第5話

「ねえね」

 あの子が、私を姉と呼ぶ。ああ、嫌だ。本当に、気が狂いそう。私は、兄のあの「銘仙の恋人」なのだと、全てを打ち明けてしまいたくなる。兄が必死の想いで守っている、「平穏」をぶち壊してしまいたくなる。

「私は、なんと、いけない妹だろう」

 真実、病人のようになってしまった私では、きっと今あの銘仙を着たところで、美女にはなれないだろう。

 私は、濡れ縁で、日に当たっていた。ふすまを開けて、子供の足音が近付いてくる。

「ねえね」

 ああ、やはり、父親によく似ている。利発そうな面差し。隣に座って、絵本を読んでとせがむ。

「これは」

 指差す。

「さかな」「さかな」

 舌足らずの声で、繰り返す。

「いぬ」「いぬ」

 何が楽しいのか、時折、けらけらと笑う。そうして、ページを手繰って、私は黙り込んだ。幼子が頬に触れてくる。

「はな」

 絵本を持ち上げて言う。

「ねえねは、はなえ」

 笑い顔が、あの人に似ていた。堪らなくなり、子供を板間に押し倒す。ああ、愛している。憎い。可愛い。壊したい。無我夢中で、我が子と触れ合った。

 気がつくと、小さい子は失禁していた。びくびくと震えている。

 あっ。やってしまった。でも、まだ息をしている。そうと判ると、涙がにじむ。

「誰か」

 使用人が駆けてくる。

「暴漢が来て、この子を襲ったの。お願い、助けて。私の可愛い弟」

 すぐ兄が来て、弟の手当てをする。

 結局、壊れてしまったのは、私だけだった。子供はどうにか息を吹き返したが、重い障害が残ってしまったらしい。私はあの日以来、あの子の顔を見ていない。

 私は自ら父に願い出て、サナトリウムに行くことにした。兄は反対した。

「何も、はなヱさんがそんなところに出向かずとも…。私は、医師なのだよ。妹の面倒くらい見られるさ。いや、末の弟があんなことになったのだから、この家にも居辛いのかもしれませんね」

 私は、微笑んで、首を振った。

「私は、大丈夫です。月岡つきおか病院には、学校の友人も居りますのよ。お手紙をよくいただくのです。ほら、昔、子供らで勝手におリボンを交換してお兄さまにこっぴどく叱られた…。あの子ですよ」

 私はもう永くは生きられない。感染する病気ではないから、どうか一度顔を見せに来てほしいと懇願されていたのだ。

「ああ、本屋の…」

 兄も覚えているらしかった。それ以上、父も兄も何も言わなかった。

 出立の日、兄は玄関先で風呂敷包みを開けてみせた。例の銘仙である。

「これ、英ヱさんが大きくなったらいつか着てみたいと言っていたでしょう。うちには、年頃の娘がいなくなる訳だし、英ヱさんに授けようと思います」

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