家族の誕生日会

黒メガネのウサギ

家族の誕生日会

 キッチンに立っている女は、鼻歌まじりにリズムよく包丁を動かしている。切られていくたまねぎは、細かくみじん切りになっていく。たまねぎをおさえる左手の薬指にはきらりと光る指輪があった。

 フライパンに油を薄くひき、ガスコンロの火にかける。熱せられたフライパンの油の粘りが減っていき、さらさらと水のように変化していく。

 切ったたまねぎを熱したフライパンにいれる。

 油と玉ねぎの水分がはじけ合う音が響く。薄くひかれた油にたまねぎがからまっていく。白く細かいたまねぎが少しずつその色を変えていき、少しずつアメ色になっていった。その名前の通り、少しずつ甘い香りがフライパンの中からあふれ出してくる。

 甘い香りを放つたまねぎを、別のボウルに入れ、冷蔵庫の中に入れる。冷蔵庫にはぼうるが一つ入っていた。それを取り出すとひき肉が入っていた。ひき肉が入ったボウルを冷蔵庫の中から取り出し、塩とこしょうをふりかける。赤と白がまじったひき肉に白と黒の粉が重ねられていく。

 女はキッチンの戸棚から使い捨てのビニール手袋を取り出す。手の形に合わせて作られたそれに手を通す。ピッタリとしたものではなく、適度にすき間があってつけ外しができやすいものだ。それを両手に着け、ボウルの中身を混ぜ始める。

 最初に握りこんだ時に力が入りすぎたのか、ひき肉が指の間から勢いよく飛び出していく。

「あらら……ちょっと力が入りすぎたかしら」

 女――葉子ようこはそう言いながら飛び散ってボウルから飛び出したひき肉を、空いた手で器用につまんで流しの三角コーナーの中に捨てる。中に入れてある水切りネットにひっかかり、粘り気を帯びたままゆっくりと底の方へ落ちていく。

 葉子は再びボウルへと意識を戻して、今度はゆっくりと中身をまぜ始めた。

 再開された鼻歌と粘着質な音がまざっていく。

「今日は弘樹ひろきの誕生日だから、好きなものをいっぱい作らないと」

 葉子以外誰もいないキッチン。そこで誰にともなく話していた。

 葉子は夫と子供たちを送り出した後、すぐに料理へと取り掛かっていた。弘樹の誕生日という大切な日を祝うために。

「育ち盛りの男の子だからね。お腹いっぱい食べてもらいたいし」

 葉子の母としての気持ちが口からあふれてくる。料理をしている顔も晴れやかなもので、弘樹に対する愛情をこめて料理をしているのだろう。

 鼻歌を繰り返しながら、葉子はゆっくりとひき肉をまぜていった。

「そろそろいいかしら」

 ボウルから手を出してビニール手袋を抜き取り冷蔵庫へと向かう。冷蔵庫の中のたまねぎをだし、まぜていたひき肉へと入れていく。再び手袋をつけ、優しい手つきで赤と茶が一つのものになるように変化をさせていた。葉子はその変化をただじっと見ていた。

 突然、葉子はボウルの中身を力の限り握りつぶした。ビニール手袋の隙間から、出てきた肉とたまねぎに、まるで八つ当たりをするかのように何度も何度も握りつぶしていく。それは逃れようとしていても許さない、そんな思いすらのせているようでもあった。幾度となくボウルの中身たちに何かの強い思いをぶつけていた葉子。

「…………これ以上したら、おいしくなくなっちゃうわね」

 しかし、再び穏やかな声でいうと、今度はやさしく一部だけを取り出す。取り出した量は、葉子の小さな手の平におさまる分量だった。それを一人でキャッチボールをするように何度も両手を行き来させる。時折、強く投げるのか、取り落としそうになる。やがて、平たくなったそれ——ハンバーグのタネをバットに置いた葉子。

「喜んでくれるかしら。ちょっと心配だわ」

 いいながらタネをなで、成形していく。それを何度か繰り返し、やがてバットの中に並べることが難しくなった時、ふと何かに気づいたのか、葉子がタネから目を離す。

「あら? あっちの蛇口、出しっぱなしだったかしら」

 葉子はビニール手袋を外して、ダイニングテーブルの横を通り、そそくさと部屋から出て行った。

 テーブルにはキラリと光る何かが置かれ、少しだけ濡れていた。


 電子レンジから時間が経過したことを告げる軽快な音楽が流れてきた。葉子はミトンをつけて電子レンジの扉を開く。湯気と熱が開放されて葉子の方へとあふれてくる。電子レンジの中には白い器があった。葉子は器の下に設置してある黒い皿をゆっくりと引き出す。その手つきは慎重そのもの。現れた白い器の中にはきつね色に焼きあがったものが入っていた。

 焼きあがっている生地の状態を確認する。ふんわりとした感触が葉子の指に伝わり、生地も指に付いてくることはなかった。それは柔らかく焼きあがった証でもあった。

「よし! 上手く焼きあがった」

 スポンジ状に焼きあがった生地を葉子は器から皿へと外していく。解放されたスポンジは皿の上に柔らかさを示すように軽く弾んだ。白い湯気とともにほんのりと甘い香りをただよわせていた。

「あとは冷蔵庫に入れて冷ますとして……」

 焼きあがったスポンジを皿ごと冷蔵庫の中に入れる。スポンジの周りには、熱が伝わらないように何もおかないようにしていた。

 それから葉子は近くに置いてあったボウルと生クリームとかかれた紙パックを取る。液状の生クリームがボウルの中に注ぎ込まれ、静かに波打っている。葉子はその動きを呆然と見つめていた。やがて紙パックの中から出てきていた生クリームが細い糸のように流れ出てくるだけになり、何も出てこなくなる。それでも葉子は、ボウルの中をじっと見ていた。

 少しずつボウルの中で起きていた波がおさまった時、葉子の目から涙がひとしずく流れ落ちていった。それはボウルの中に落ちて、ゆっくりとまざり合っていく。

「いやだ……どうしたのかしら」

 つぶやきながら、近くにあったティッシュで流れ出た涙をぬぐう。立て続けに流れることはないものの、目には溜まっていたようで、ふれるとティッシュの色が変わっていく。

「弘樹の誕生日なのに私が泣いたら……みんなに笑われるわね」

 リビングに目を向け、今はいない家族のことを思う葉子。普段なら賑やかなはずのリビング。

「自慢じゃないけど、弘樹はみのるさんに似てカッコよくなったわ。きっと女の子にいい寄られてるんでしょうね。実さんは今もモテるけれど……。あのとき……私のことを選んでくれて本当に嬉しかった」

 反対の目からこぼれそうになる涙をティッシュでおさえる。涙でぬれたティッシュを葉子は握りつぶす。

 それからキッチンを出て、リビングへとむかう。途中、ゴミ箱をいちべつし、乱雑に捨てる。それからリビングにあるチェストまで歩く。その上の写真たてをじっと見つめてからそっと手に取った。中には家族四人の姿が写しだされていた。

 葉子が写真の左上に立ち、その下で息子の弘樹を後ろから軽く抱きしめていた。弘樹は嫌がっているような表情を見せず、くったくのない笑顔で写っている。葉子の隣には葉子よりも背の高い実が写っており、彼の手はそれぞれ葉子と実の下に写る良枝よしえの肩に置かれていた。

「そういえばこの時、いつもは眼鏡をかけているのに家族全員で写真をとるからって、わざわざコンタクトにしてたっけ」

 実の下に写っている良枝は長くきれいな黒髪を右肩から前に流していた。

「それにお姉ちゃんも美人になった。私なんかと違って、あんなにキレイになったら、実さん、お嫁に行かせられないんじゃないかしら。

 娘をお前なんかにはやらん。とか、実さん、いうのかしらね。

 私の両親に挨拶に来た時には、わりとあっさりと承諾してもらったから、案外すんなり認めちゃうのかもしれないし」

 葉子は静かに自分の左手の薬指をみる。そこには永遠の愛を誓いあった証があった。長い時間をともにしてきた指輪は、送ってもらった時よりも少しくすんでいるな、と葉子は思う。それでも大切なものであることに違いはなかった。

 葉子は写真たてを少しだけ強めに叩きつけるように、元の位置に戻す。写真立てが小さく揺れながらバランスをとり、何とか倒れずにいた。

 それから目の下を指で触れて、涙が止まったことを確認し、キッチンへと戻ってハンドミキサーを手に取った。ハンドミキサーには二本のビーターと呼ばれる小さな泡だて器がつけられるようになっていた。葉子は慣れた手つきでその二つをつける。ミキサーのスイッチを入れると、ビーターが低い駆動音とともに高速で回転をはじめる。二つのビーターはその金属の部分がぶつかり合わないように作られていた。

 動作を確認した葉子は、一度ハンドミキサーの駆動を止め、ボウルの中に入っている生クリームの中にビーター部分をゆっくりと沈める。ボウルの中で生クリームが少しだけ波打つ。葉子が再びミキサーのスイッチをいれると、勢いよく回転した二つのビーターが生クリームをかくはんしていく。

 その生クリームの様子をみながら、何を思ったのか葉子はハンドミキサーをボウルから持ち上げた。ビーターには、生クリームがついたままになっていて、回転した勢いのまま周囲に真っ白な粒をまき散らしていく。そして、今度は勢いよくボウルにハンドミキサーを突っ込む。ボウルに叩きつけられたビーターが、その機能に従って中に残っていた生クリームをまぜ続ける。しかし、葉子が再びハンドミキサーを上げたので、辺り一面にビーターについた生クリームが勢いよく飛び散る。それから感情の色を失った葉子が何度もハンドミキサーをボウルに叩きつけては出すということを繰り返した。その力は回を重ねるごとに強くなっていき、ボウルの中身はどんどんと減り、少しずつ金属の臭いが立ち込めてくる。

 やがて、ボウルの中にあったはずの生クリームは、そのほとんどがキッチンや床、流し、それから葉子自身についていた。ハンドミキサーにつけられたビーターが回転する音と金属どうしがぶつかり合う音だけが静かに響いていた。

「…………あら? 大変! 私ったらなんてことしたのかしら!」

 突如、我に返った葉子はボウルとハンドミキサーを置いて、流しにしゃがみ込む。流しの下にあった扉を開くとそこにはバケツとひどく真新しい雑巾があった。その雑巾で飛び散った生クリームの掃除を始める。ただ、、白いはずの生クリームがところどころ桃色に変色している。

「床に汚れでもあったかしら? こんな大事な日に抜けていたわ」

 葉子は小首をかしげながらあちこちに飛び散った生クリームを丁寧にふき取っていった。きれいになった床をみて、葉子は口の端をあげてほほ笑む。

「よかった。すぐに拭いたからきれいに落ちたわ」

 葉子は床に穴が開きそうなほどじっと見ていた。雑巾を握りしめながら床をただただ眺めていた。

「さて」

 雑巾をゴミ箱の中に叩きつけるようにして捨てる。

「新しい生クリームを開けて作らないと」

 キッチンの流しで手を洗いながらつぶやくようにいう葉子。蛇口を閉めるが、どこからか水の流れる音が聞こえてくる。決して蛇口を全開にして流れ出ているような水の音ではなく、締め忘れた時に、ちょっとずつ溢れているようなそんな音。

「お風呂、流しっぱなしだったかしら? さっき洗ったあとに閉め忘れちゃったのかも……」

 葉子はキッチンにかけられているタオルで簡単に両手の水気だけをふきとり、そそくさとキッチンを出ていく。そのタオルには何かのシミが色濃くついていた。


 リビングの中には色とりどりの飾りがかけられていた。折り紙で作られたチェーンの飾りや天井や壁にもデコレーションシールで星や旗の飾りなど、多種多様なものがつけられている。ダイニングテーブルの真上には、天井から、ハッピーバースデー、の文字が吊り下げられている。そのどれもが変わった色になっていて、何かのグラデーションがあしらわれているようなデザインになっている。それが何なのか、葉子には見当がついてはいなかった。

 葉子はキッチンに置かれている白いビニール袋をみる。

「あれ、忘れないようにしないとね。……それにしてもみんな遅いわね。どうしちゃったのかしら?」

 葉子はイスに腰掛けながら、リビングの中の飾りと時計を交互に何度も見る。しかし、家族の誰も帰ってきてはいない。

「…………用意だけしようかしら」

 小さな声で宣言するように口にしてイスから立ち上がった葉子。チェストの上の写真が目に入った。

 家族四人の幸せな写真。

「…………あれ?」

 ほんの一瞬、葉子にはその写真たてが割れているように見えた。写真の中心から家族四人を引き裂くようにひびが入っているように。写真たての下の方は少しだけ欠けていて、何かの拍子に落としてしまったかのように。葉子は反射的に写真たてに近づいていった。目を離すことなくみていたそれはやはりひび割れているように見える。

 葉子が写真たてを手に取ってみた時だった。割れていると思った写真たては、傷一つなくキレイな状態を保っていた。

「…………さっきのは、なんだったの?」

 写真たてをじっくり見るが、どこにも傷はなく、欠けたような跡もなかった。写真の中で家族全員が笑っている。それも変わらない。文字通り幸せを象徴する写真。

「張り切りすぎて、疲れてるのかしらね。それとも……待ちくたびれちゃったのかな?」

 そんなことを一人でつぶやきながら、静かに写真を元の場所に戻す。

 その時だった。

 彼女の目の前に明るい茶髪の女性が立っていた。ちょうど葉子の娘の良枝と同じくらいの背格好の女性。髪の長さもほとんど良枝と同じ。しかし、髪の色が明らかに違うこととうつむき加減でいるので葉子にはその女性の顔をみることができず、誰なのかわからない。

「あなた…………どなた? どうやって入ったの?」

 葉子はおそるおそる目の前にいる女性に問いただす。最初は何も反応することなく、ただじっと下を向いている女性。もう一度、どなた、と聞くが答えはない。

 仕方なく、顔をみるために少しだけ腰をかがめて下からのぞきこもうとする。すると、今まで何度声をかけても動く様子を見せなかった女性が勢いよく顔をあげ、葉子を見る。その顔は葉子の娘、良枝のものだった。しかし、いつもかけていたメガネはなくなっていて、代わりにあきらかに敵意を持った目で葉子をにらむように見てきていた。

「どうだっていいだろ! アンタに関係ない! どこに行って、何をしようがあたしの勝手だろ!」

 その良枝が突然、怒鳴ってくる。葉子の知るいつも優しい美人になった良枝とは明らかに違っていた。違っているはずなのに、その声は良枝のもので間違いなかった。

「——っ」

 葉子は驚きとあまりの恐ろしさで、声すら出ず頭を抱え、目をつぶり、しゃがみ込んでしまう。良枝はこんなことをするはずがない、目の前にいるのは良枝ではない。そう思いながら、良枝の怒りがおさまることをただ待った。静かに何も抵抗することなく、まるで嵐が過ぎ去ることを待っているかのように。

 しばらくそうしていると、良枝から次の言葉が発せられることはなかった。良枝がいるのか、それとも違う誰かなのか。それを確認するためにゆっくりと目を開けて、足元をみる。リビングの床は見えたが、その他に見えるものはなかった。少しずつ、視線をあげていくがそれでも誰の姿もなかった。

 そこにはさっきまでいたはずの良枝の姿もない。気配や足音、息遣いや体温すらなく、いつのまにか、かき消えていたのだった。

「よ、良枝……?」

 葉子はいたはずの良枝を探すため、リビングを見回す。ソファにもチェストの近くにもキッチンにも、どこにも良枝どころか人の姿はなかった。良枝の姿を見つけることができなかった。。

「ど、どこに行ったの? いったいどういうこと? お姉ちゃん、何を言っているの?」

 葉子はおろおろとしながら、消えた良枝に話しかけるが、返事がくることはなかった。良枝の痕跡は何もない。改めてリビングを見渡すと、視界の隅、廊下に続くドアの辺りに何かがうつりこんでいた。さっきまでは何も見えなかったはずなのに、私はおそるおそる見えた方へと視線をうつしていく。

 そこには一人の人物が立っていた。

 最後に散髪をしたのはいつのことなのか。それがわからないほど伸びた髪は、まるで黒いカーテンのようになっていた。その隙間から髪の毛とは異なる毛のようなものが見えた。それがひげであることにすぐ気づくことができなかった。

 この人は男の人なのか。そんなことを考えながら、葉子は目の前の人物を見る。

 目の前の男の服装はゆったりとしたというのを通り越して、よれきってしまっているジャージを上下できており、お腹周りは突き出ていて苦しそうにも見える。ジャージの袖口には何かの染みがついていた。見えている手足にはたっぷりと脂肪がついていて、手は真っ白で血が通っているのかわからず、足も同じく白く爪だけがひどく分厚く伸びていた。およそ生気というものを感じることができず、ずっと日の当たらないところにいたのではないか。そう思うのと同時にこの人物もまた、いつの間に現れたのかという疑問が浮かんできた。

「あっ、あなたは……だ、誰なんですか?」

 つっかえながらもたずねる葉子。さっきと同様、この男もまた一言も話さず、何の反応も示すことはない。

「だっ、誰なんです、か?」

 搾りだすようにして出した声に男はわずかばかり頭を動かす。髪がゆれ動き、隙間ができる。その隙間から黒い瞳が葉子をのぞき込んでいた。その黒い瞳と葉子の目がまっすぐに合う。

 その時だった。

「……だ……」

 男が音にすらならないほどかすかな何かを発していた。

「えっ? なんですって?」

 何かを言っていることを感じとった葉子だったが、自分の耳には届かず、聞き取ることができなかった。恐怖はあったものの再び問いかける。

「……ぼく……だよ……」

 今度ははっきりと聞き取ることができた。葉子の耳に届いた声は聞き覚えのあるものだった。それに、この男の目も見たことがある感覚にとらわれていた。

 葉子は頭の中で目の前の男が誰なのかを思い出そうとしていた。そして、突然、その人物が浮かび上がってきた。それは葉子の記憶の中の人物とは似ても似つかない人物だった。

「ひ、弘樹? 弘樹なの?」

 思わず口をついて出た言葉。

「……そ、そうだ、よ。……弘樹、だよ」

 男は自分が弘樹であると伝えてくる。

 しかし、葉子にはあまりにも変貌してしまった自分の息子が目の前にいるとは、理解ができなかった。一歩足を進めながら、葉子の口から声がもれていた。

「な、なんでそんな——」

「う、うるさい!」

 突然大声をだす弘樹。その声に驚き、近づこうとした足が止まる。大声を出した瞬間、長い髪がさらに動き、顔が見えた。のぞき込むことができていた黒い瞳は生気が感じられず、目ヤニが目頭と目じりに岩のようについている。鼻はその全体がブツブツとしたものがついている、穴からは何本も毛が飛び出てひげと混ざり合っている。ひげの向こうにみえる唇は分厚く乾燥し、ひび割れている。そこからのぞく口の中にはがたがたになっている歯が見え、黄色だったり黒だったりと変色し、歯と歯の間には何か変わった色のものがこびりついている。

 記憶の弘樹とはかけ離れた存在の弘樹が目の前にいた。

「ぼ、僕はイヤなんだ! どこにも行きたくない! ずっと家の中にいる! 自分の部屋にいる! どこにも行かない! 何もしたくない!」

 くぐもった声で叫びながらリビングを飛び出していく弘樹。その彼を葉子は追おうとして一歩を踏み出した時だった。

「だからお前はダメなんだよ」

 後ろからかけられた声に、また足が止まった。さっきまで誰もいなかったはずのリビングに入れ替わりあらわれる人物に、少し恐怖を感じながらゆっくりと声のした方を葉子は見た。

 そこには夫の実がいた。容姿は結婚したときと変わらず、記憶の中の実だった。服装もいつものスーツ姿だったが、ネクタイを少し緩めているところが違う程度。しかし、その表情はいつもの優しい夫ではなく、鋭い眼光は冷たさを帯び、葉子を射抜いていた。

 葉子はそんな夫の表情を、冷たい瞳を知らなかった。体が固まって動くことを許してはくれない。

 その様子をみていたのか、実がため息混じりに告げてくる。

「もう一度いう。だから、お前はダメなんだ。専業主婦のお前がしっかりしないから良枝も弘樹もおかしくなった。おかしくなったんだ、お前がしっかりしないから! 家事をして、教育をしないから! どう責任取ってくれるんだ? 俺にも立場ってもんがあるんだよ。お前と違ってな。俺は、社会に出て、働いているんだ! 地位も責任もある立場なんだ! そして、いい夫、いい父親としてやっているんだよ!」

 まくしたてるようにいってくる夫の言葉に葉子は崩れ落ちる。その言葉は葉子の心を刺してくる。何度も何度も。ためらうことなく。

「そ、そんな……私は一生懸命やっているのに……」

 唇を震わせながら、なんとか答える葉子。

 実は、はっ、と言いながら続けてくる。

「すばらしい一生懸命だな! 子ども二人を見事におかしくしてしまった。一人は夜遊びを覚え、一人は家から出ることをしなくなった。もう一度いうぞ? お前が二人をおかしくしたんだ! 良枝も弘樹もお前がおかしくしたんだ! それがお前のいう一生懸命か? すばらしい専業主婦だな! 感心するよ! 昼間いったい何をしているんだか、な!」

 頭上から降り注ぐ実の放つ言葉の刃に、葉子の心と体は動くことをやめ、その場でうずくまってしまう。葉子の視界にはリビングの床だけがうつっていた。

「————の————こん————お——あ————はさ——————あるか————は——え————し——け」

 音が少し聞こえにくく感じる。実が何か話しているのに上手く聞き取ることができない。何を言っているのか、確認をしたい。しかし、葉子は顔をあげることも声を出すこともできなかった。ただじっと伏せたまま床を見つめていることしかできなかった。

 ふと葉子は気づいた。その床には何かを拭きとったようなシミが見えていたことに。


 葉子がダイニングテーブルに来ると、そこには三人の人物が座っていた。彼らはみな一様に下をむいている。まったくといっていいほど動く様子は見えない。ただじっと下をむいたまま座っていた。

 そこに葉子がキッチンからやってくる。三人をほんの少しだけ鋭くにらんでから、ニッコリと笑顔を浮かべる。

「あら? みんなどうしたの? せっかくの料理、冷めちゃうわよ」

 葉子が声をかける。誰も答えることはなかった。

 三人の座るダイニングテーブルの上には葉子が腕によりをかけたハンバーグをはじめとする多くの料理が並べられていた。並べられた料理から、出来立てであればあるはずの湯気はあがっていなかった。それにテーブルの真ん中には不自然な空間があった。しかし、それを誰も指摘することはない。

「ああ、そっか」

 葉子は両手を叩いて、何かを忘れていることを思い出す。それから軽い足取りで冷蔵庫へと向かう。冷蔵庫の扉を開けると冷気が漏れ出てくる。中にはイチゴがあしらわれたショートケーキがあった。

 丁寧に冷蔵庫から取り出してケーキを確認する葉子。上手くできたと自分でも思っている。生クリームのデコレーションは均等にできたし、上の部分のクリームのしぼりやイチゴもみんなが食べられるようにバランス良く配置できた。ケーキの真ん中にはホワイトチョコのプレートが置かれ、そこにはハッピーバースデーヒロキとかかれていた。

 見ているだけで思わず笑みがこぼれてくることをおさえることができなかった葉子。ケーキを落とさないようにしながら、軽い足取りでダイニングテーブルへと運んでいく。

「お待たせっ! これを忘れていたわっ! ごめんね、ドジなお母さんで」

 いいながらダイニングテーブルの真ん中にそっとケーキを置く。

 うつむいたままの三人はやはりケーキにもまったく反応を示さない。

「さて、これで……あっ!」

 慌ててキッチンへと戻る葉子。

「これこれ」

 いいながら、白いビニール袋をとり、ダイニングテーブルへと戻る。

「忘れないようにしてたんだけどね。みんなもわかっていたなら言ってくれればいいのに」

 袋から取り出したもの、それは細いカラーろうそくとライターだった。葉子はろうそくを均等にショートケーキの上にさす。並べ終えたところで、ライターを手に取り、火をつけていく。すべてのろうそくに火が灯る。葉子は少しだけその火を見つめていた。

「さて、それじゃ電気を消すわね」

 リビングの入り口にある電気のスイッチまで歩いて行く葉子。その足音はなぜか水気を帯びたものだった。

 スイッチを切った時、葉子の頬には、水分がついていた。それを葉子はぬぐうがろうそくだけの薄暗い世界ではそれが何なのかわからない。粘着質な音を足元で立てながら葉子がダイニングテーブルまで戻る。

「弘樹! お誕生日おめでとう! さぁ、ろうそくの火を消して!」

 葉子は三人の動く気配のない人たちにむかって声をかけていた——。


「次のニュースです。

 昨夜未明、〇〇町の〇〇宅から火が出ていると付近の住民から通報がありました。警察によると焼け跡からは四人の遺体が見つかり、連絡のとれない〇〇さん家族とみられています。現在、出火の原因を調べています。

 火はおよそ一時間で消し止められましたが、二階建ての住宅一棟が全焼し、居間から四人の遺体が発見されました。

 現在司法解剖に回されていますが、遺体からは煙を吸った様子がないため、無理心中の可能性が高いとして、警察による捜査がすすめられています……」

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家族の誕生日会 黒メガネのウサギ @kuromeganenousagi

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