ぼくの足下で石が跳ねた

紫鳥コウ

ぼくの足下で石が跳ねた

 避暑地の奥から停車場へと走る俥から見える松の並木は、霜の降りた入り江から吹く風を受けて、ぼくの代わりに震えてくれていた。昨晩届いた義兄からの一報は、驚嘆するに値する内容だったけれども、赤切符を握りしめるほどの口惜しさも、こんな日に限り混雑していた一等客車への苛立ちもない。あの一報に書かれていたことは、ぼくになにかしらの焦燥を与えるほどの一事には、どうしても思えなかったのだ。

 むしろ、残酷な感動のようなものがあった。のみならず、ぼくの心配というものは、彼女とあの男との関係のことばかりに向けられていた。

 ぼくが留守にしているあいだに、なにか間違いが起きてしまっては困る。が、父の死によって生じる財産の分配の問題であったり、彼が方々に残した借銭の返済だったり、種々雑多な後始末のために、しばらくはあちらに拘束されることになるだろう。

 ぼくは喫煙室の方へと行き、朝日に火を点けた。その紫煙は向こうの窓から見える鯰の背中のような色をした大海のために、どこか湿っぽい匂いを纏っている気がした。

 それだけではない。ぼくをさらに不愉快にさせたのは、制服の金釦をひとつ無くした角帽を斜にかぶった学生が、「これは××先生ではございませんか。私は或る同人の主催をしておりまして、今度、悪魔主義的な戯曲を書こうと……」などと話しかけてきたことである。

「先生がこの前発表された短いものがあったでしょう。あれは正直、駄作ですよ」

 堪えきれぬほどの不愉快に沈黙することもまた愉快ではなかったので、ぼくはとうとう、この学生に冷笑を加えてやることにした。

「そうですか。それでは、あなたの書くものというのは――」

「あれは、先生の身辺のことですか?」

 ぼくの冷ややかな剣は、振りかぶっただけになってしまった。

「あれほど俗悪な主人公が身辺にいるからには、たいそう苦労なされていることでしょうね」

 ぼくは遂にこの角帽の佞悪な魂胆を見抜き、いよいよ怒鳴り散らかした。

 その「俗悪な主人公」というのは、紙の上に生きるぼくのドッペルゲンガーだった。そしてそれは、或る座談会においてうっかり告白していたことだった。そのために、幾人かの批評家は、ぼくに対しての不名誉な称号を、軽佻浮薄な文章のなかに度々忍ばせた。そして或る作家などは、先月の文藝時評において、――ぼくは二本目の朝日を内ポケットから抜き取った。

 ぼくはもう一度、彼女とあの男との関係について考えずにはいられなかった。もう既に千切れそうになっていた二人の関係を、不純な動機から残酷にも截断した自分のことを、そして二人に働き始めている侮れない治癒力のことを――が、こうした痴情というものは、ぼくにとって一つの藝術的題材にもなってくれていた。


 義兄は父を看取った一人であった。のみならず、ぼくを辛辣に批判する批評家の仲間入りをしようとしていた。ぼくの作品の不健全さと、今回の件における不孝と、なによりぼくの退廃的生活に対して、厳然たる忠告を加えるのに忙しなかった。

 ぼくたちは対面に座しながら、敷島と朝日の煙のなかでウヰスキーを飲み、最後には殴り合った。その仲介はぼくの姉が引き受けざるをえなかった。

 ぼくは家を飛び出ると坂道を下り停車場へと歩いて行った。が、電車に乗るのに充分な金がなかった。仕方なく、記憶を頼りに湯屋の方向に進み始めた。すると、どこからかピアノの音が聞こえてきた。顔を上げると、見越しの松の合間から洋館めいたものが見えた。

 涙がでてきた。いままでに聞いた音の中で、一番、ぼくにとって美しく、それ故に残酷なものだった。美は、ぼくから遠くにあるものであり、美と反対のものばかりが、ぼくにまとわりついている。

 路傍にごつごつとした小さな石が落ちていた、これをあちらへと投げて、もし窓が割れたならば?――しかし、この誇り高き松はその空想を阻んだ。ぼくは舌打ちをひとつして、元来た道を引き返していった。

 遠くから喇叭の音が聞こえてきた。きっと、豆腐を売りにきたのだろう。

 その喇叭が、あのピアノの音色を制圧してくれることを祈りながら、それでもあのピアノの演奏者の――そんな想像の最中に、ぼくの藝術的感性が疼いた。

 朝日とマッチを買うついでに店の奥にある電話を使い、次に短篇をひとつ書くことを或る出版社に約束をして、金の工面をしてもらった。

 そして、インクと原稿用紙を買い、或るホテルの一室を借り、あの洋館のことを思い浮かべながら、迷いなく最初の一文を書いた。


《ぼくの足下で石が跳ねた》


 が、二つめの文は容易に升目の上を走らなかった。むろんそれは、続く接続詞の問題だった。

 ぼくはベッドの上に身を投じて、目を閉じた。すると今度は、遠い過去から、流行歌を諳んじる父の声音が響いてきた。

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