始まりの日へ
死者の国へ行くにはフード付きのマントをすっぽりと被り、カボチャ頭の仮面をつけ、十月三十一日の時間線から「向こう岸」へ渡る。古典的なやり方だけどこれが一番確実だ。
記憶を手繰り、手帳と見比べ、慎重に日時を決めた。現世の時間が流れない死者の国への旅行は、行く時と帰る時でそれぞれに任意の時間線を選べる。意図的に過去や未来へ移動することは厳密には違法だが、そもそもその技術を使いこなせる人間が少ないこともあって、暗黙のグレーゾーンになっている。バレない限りは、少しだけなら。
暦の上では二ヶ月前、宇宙的な規模では二年以上前。この日のこの時刻、彼が確実に現世にいたことを俺は知っている。もっと重要なのは、俺本人が現世にいないこと。異なる時間線の自分自身と鉢合わせることだけは、絶対に避けなければならない。
「わあい。
家を訪ねると、シュウノは変わらずそこにいた。
彫りの深い色白の顔に、狡そうな茶色の眼。うざったい長さの金髪。細い腕と指がくるくると動き、パックのオレンジジュースとスナック菓子を出してきた。
「ガキのおやつかよ」俺は毒付きながらちゃぶ台の前に腰を下ろした。
「だって、来ると思わないしさ。あ、知ってても出すものは同じだけど」ぐふふふふ、とシュウノは変な笑い声をあげた。「そういえば、今朝のは何だったの、結局。仕事は流れちゃったの?」
「ああ、あれはまた別で」俺は余計なことを言わないように言葉を濁した。「それとは別件なんだが、実はちょっと処理に困ってる仕事があって……」
俺は、こごみ荘での仕事のあらましと、関係者それぞれの主張をかいつまんでシュウノに話した。
季節を間違えないように、気を付けなければ。ここは二年前の秋だ。こごみ荘の様子を話すとき、真冬とわかる描写を出さないように言葉を選んだ。ここに着てきた服と上着も、秋物を出し直してあの日の自分と揃えている。「退避休眠」の効果で身体は二ヶ月しか経っていないから、顔付きや体格は変わっていないはずだ。髪型も……まあ、誤差の範囲だろう。
短く済ませてすぐ立ち去れば、この時間の「俺」との齟齬は出ないはず。他にも候補となる時間線は幾つかあったが、一番近い過去で確実に「俺」本人とかち合わない瞬間はここくらいしかなかった。
「どうもその親戚の子供二人の話は眉唾だねえ」ひと通り聞き終わると、シュウノは首を捻って言った。「養子になりたいなんて、どの程度の現実感で言ってるのか」
「だいぶ深刻そうな顔だったが」
「親が嫌なのか、勉強が嫌なのか、受験が嫌なのか。本人もそこを切り分けられていないんじゃないかな……弟くんの方は、何も言ってないの」
「そっちはまだ幼いみたいだから。状況もよくわかっていないかも」
「実母が育ててるんなら、それに越したことはないと思うけどねえ。受験に熱心なら、子育てに真剣ではあるんだろうし。何より、伯母さんの方にやる気が無いのが厳しいね。その伯父さんがどの程度の家事をやれるのか知らないけど、結局身の回りの色々は奥さんのサポートありきだろうし。子供が怪我したり病気したりとなったとき、積極的に手当ができるのも女親でしょう。少なくともお姉ちゃんの身体的なことについては、他人の男では立ち入れないよね」
「うーん」
確かに、実際に引き取るとなれば普段の生活の計画だけでなく、非常時の対応も想定しなければならないだろう。
「残りの呪文が空振りであって欲しい」俺は溜息をついた。
「まあ、そのボケババアには『財産は出てきたけど店を継ぐには足りなかった』とでも言えば?」
「ボケババアってな、お前……」
「リップサービスでいいの、形より心が大事なんだから」
「夫の方はどうする?」
「どうするかねー。案外そいつも、『足りなかった』で誤魔化せたりして」
「さすがに無理だろ」
シュウノは鼻歌混じりに笑いながら、ふと立ち上がってチョコレート菓子の大きな袋を持ってきた。
「こっちもあったんだ。食べる?」
「お菓子ばっか食ってんのか、お前は」
「ふふふ。でも藍村君も、無理はしないでねえ。先週のこともあるんだし」
「先週?」俺は無意識に聞き返してから、失敗したなと思った。たぶんあの日の前の週、風邪で高熱が出たのだ。朧げにそんな記憶はあった。「まあ、大丈夫だよそれは……」
俺はチョコレート菓子を一つ取り、ふと顔を上げた。
シュウノが茶色の目を僅かに見開いて、俺を凝視していた。
それはほんの一瞬のことで、シュウノはすぐに目を逸らし、何かを誤魔化すように曖昧に微笑んだ。
動悸がする。吐く息が震えそうになる。
気づかれている?
それでも、しらを切り通すしかない。
「君は藍村君じゃない……今の藍村君じゃないんだね」シュウノは不思議な笑みを浮かべて俺を見た。
俺はそうだとも違うとも言わず、立ち上がった。「帰る」
「なぜ、僕のところに来た?」シュウノは呑気な笑みを崩さず、座ったまま俺を見上げた。「ああそうか。そちらの君のそばには――僕がいないんだ」
口を開くが、声が出せない。俺は今どんな顔をしている。
彼の未来を、彼に教えてしまった。そして思い返せば、その後の彼の言動にも辻褄は合う。
シュウノは知っていたのだ。
「君には僕以外に友達がいないの? こういうことを相談できる、仲間や相棒がいない?」
「……いなくはないさ」と俺は言った。「人を社会不適合者みたいに言うな」
「なら、行って、その人に助けてもらいなさい」シュウノは微笑んだまま言った。「君は一人になるべきじゃない。君は
「……そうしてるよ。おかげさまで」と、俺は言った。
「なら、僕が口出しするほどのことでもないか。この先も安泰、未来は明るいね」
お前はこの後ずっと口出しし続けるけどな、と俺は心の中で呟く。どうにかして俺に、新しい人間関係を、先々で助太刀を頼める別な相棒を、作らせようとして。
お前の代わりなんているかよ、と思う。せめて代役を立てるなら、もうちょっと代わりが見つけやすい平凡な人間になっとけばいいのに。
お前がそんなだから、結局来たのは代役じゃなくて、偽物だったじゃないか。
無言で背を向ける。いずれにしろ、時間切れだ。もう帰らなければならない。
「藍村君。行ってらっしゃい」シュウノは普段と変わらぬ呑気な声で言った。
俺は部屋を出ながら、振り返らずに片手を上げた。
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