第4話

 その銘仙に、腕を通したのは、ほんの出来心からだった。

 大好きな兄の生母の形見だったから、もちろん手荒になど扱うはずもない。私もこの銘仙が似合う年頃になったのですよ。ああ、そうだねと、ただ兄に笑いかけてほしかった。

 そうして、私は自身の出生の秘密を知った。

 この身を以て。兄の腕に抱かれながら、私は仏間に並んだ父の先妻と後妻の遺影を思い出していた。

 遺影の中の先妻は、まだセーラー服におさげ髪の少女だった。

 父と結婚する前、少女はすでに病で余命いくばくもなく、たとえ形だけであっても、人妻として逝きたいとの本人と両親の願いを受け容れたのだという。もともと恋人同士だったのならばともかく、父のほうでも何か事情があったのだろうと察せられる。

 間もなく、先妻は亡くなる。これで、父は免罪符を得たはずだった。

 なのに、二度目の結婚をした。後妻は、一応、父の妾だったということになっている。わざわざ好き好んで病気の少女を妻にするような男が妾。これも妙な話である。

 結局、父は兄が、息子が欲しかったのだと思う。後妻との結婚は、ついでだろう。父は、猫の仔でも拾うように、身重の少女を貰い受けたのである。

 私自身も、そんな「ついでの人助け」のうちのひとつだろうと、いつしか認識していたのだ。だって、私が生まれた頃には、すでに兄の母はこの世を去っていたのだから。

 そう言えば、兄の母は、写真の中でも銘仙を着ていたっけ。あれは、全て、人の顔が認識できない兄のためだったのだ。

 きっと、私の母も、ほんの出来心だったのだ。矢絣に黒百合の銘仙を纏えば、絶世の美女になれる。絵にも描けないほどの。

 美しい男の人に、愛してもらえる。駄目だ。どう考えたって、止められない。

 ああ、何度、銘仙を破いてしまおう、火をつけて燃やしてしまおうかと考えたことか。懊悩して、やはり、着てしまうのだ。これは、兄の母の形見だから。好き勝手には、出来ない。

 そうして、悪魔のごとき遊戯を重ねるうち、腹が膨らんできた。噂で聞いた堕胎法をいくつか試したが、駄目だった。警察に逮捕されるよりも、なお恐ろしいことがあるのだと年端もゆかぬのに理解してしまった哀しさよ。

 どうにもならなくなって、どうやら妊娠したらしいことだけを父に伝えた。きっと、父は全てを理解していたのだろうと思う。

 心労でやつれたのを良いことに、私は療養の名目で家を離れ、男の子を産んだ。父は当然のようにして、息子を養子として我が家に迎え入れた。生き地獄とは、このことかと思われた。日々、成長していく赤ん坊。面差しが、私の兄に似てくるのだ。確かに、兄にはこの子が視えない。それでも、いつ秘密を暴かれるかと、夜もよく眠れなかった。証拠を消さない限り、私に安寧の日々は決して訪れない。

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