大人の事情
新たな呪文が見つかったことを告げると、依頼主の厚彦の顔はぱっと明るくなり、その妻のフミカの顔は暗くなった。反応に落差がありすぎる。
二人の子供は丸い頬を紅潮させて「お宝だ!」「財産だ!」と騒ぎ、食堂の中をぐるぐる駆け回った後、再び外へ飛び出して行った。
他に見落としている呪文が無いか確認するため、一階の残りの部屋も見せてもらうことにした。廊下に面した二つのトイレと、食堂から繋がる厨房、その奥の居室。居室は二つあり、その他に小さめの風呂と洗面所もあった。
居室はどちらも六畳程度の洋室で、片方は色褪せた戸棚がある以外は空だった。もう片方には夫妻や子供達の持ち込んだ荷物が並び、奥の窓際の簡易ベッドでは老婆が眠っていた。
呪文は無さそうだったが、念のため満遍なく写真を撮る。
風呂の浴槽の中を見忘れていたことに気づき、風呂場に引き返して蓋を持ち上げていると、モップを持ったフミカが後から入ってきた。
「あのー……藍村さん」
「すみません、これで終わりなので」特に何の変哲もない空の浴槽の写真を撮ってから、俺は振り向いた。
「お夕飯、食べていかれます?」
「いえ、夕方には切り上げようと思ってまして。作業が残っている場合は、明日改めて伺います」
夜になると帰り道の運転がしづらくなるので、もともとそのつもりだった。
「あ、そうですか……あの、裏の魔法陣ですけど」フミカは浮かない顔で、声をひそめて言った。「財産やなんかが、出てきそうですか?」
「さあ、これから作業してみないことには、なんとも」
「あのまま、そっとしておいて頂くことはできませんでしょうか。料金は今、全額お支払いしますから」
「はあ……」どうも変なことになりかけている。「旦那さんがそうおっしゃってるということで?」
「いえ、旦那には黙って……開けたけど何も無かったというふうに、言っていただけたら」
「……とりあえずここを出ますか」
俺は狭くて声の反響しやすい浴室から、フミカを押し出すようにして廊下に出た。
厨房に引き返し、広い食堂に誰もいないのを確認すると、フミカは堰を切ったように話し出した。
「彼は今の仕事を辞めて店を継ぐって言ってますけど、あれは嘘ですよ。嘘というか、どうせしないんです。そういう人なんですから。今のところは資金が無いから仕方ないってことで収まってますけど、もし本当にひと財産なんか出てきたら、あの人は気が大きくなっちゃう。仕事辞めて、色んな初期投資をして、そして店が開店する前に投げ出すことはわかってます。今まで、何ひとつやり遂げたことがないの。一事が万事そうですから」
「なるほど」
俺は厨房から食堂へと出る通路の辺りに立って、腹の中で舌打ちしながら考えた。
俺にとって一番幸福な結末はあの枯れ池の呪文から何も出てこないことだが、うっかり本当に財産が出てきたらどうするか。解呪をしたふりをして隠蔽してしまうことは、技術的には可能だが、そんな大それたことに加担できるだろうか。厚彦や老婆ががっかりしたり納得いかないと騒いだりする前で、嘘をつき通せる気がしない。
それに、あの少女もきっと意気消沈するだろう。
「あの……お子さん方を引き取るかもという話は?」
フミカは承知しているのだろうかと、ふと気になって聞いた。
「ええ、彼が口約束してるみたいですね。まったく、何考えてるのか……子供の世話なんてどうせしないのに」
「よく遊んであげてるようには見えますけど」
「初めだけなんですよ、あの人は何でもね。貴方だって親戚の子供なんかにたまに会ったら、一日中精一杯もてなすでしょう。でも、毎日居座られて何から何まで生活を邪魔されたら、それとこれは別でしょう。特に女の子なんてこれから難しい時期なのに、絶対無理ですよ。軽々しく約束して、結局店も投げ出す、子供も投げ出す、そうなるのは目に見えてます。もしそうなったら、私は出て行くつもりでいます」
「………」
「この件だけではないんです。今までのこと、積もりに積もったものがあるんです。財産なんか全部お婆ちゃんの勘違いで、何も無かったら、それが一番平和なんですけど」
俺は少女の話を思い出しながら想像した。このまま何も見つからなければ、姉弟は受験を強要する母親と血の繋がらない義父の待つ家に戻るしかない。一方、もし十分な資金が用意されれば、一旦は少女の望み通りになる可能性があるが、何年か後には伯父は育児放棄し伯母は去り、孤児同然になってしまう。
厚彦や老婆の言い分、フミカの言い分、どちらにもある程度の筋はあり、ある程度の無茶もあるように感じる。どちらか一方にだけ肩入れするような動機や決め手が、俺には無い。
外が急に吹雪いてきたらしく、帽子に雪をつけた姉弟が食堂に戻ってきた。すぐ後に、厚彦も入ってくる。
「ホットケーキなら作れるけど、食べる?」フミカが厨房から顔を出して聞いた。
「あれ、ガス開けたのか?」厚彦は聞き返した。
「カセットコンロがあったから。缶詰のフルーツとかも出てきたけど、これも食べちゃった方がいいわね」
「結構色々残ってるんだな」
厚彦はテーブルに着きながらストーブのスイッチを入れ、温風を自分に向けた。
姉弟はどこからかカードゲームを出してきて床に広げ始めた。
こうして見る限り雰囲気の明るそうなファミリーだが、フミカの話を聞いた直後だとなんとも気まずいものを感じる。
俺は壁際に押しやられていた別なテーブルと椅子を借り、撮り溜めた写真の分析から始めた。外壁、通路、客室、厨房、風呂。やはり、南側の壁面と裏の枯れ池以外には、呪文の痕跡は無いようだ。
なるべくゆっくり作業をしたが、すぐに終わってしまった。天候のせいもあって外はだいぶ薄暗いし、早めに切り上げても不自然ではないだろう。
「裏手の魔法陣は時間がかかりそうなので、明日作業をします」
俺は厚彦に断って、厨房のフミカにも軽く会釈して、荷物をまとめた。
乗ってきた車に入ると、無意識に深い溜息が出ていた。胸の辺りが重苦しい。
こんなことは俺の仕事じゃない。俺は単に、呪文を読み解いたり整理したり、書き直したり消したりしていたいだけで、それにまつわる生者達の愚痴や悩みなど知ったことじゃない。
今日の分の実費だけでも、先払いして貰えば良かったな。そうすれば明日急に高熱が出たていでぶん投げても、赤字にだけはならずに済んだのに。
エンジンをかけ、ワイパーが窓に凍りついていないか確かめる。また無意識に溜息が出る。
この局面を一人で乗り切れる気がしなかった。
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