の隣の席で,友人たちとおしゃべりをしている女子高校生が,とてもウザトイので,『少し小さい声でしゃべりなさい』と注意したかったが,でも止めた。
夏江は,右側に座っている女子高校生のお尻部分に,右手をそっと当てて,その女子高生に『いっそのこと,この場で眠りなさい!』と,右手から自分の念が相手に届くように念じた。
夏江は,念のパワーは,接触することによって,強力に発揮されるという常識くらいは知っていた。
すると,どうしたことか,その女子高校生は,大きく欠伸をして,「なんだか,急に眠くなったわ」と言って,その場で友人に寄りかかるようにして寝入ってしまった。
これには,寄りかかられた友人以上に,夏江がびっくりした。
夏江は,ふと,高野山の雨海から教えてもらった『魂力』のランクを思い出した。それは,次のような内容だ。
『魂力の中級では,精神力の弱い人なら容易に睡眠状態にもたらすことが可能であり,上級になると,ほとんどの人に憑依することが可能となり,かつ,普通の精神力の持ち主に対して,すみやかに睡眠状態にさせることが可能となる』
夏江は,もしかしたら,自分は霊能力者になってしまったのではないかと思った。もともと霊感は強いほうだった。でも,まさか霊能力者になるほどになるとは思ってもみなかった。しかも,その魂力は少なくとも中級! もしかしたら,上級レベルかもしれない。
夏江は,電車の中で,携帯のラインの返信に夢中になっている若い女性の隣に席を変えた。そして,同じように,右手を彼女のお尻部分にそっと手を当てて,『今から5分間,しっかりと眠りなさい!』
すると,残念ながら,その女性にはまったく効果がなかった。
夏江は,空喜びした自分に「やっぱり,簡単には霊能力者にはなれないものね」と自嘲した。
自分の部屋に戻った夏江は,人形を収めた箱をベランダに置いて,窓のロックをしてカーテンをして,完全に部屋の外に置いた。
明日には,高野山に持っていくつもりだったが,あまりに遠いので,近くで人形を預かってもらえそうな寺院を探すことにした。
その夜,,,
コンコンコン!
窓ガラスが音を立てて鳴った。
夏江は,ベッドの中で,今にも寝入ろうとする時だった。
夏江「誰?」
でも,誰も返事しなかった。すると,また,音がした。
コンコンコン!
間違いない,ベランダの窓ガラスから音が聞こえた。
夏江は,一瞬,泥棒かと思った。でも,泥棒なら,音を立てるはずもない。唯一,可能性があるのは,,,,例の人形だ。
もしかしたら,悪霊が退治されずに,人形の中に隠れてしまったのか?でも,いくら悪霊が宿す人形といえど,人形が動くなんて,聞いたこともない。
夏江は,警察官だ。拳銃を持つことが許されている。彼女は,拳銃を持って,窓ガラスに近づいて,そーっと,カーテンを開けた。
だが,そこには,誰もおらず,人形もいなかった。
コンコンコン!
それでも,この窓ガラスから音が聞こえた。
夏江は心の中で思った。もしかして幻聴??
そう思った,瞬間,今度は,頭の中に声が聞こえた。
「いいえ,幻聴ではないわ。あなたの耳に直接,訴えているだけよ」
この声に,夏江はびっくりして,その場で尻餅をついた。
夏江は,その声の主が,例の人形だと直感的に理解した。
夏江「あなた,人形なの?わたしに取り憑くのに失敗して,仕返しに来たの?」
夏江の返事に,人形は夏江の頭の中で返事した。それは,念話と同じようなものだった。
人形「そうです。わたしは人形に宿した霊魂です。生前の名前は美澪といいます。わたしは,,,」
美澪と名乗った霊魂は,さらに話を続けようとしたとき,夏江が遮った。
夏江「美澪さん,あたなの話はもういいわ。それより,わたし,寝たいのよ。もう騒がないでくれる?」
美澪「・・・」
美澪の霊魂は,どう返事しようかも思ったが,とにかく,ベランダは寒かった。霊魂の状態でも寒さは感じ取れた。
美澪「では静かにします。その代わり,わたしを,このベランダにある人形を,部屋の中に入れてください」
夏江「もう,わたしに取り憑いたりしないと約束するなら,部屋に入れてあげるわ。どう?約束する?」
美澪「あの『聖液』で撃退されてしまって,今は,全然,憑依するパワーがありません。こうやって,念話で話をするのが精一杯です」
夏江「・・・」
やはり三鈷杵の『聖液』のパワーは絶大だったのだ。あの『聖液』を準備した雨海という若い僧侶を見直してしまった。夏江は,美澪の言葉を信じで彼女の言う通りにした。
というのも,その人形を見ても,なんら禍々しい雰囲気を感しなかった。それどころか,悲しみ・寂しさ,恐れさえ感じた。
夏江の霊感は,自分でも驚くほど目見に得ない『もの』に敏感になっていた。人形から発するオーラは,生きている人間でいうところの『精気』をなくしたもので,灰色になっていた。
夏江はすでに上級の霊能力者と呼ぶにふさわしかった。
夏江は,人形を箱と一緒にベランダから居間に移してあげた。そして,夏江は人形に向かって,「おやすみ。もう騒がないでね」と言って,寝室に戻ろうとした。その時,美澪が念話で夏江にさらに追加のお願いをした。
美澪「あの,,,わたしをベッドの中で寝かしてくだい。『聖液』のダメージがひどく,ベッドで横にならないと回復しません」
その声に,夏江は振り向いて人形を睨んだ。贅沢な要求を言いやがってと怒鳴りたかったが,そこは女性のたしなみとして思いとどまった。
夏江「いいけど,わたしに何のメリットがあるの?」
この問いに,美澪はしばし考えてから返事した。
美澪「わたし,あなたの子分になりましょう。ベッドで1週間も静養すれば,また元のように憑依能力が回復します。わたしから3メートルの範囲内であれば,たいていの人間を憑依さえることができます。それも,あなたの命令で実行してあげます。どうですか?あなたは,憑依能力者を子分に持つことができるのです」
この提案は,夏江にとってはとても魅力的だった。だが,その言葉を信じていいものかどうかだ。
夏江「それって,どこまで信じていいの?」
美澪「ここで,天地天命に誓ってウソはいいません。あなたの子分として,行動します!! でも,うまく子分として十分な働きをしたら,わたしのお願いも少しだけ聞いてくれればいいです」
夏江「・・・」
夏江は,興味半分に美澪のお願いが何なのか聞いてみた。
夏江「あなたのお願いって,いったい何なの?」
美澪「わたしを辱めて殺した相手を,呪い殺すことです」
夏江「相手の名前は知っているの?」
美澪「決して,忘れもしません!その名はハビル!彼は,強者です。戦って勝つことはまず無理です。だから,彼を倒す方法を模索しています」
夏江「ハビル?? 倒す方法??」
夏江は,わけのわからない話をこれ以上,聞きたくなかった。早く会話を終わらせたかった。美澪は,そんな夏江を気にせず話を続けた。
美澪「倒す方法はまだ見つかりません。でも,たとえ無理でも,一撃を与えることができればいいです」
夏江「そう。わかったわ。ベッドで一緒に寝てあげましょう。でも,わたしの子分になるという約束は守ってちょうだい」
美澪「はい,ボス!」
かくして,夏江は美澪人形を子分にすることができた。
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