第8話 事故 (前編)

 季節は廻り、六歳の夏がもうすぐ終わった。『ティシュリ』と呼ばれる季節がやってきたようだ。

 農業を本気でやると決めてからかなり時間が経つ。たがまだ始めることは出来ていなかった。


「お父さん、少しだけでいいの。畑貸してください」

「アグリ、貸してやりたい気持ちはあるんだが……。無理なんだ、すまんな」


 何度かこうしてお願いしているが叶うことはない。でも優しい父が畑を貸せない理由は何となく分かっている。

 この世界では、農業だけで生計を立てる俺たちにとって畑は財産なのだ。その年、米や野菜が採れるか採れないかで、生きていけるかそうじゃないかが決まる。特に父は二人の子供を育てる責任がある。だから、収穫量が減る可能性のある俺の願いは聞かれないのだ。


 その日の夕方、今日は一日横殴りの雨が降っていた。屋根に打ち付ける音は激しさを増す一方で、すぐには止みそうにない。外を見ても分厚い雲に覆われて、日が沈んだように暗かった。


「すごい雨だね」

「ああ、この季節になると、この雨が降るんだ。昔、家も飛ばされる風が吹いたこともあったんだ」


 台風だろうか。この世界に天気予報が無いことに気づいてから、前の世界で当たり前に見ていた天気予報の偉大さを知った。遊びの約束すら難しくなるし、農業は天気予報に頼っているから、なかなかに不便を感じていた。


「そろそろご飯作りましょうか。アグリ、ルツをお願い」


 母がそう言いながら立ち上がり妹を渡してきた。一歳になった妹は這ったり少し歩いたりする。少し目を離したすきに一人でどこにでも行ってしまうのでしっかり見張っていないと危ないのだ。俺は妹を抱えて膝に乗せると「にー」と声を出す。これは、お兄ちゃんと呼んでくれる日も近そうだ、絶対そうだ。


「お兄ちゃんだぞ、お兄ちゃん」

「にぃーに」


 うむ。まぁそれで構わないぞ、呼んでくれるだけで嬉しい物だ。

 俺は母と父がご飯を作ってくれている間、ルツと一緒に遊ぶ。といってもルツは何がしたいのか分からない行動をする。それでも楽しそうに笑うのでいつまでも付き合ってしまうのだ。そうやって遊んでいると突然、外が輝き、空気を裂いた。その後すぐ、地響きと共に低い音が鳴り響く。そんな初めての自然現象に驚いたルツは泣き出してしまった。


 ルツがやっと泣き止んだ頃、突然玄関のドアがノックされた。


「誰か来た?」

「こんな雨の中、誰だろう」


 まだ強い雨が降っているしもう日も落ちている時間帯だ。父がキッチンから玄関に向かいドアを開けた。


「突然すみません」


 焦っている様子で立っていたのは、ジュリの母親『ミル』さんだった。髪も服もびしょ濡れで、玄関にポタポタと水滴が垂れている。


「ミル、どうしたんだ、こんな嵐の時に」

「旦那、来ていませんか?」

「ジェイドは来てないけど……、何かあったのか?」

「実は1時間ほど前に畑が心配だからって外に出たの、10分程で戻るって言ってたのだけど、それから帰ってこなくて。雨風がひどかったからどこかにお邪魔してるのかと……」

「こんな日に畑へ? 心配だな」


 ミルさんはかなり焦っている。居ないと分かると周りの様子をちらちらと見ていた。ジェイドさん、どこかで雨宿りしているだけなら良いのだが。父は少し考えてから冷静に話す。


「もう少しで日も暮れる、一人じゃ危険だ。何人かに声を掛けてみんなで探そう」

「へベル、アグリ。少し出てくるから待っていてくれ」


 父は光の魔石を持って準備を始めた。


「お父さん、俺も……」

「だめだ。危険だから待っていてくれ」


 くそ。そりゃそうか。こればっかりは父が正しい。でも何か俺に出来ることは無いだろうか。ミルさんがここに居てジェイドさんが行方不明。ミルさんが俺の父と同じ判断をしたとするなら、ジュリは今……。


「ミルさん、ジュリは今どこに?」

「家にいるわ」

「一人?」

「えぇ、そうよ」


「お父さん、ミルさん。俺ミルさんの家でジュリと待っていちゃだめ? 家で待つだけなら危なくないし、ジェイドさんが入れ違いで帰ってきたら知らせる人も必要でしょ?」


 父は少し考えて「よし」と頷いた。


「分かった、なら任せる」

「アグリ君、お願いするわ」


 よっしゃ、そうと決まれば俺に出来ることを全力でする。

 俺は早速準備を始めて家を出た。


 外は酷い雨と風で、この体では風に流されてしまいそうだった。それでもジュリの心細さの方が大変だろう。何とか地面に這いつくばりながらジュリの家に到着した。


 ジュリの家のドアをノックすると勢いよくドアが開いた。


「お父さ……。アグリ? どうしてここに?」


 中に入れてもらい、あった事を説明した。ミルさんも父が付いていると伝え、安心したようだった。


「そっか、ありがとうアグリ」


 俺は部屋に入り、ジュリが用意してくれたタオルで頭を拭いていた。ジュリはお茶を机に置いて隣に座った。やはり、父が心配なのだろう、自ら何かを話すことなく、何もない場所をじっと見つめ続けている。


「お父さん、家を出る時に何か言ってた?」


 ジュリは考えるように首を傾けた。何か見つかる手掛かりがあるかもしれない。


「少し前から、美味しい物を食べさせてやるって言ってたわ。教えてと頼んでも秘密って」

「美味しい物?」

「甘い物らしいけど、楽しみにしててっていつも話してた。今見に行ったのも、たぶんそれね」


 その時、脳裏をよぎったのは前の世界の事だった。台風の時期、お年寄りが畑や田んぼが心配で見に行って帰ってこないニュースが毎年のようにやっていた事を。

 いや、大丈夫だと、急いで考えを振り払った。俺が不安そうにしていたらジュリも余計不安になってしまう。


「アグリ、お父さん返ってくるよね……?」

「あぁ、必ず」


 日が完全に沈み、ここから見える外の景色は暗くなっている。雨が外壁に打ち付ける音と、家が風で揺れる音が部屋中に響いているのに、ジュリの呼吸がより大きく聞こえているのはなぜだろうか。


「ジュリ、お腹空かない?」

「うん、少し」


 何もしないでただ待っているだけだと、不安の思いは大きくなるだけだ。お腹が減ってては、身も持たない。それで俺は、家から持ってきた鞄から竹皮に包まれた物を2つ出した。


「開けてみて」


 ジュリが紐を解くと中から米の塊が2つ顔を出す。


「これは?」

「おにぎりって言って、お米を握って食べやすくした物だよ」

「葉っぱに包んである」

「うん、畑の近くの林に竹があって取ってきた、ばい菌とかも防いでくれるんだって」

「アグリは物知りね」


 ジュリは関心しながらおにぎりを手に取り「いただきます」と小さく言ってから、口に運んだ。


「美味しい、甘くて冷えてても美味しい」


 ジュリの顔に、少し笑顔が戻ったみたいで本当に良かった。

 ジュリはさらに食べ進めていくと、口の中でカリッと音がした。


「ん、何か入ってる」

「何だと思う?」

「なんだろう」


 ジュリの口の中からさらにカリカリ噛む音がする。気持ちのいい音だ。正直、口に合うか分からなかったが、何事も経験だ。まずいと言われたらそれはそれでショックだが。


「分からないけど、お米とすごい合っていて美味しい」

「良かった。入ってるのは『たくあん』だよ」

「たくあん?」

「大根を干して、それを塩と米ぬかで漬けると、これが出来るんだよ。お父さんが採った大根の中に少し痛んでいたのがあったから、食べられる所だけ漬けてみたら上手くいったんだ」


 たくあんは漬けていれば年中食べられるから保存食にもなる。材料も農家なら、ただで用意できるし簡単だ。

 ジュリの不安が少し和らいだのを確認し、俺もジュリとおにぎりを食べお腹を満たした。


「ありがとう、アグリ」


 ジュリはそう呟くと俺の肩に寄りかかって目を瞑った。

 いつの間にか俺もジュリに寄りかかり眠ってしまっていて、家のドアが開く音で目が覚めた。玄関に目を向けると立っていたのは、雨に濡れたジュリの母ミルさんだ。

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