第9話 逃しはしない
三匹は、激しい怒りの感情をあらわにしながら、身体を低く構えた。
暗闇を引き裂く蒼い月明かりが、地面に転がった白いいくつかの塊を照らし出した。
右の手首であった。
白く華奢な細い指が彫像のように大きく開き、空を掴もうとしていた。
見慣れた義雄のサンダルを履いた足が、膝下の部分だけ転がっている。
何も考えない。何も想像しない。転がっているものは見えたが、見ない。何が起こったのか、わかったが、わからない。
胃の内容物が喉元まで熱く上がり、胸を焼き吐き気を催す。背骨から全身を侵していく経験のない冷気に、身体のすべてが凍りついていった。
「おれの獲物だ。おれに任せろ」
熊顔の獣が牙を剥き出し、他の二匹を威圧する。今にも跳びかかろうとしていた他の二匹は、熊顔の威圧に不服そうに鼻にしわを寄せたものの、構えを緩めた。
神介は木刀を握りしめたまま凍りついていた。心臓の鼓動が全身を揺らす。身体中のすべての毛が逆さ立ち、背筋を冷たい汗が流れた。
「ぃやあっ!」
圧倒的な恐怖心に身体が支配される直前に、木刀の剣先にすべての気合いを込めて打って出た。剣道五段の義雄でさえ、何度も倒した、神介得意の突きである。
神速の突きが、熊顔の獣の喉を突き破る気迫で走った。避ける暇もなかった。光の筋が走るように、木刀の剣先が生物の弱点である喉に吸い込まれていった。
「ガッツン!」
岩であった。コンクリートであった。
いや、まるで・・・・・鋼であった。
突き破るはずであった剣先は、喉元で空しく砕けた。神介の両手に剣先のない木刀と、冷たい痺れを残して。
「バカが、そんなもので何とかなると思ったか」
熊顔のざらついた思念が頭の中に響き渡り、月明かりに濡れて赤く穢れた口許が笑ったように歪んだ。
「グフッ、グッ、グッ・・・・・」
控えた二匹の思念も明らかに笑っていた。圧倒的な力の差を確信しながら。熊顔が一歩、歩を進める。吐く息の生臭さが脳に滲みる。
神介は、金縛り状態であった身体を、強い意思で動かし、1メートルほど後ろに跳び下がった。
「逃がしはしないぞ」
熊顔は慌てず、ゆっくりと、その場で姿勢を低くし、獲物に飛びかかる体制を整えた。
手には、剣先の折れた木刀のみ。無敵のはずの突きも、岩のような皮膚に僅かな傷をつけたのかどうかも、定かでない。
歯がカチカチと鳴っていた。足の裏が地面に貼り付いていた。腕が足が、いや身体全体が、細かな震えで揺れている。
敵わない。五感の全てが、木刀のひと突きで理解していた。
熊顔の獣が四肢に力を込めて、獲物に向かって跳躍する寸前に、神介の耳に悲鳴が突き刺さった。
「神介! 助けて!」
微かな美紀の悲鳴が、経験のない恐怖に縛られていた神介の身体に電流のように走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます