雲行き
日はまだ高いはずだが、急に雲が増えて薄暗くなっていた。丸い大きな池から吹き付ける風に、白いものが混じっている。
それでも、この時季にこの地域で吹く風にしては冷え込みが足りないような気がした。確かに寒いが、肌を突き刺すような鋭さは無い。
「スノーパークはもう稼働してるんですか?」俺は先を歩く
「ええ、まあ、予定通りスキー場開きはしましたけどね。今年は雪が少なくて」
「やはりそうですか。暖かい気がします」
「中央のコースだけ、降雪機を回してなんとか繋げたみたいなんですけどね。今週はもう解けてましたよ。だから、リフトの乗り口までコースが繋がらないんで、代わりに仮設のエスカレーターっていうのかな。ベルトコンベアみたいなやつ……あれを設置して上ってもらってるらしいです」
厚彦は立ち止まった。案内されたのは、こごみ荘の南側の側面だった。普段の冬なら、傾斜のきつい屋根から雪の塊や巨大な氷柱が大量に落ちてきそうな場所だが、今はその心配もなさそうだった。
正面玄関は丸太造り風の加工や装飾がされていたが、この側面部はわりと素っ気ないクリーム色の板壁だった。その一箇所がデッキブラシで擦ったように磨かれていて、そこに六芒星と幾つかの円を組み合わせた古典的な魔法陣と、癖のある筆記体の呪文が書き記されていた。
「如何でしょうか」厚彦は俺の顔を窺った。
「ごく普通の形式ですね。すぐ消せると思います」俺は言った。
「消して良いものなんでしょうか?」
「内容を確認してからになりますけど。大したものではなさそうです。よくある、看板というのか……電光掲示板? レストランこっちですよ、矢印、ピカピカっていう。通行人へのアピールに使われたものじゃないかと」
「えっ、えっと、それはどういう……」
「とりあえず作業をしてみて、今後の方針を確認しますんで」
依頼主には屋内で待ってもらうことにし、俺はパソコンとデジカメで作業を始めた。
雪がちらついているので、パソコンはバッグの中に入れたまま開き、濡らさないようにする。デジカメの方は市販品を改造したものだから、ある程度の防水性能はあるはずだ。
魔法陣も呪文も、汎用品を軽く調整して設置したものに見える。正直、この程度なら専門知識が無くても剥がせるもので、説明書のようなものが残っていれば誰でも対応できたはずだ。
初めにあたりを付けた通り、建物の壁面や付近の空中に文字や絵を出現させ、通りかかる客に来店を呼びかける呪文のようだった。わざわざ呪術を使うまでもない仕掛けだが、条件によっては普通の電飾広告よりも維持費が節約できたり、メンテナンスが楽になる場合があり、一応の利点はある。
意味ありげな日記とか隠し部屋じゃなくて助かった。ここ数回、現世の仕事にしろ死者の国での仕事にしろ、呪文以外の部分で事情が込み入った案件が続いていたので、すっかり気疲れしていた。
「何してるの?」
「何してるの?」
カメラを魔法陣に向けて取り込みを繰り返していると、先ほどの姉弟が建物の裏手から駆けてきて、口々に言った。
「仕事だよ」と俺は振り向かずに答えた。
「そうなの? 写真撮ってるの?」姉の方が聞く。
「まあ、そんな感じ」
「それ、なんて書いてあるの?」
「うーん。こごみ荘レストランへようこそ、とか」
「そうなの?」
「まあ、だいたいそんな感じ」
「……ねえ、もう行こうよ?」弟の方は姉のスノーウェアの袖を引っ張った。
しかし姉は弟の手を強引に振り切って、素早く俺のほうに近付いてきた。
「ねえ!」弟がイライラした声を張り上げる。
「うるさっ」少女はうんざりしたように言い返し、腰を折り曲げて壁の魔法陣にぐっと顔を近づけた。「ようこそ、ってどこに書いてあるの」
「直接は書いてないけど、そういう文字を出すように仕掛けが組んである」
「ふーん……ねえ、おじ……おにいさん」
「おじさんでいいよ別に」俺は苦笑した。
「どうやって、こういうのを読めるようになったの?」
「うーん。本を読んだり、調べたり」
「習ったんじゃないの?」
「いや、独学だな」
「独学って何」
「ひとりで勉強したってこと。人に教わらずに。ああ、でも、フォーラムで色々教えてもらったりはする」
「フォーラム?」
「ネットで、同じテーマで色んな人が集まって、情報交換したり」
「チャットってこと?」
「まあそんな感じ」
子供と話すことに苦手意識は無いつもりだが、どの程度のことを理解できるのか見当が付かないので、やりづらい。少女の反応が薄いので、尚更だった。
「ねえねえ! ねえってば!」少年は少し離れた位置から動かず、雪の上で足を踏み鳴らし始めた。「もう行こうよ! ねえ!」
こっちは間違いなくクソガキの部類だが、大人や年長者が自分を蚊帳の外に置いてぺちゃくちゃ喋っているときの苛立ちは俺にもよく想像できた。俺が思わず振り返って笑いそうになると、少年は一瞬戸惑ったようにこちらを見つめた。怒られるか嫌な顔をされると決め込んでいて、調子が崩れたのかもしれない。
「おーい、邪魔しちゃ駄目だよ」
厚彦が正面入口の方から顔を出し、姉弟に向かって腕を振った。その手にピンクと水色の小型のソリを持っている。
「君達さー、ソリ滑り用のスペシャルコースがあるけど? あっちの方」
「ええ、ズルい! やりたい!」少年は急に高い声を張り上げて駆け出した。
「え、私も」少女も弟に張り合うように追った。
厚彦は俺に会釈し、「すぐそこら辺にいますんで。何かあれば電話ください」と言って林の方を指差した。
俺は頷いた。
三人の姿は樹々に隠れてすぐ見えなくなった。少し経ってから、甲高い子供の笑い声と楽しそうな悲鳴が聞こえ始めた。
こういう山奥では、他に音を立てるものがないので、普段の空気がとても静かだ。だから、かなり遠くからの声もよく聞こえるのだろう。
作業は簡単に終わりそうだった。大体の目星がついたところで厚彦に電話を入れ、呪文を解除して魔法陣を消してしまって良いか確認する。
「消せますか」電話の向こうの厚彦は、申し訳なさそうに聞いた。
「普通に、ペンキで描いたものを消す作業になるので、サンドペーパーでざっと削ってしまいますが」
「ああ……? そんな感じなんですね」
「なるべく早めに周りと同色のペンキを塗り直した方が、壁が傷みにくいと思います。ちょっとペンキの持ち合わせがないので、今日俺がやれるのはサンドペーパーと簡単なコーティングだけなんですが」
「いえ、十分、十分です」厚彦が電話の向こうでお辞儀をしているのが容易に想像できた。「本当に助かります。私と妻だけじゃあ、お手上げだったので」
寒いので早いところ終わらせたい、という気持ちもあったせいか、解呪はものの数分で終わった。サンドペーパーで魔法陣と文字が充分薄くなるまで擦り、塗装をし直すまでの応急処置として透明なラッカースプレーを吹き付ける。
厚彦にもう一度電話を入れてから、屋内に戻った。
レストランだった大部屋では、妻のフミカと先ほどの老婆がストーブの前に座布団を置き、温風にあたりながらぽつぽつと世間話をしていた。老婆の方の訛りが強くて、俺には何を話しているのか聞き取れなかったが、あまり認知症らしい様子は見えなかった。とはいえ、どんな様子が認知症らしいものと言えるのか、俺にはほとんど知識が無いが。
フミカは俺にまたティーバッグのお茶を出し、温風がテーブルの方へ向くようにストーブを動かした。
「すみません、当たっていてください」と言ってみるが、二人の女はいえいえと首を振って温風を遮らない程度の位置に座り直した。
店をやっていた時にはもっと大型の暖房を使っていたはずだ。この食堂だけでも二十畳ほどはありそうだから、単なる片付けのための滞在で全体を暖めるのは割に合わないのだろう。
「あンたが、えーと、魔法陣を開けにきてくれた人ですか?」不意に、老婆が顔を上げて俺を睨むように見据えた。
「ええ、そうなんですよ」フミカが横から優しく口を挟んだ。
「もう開けたンですか?」
皺が深く刻まれた顔に埋もれ掛けた、小さな目が俺を見ている。感情がまったく読み取れなかった。
「もう、解呪は終わりました」
先ほど子供と話した時と似たようなやりづらさを感じながら、俺は言った。
「そうか、じゃア出てきたンだなあ」老婆の目が皺に埋もれて見えなくなった。笑っているのかもしれない。「そだらもう安心だな。あンたと厚彦でこの店続けていけるなア」
「まあ、その話はおいおい、ね」フミカは穏やかに言ったが、その顔に苦々しいものが浮かんだ。
「だってサ、そのために!」老婆は急に、その小柄な身体からは考えられないほどの大声をあげた。「おれとおとっつぁんで、ひと財産貯めたンだから。あンた達に継がせるときに負担にならないようにな、ひと財産よ。あンた、魔法陣を開けたんだろ?」老婆は俺に向かって指を差した。
「はあ」と俺は言った。
「出てきたよな? 財産が」
「いえ……」
どうも雲行きが怪しくなってきた。
そのとき、玄関に繋がる方のドアが開いて厚彦が戻ってきた。
「母さん、また騒いでんのか?」
「なんか、魔法陣の中にお金が入ってるはずだって……」フミカが困ったように言った。
「またその話か。母さん、もうそれはいいんだよ」
「お金だけじゃない、ひと財産だわ。それが無きゃ、あンた達はこの店売り飛ばして捨ててっちまうだろ?」老婆は尚も声を張り上げた。
「でもそんなものは……」
「いいって」フミカは片手を挙げて夫を制し、「おばあちゃん、そろそろあちらで休みましょ」老婆の耳元に顔を近付けて言った。「ちゃんと探しておきますから」
「魔法陣だよ。あンの、裏の壁の」
「はい、はい、ちゃんと見ますから」
「あの、見てくださいね、あンたが、魔法がわかる人だろ?」老婆はフミカの腕に頼って座布団から立ち上がりながら、俺をもう一度睨んだ。
「大丈夫です。専門ですから」俺は頷いた。
食堂の奥には長いカウンターがあり、その向こうが厨房だった。フミカは老婆を連れて厨房に入り、さらにその奥の小さめのドアから出て行った。あちら側に従業員用の居室等があるのだろう。
妻と母親の姿が見えなくなると、厚彦は大きく溜息をついた。それから、「お騒がせして申し訳ない」と俺に向かって言った。「本当は連れてくるつもりじゃなかったんですが、どうしても来たいと騒がれて……もしかしたらこの店も見納めになるかもしれないと思うと、つい可哀想で」
「お店を引き継がれるわけではないんですか?」
「いえ、私はそうしたいんですがね、妻があんまり……」厚彦は苦笑いした。「ここから立て直すとなると纏まった金が要りますし、老後のための貯金を取り崩すのは不安だと。だから、もし母が言ってる通り魔法陣に財産が入ってたら、その問題も解決するかと、ちょっとだけ期待してたんですけど」
「一応、ご依頼いただいた作業はこれで終わりなんですけど、他の魔法陣も無いか探しましょうか?」俺はあまり気が進まなかったが、念のため聞いた。
「えっと、そういうこともしていただけるんですか? なら、ぜひお願いしたいですが。そちらは別料金になるんでしょうか」
「いえ、探すだけならとりあえずは無料で。もし、魔法陣がまだ幾つか見つかれば、それぞれにつき処理費用という形で」
「それは助かります。是非、一通り見ていただければ」
「お母さんは、魔法陣がどこにあるとおっしゃってるんですか?」
「それが、毎回言うことが変わるんです。だから大概、ボケて妄想が出てるんだろうと妻は言うんですがね。裏の壁にあると言ったり部屋にあると言ったり。お池の中だ、水の中だと言ったりもします。けどまさか、池の底なんかに書かないでしょう?」
「まあ、あまり聞いたことはありませんね」
「全部、母の妄想なのかもしれません。財布を取られた、詐欺の電話が来た、とかも毎日のように言いますからね。財布も電話も自分じゃ持ってないのに」
「なるほど……」
歳を取って被害妄想が強くなるという話は聞いたことがある。ある程度裕福に暮らしてきた人間ほど、その傾向は強いとか。家に大金が隠してある、という思い込みもその変化系みたいなものかもしれない。
「そういえば、お子さん方は?」俺はコートを着直しながら聞いた。
「ああ、妻の姪と甥なんです……まだ、雪遊びしてます。子供の体力はものすごいですね。一緒に遊んでたらとてもこっちが持たなくて」
「確かに、あの年齢くらいが一番元気そうですね」
「本当に。自分にもあんな年頃のときがあったなんて、今じゃ全然思い出せないですよ」
丸眼鏡の奥の目を細めて、厚彦はまた苦笑した。
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