遠き星の魔法使い

@kagetsuki_novel

第1話:日常

 汗ばむ頬を撫でる風が心地よく、足元のアスファルトが熱を放つ。陽が高く昇り、汗滴が眩しく輝く。それは休日の昼前、ランニングから帰る途中の僕、黒鴉くろがらす 風人かざとの一コマだ。今日はいつもよりも距離を伸ばして走ったため、足取りは少し重い。それでも、自宅へと続く道を地道に進む。


「ただいまー。」


 鉄製のドアを開けて家に入ると、僕を迎えるのは静寂だ。ドアがギギと軋む音が響くだけで、独り暮らしの部屋には僕の言葉に応える者はいない。


 部屋に入ると、鼻先に家の温かみを感じる香りが漂ってくる。家を出る前に仕込んでおいたパン焼き機で丁度焼き上がったパンの香り、玄関に飾った菖蒲の香りが混ざり合い、何とも言えない安心感を与えてくれる。


 リビングに入ると、中古で大家さんから譲ってもらった高級感のあるソファとテレビが対峙している。それぞれが部屋の一部となって、調和を保っている。壁に面した本棚には学校の教科書や参考書がずらりと並び、机の上には学校から持ち帰った連休用の宿題が待っている。今はそれに向き合う気力がない。ただ、疲れを癒すことだけが目前の目標だ。


『おかえりなさい、ランニングお疲れ様でした。』


 スマートスピーカーのSeraphix《セラフィックス》が優しく僕を出迎え、照明とテレビを自動でオンにしてくれる。僕はランニングシューズを玄関に整然と揃え、脱いだウインドブレーカーをコート掛けにぶら下げた。


「ふぅ……まだ昼だけど、今日は何だか疲れたな……。」


 小さく呟きながら、肩の力が抜けるように深いため息をついた。疲れてはいたが、手洗いとうがいをしっかりと忘れずに済ませた後、冷蔵庫から取り出した冷たい水を透明のグラスに注ぐと、一気に喉に流し込んだ。乾燥した土に水分が染み渡るかのような如く、水の冷たさが疲れた体に染み渡り、きりっとした感覚が広がる。


『お疲れ様でした。今日は特にお疲れのようですね。水分補給は大切ですが、十分な休息も大切ですよ。何か音楽をかけましょうか?』


 Seraphixが親切にアドバイスを贈ってくれる。Seraphixは優れた音声品質とデザインを組み合わせて、ユーザーに天使のような体験を提供する、といったコンセプトの元作られた製品だ。機能が優秀で、使用者の状態をセンサーで捉え、分析、適宜適切なアドバイスをしてくれる他、ムードにあった光を発することもできる優れモノだ。似たもので例えるならば、光って喋る白いトーテムポールが近いかもしれない。1年くらい前に導入してみたらかなり生活が便利になった。正直もう手放せないアイテムの一つだ。


 僕が頷いて、「そうだね……クラシックがいいな」と答えると、スピーカーから心地良いピアノの旋律が流れ出す。クラシックの調和の取れたハーモニーに心和ませつつ、僕は重たい身体をベッドに沈め、疲れた体を癒すために目を閉じた。



『近年稀に見る物資不足が続く中、政府は輸出規制を強化……次世代エネルギーの発見……』


『次のニュースです。××年前の凶悪強盗殺人事件で行方不明となっていた……』


 テレビで物騒なニュースがずっと流れている。


(もう少し皆、心穏やかに過ごせないものかねぇ。)


 と心の中で呟きつつ、僕自身の心の平穏のためにテレビの電源を切った。ゆったりと手を伸ばして窓を開けると、部屋に篭った生活臭が去っていき、代わりに皐月さつきの爽やかな風が流れ込んできた。きっと親譲りであろう僕の細い柔らかな黒髪が風にそよぐ。色に一目惚れして配置した勿忘草色わすれなぐさいろのカーテンもそよそよと風に揺られ、その様はまるで若葉が風に舞うようだ。薫風くんぷうが吹き抜けると、コップの氷がからりと気持ちの良い音を立てる。


 僕は洗いたての柔らかな枕に顔を埋め、自然の音色に耳を傾けた。枕元に置いた時計のカチ、カチ、という規則的な針音とともに、心拍数がゆっくりと落ち着いていくのを感じる。全身に広がる布団の暖かさに身を任せると、瞼が重くなってくる。やがて瞼が重みに耐えられなくなると気づかぬうちに安らかな眠りの海へと引き込まれていった。

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