山麓のペンション
普通の車がすれ違うには十分だが、大型車やバスが来たらだいぶ不安になりそうな、ほどよく狭い道がカーブを重ねながら続いていた。両脇には汚い灰色の雪と氷が高く積み上がっている。道路から剥がしたものを単純に両脇に積んだのだろう。普段ならこの時季には道路自体が雪に埋もれて真っ白でもおかしくないのだが、今年は暖冬らしく、アスファルトが剥き出しになっていた。おかげで、運転はしやすい。
この道を上り切ったところにある
近頃、同じ山系にある北側の峰に新興のリゾート地ができてからは、遠方から団体客が押し寄せるようになってだいぶ客層も変わってきたと聞くが。
道路脇に積み上がった雪の中に、こごみ荘、左折3kmという古びた立て看板が埋もれかけているのを見つけて、俺は慌ててハンドルを切った。舗装道路を逸れ、林道のような枝道に入る。こちらの道は雪と氷がかなり残っていて、砂利道を走るようにガタガタと車体が揺れた。何度も解けかけては凍り直したらしい轍にタイヤを取られ、ハンドルに気持ち悪い感触が返ってくる。
こういうときは、タイヤを逆向きに捻ってはいけない。あえて、取られそうな方向にハンドルを切り、力を流す。車の揺れに合わせて小刻みに、アクセルは程よく踏みながら、譲歩と説得を繰り返す。雪山の運転は久しぶりだが、どうにか勘を取り戻せそうだった。
メーターの中央にある距離計の数字を睨む。看板を曲がってから3.1キロほど走っても、雪と氷をかぶった単調な森の景色が続くだけだった。本当にこの道で良かったのだろうか、少し先か手前に別な道があったのではないかと不安になり始めた矢先、急に視界が開けた。
まず最初に目に飛び込んだのは、薄く氷の張った大きな池だった。周囲を広葉樹林に囲まれ、青白く薄い氷の上に薄く雪が積もっている。池の真ん中だけは氷がなく、深い緑色の池の水が見えていた。
池を右に回り込んだあたりに、目的の「こごみ荘」の建物が見えた。
こごみ荘と彫り込んである洒落た大きな看板の柱に、「レストラン」と殴り書きされた板が少し傾いて打ち付けてあった。元々は宿泊施設として開業したようだが、その後はカフェ兼レストランとして細々と続いたらしい。そして、この数年は店を開けたり開けなかったりで、去年あたりからほぼ廃業に近い状態だった、と聞いている。
雪と氷で覆われているが、建物の前が駐車スペースのようだ。二台の軽ワゴンが並んだ隣に自分の乗ってきたレンタカーを停めて降りた。
一般的な木造住宅の外壁に、丸木造り風の装飾をした建物に見えた。屋根は南向きに偏った急勾配で、積もった雪が自然と落ちるようになっている。そのため、二階として使える面積は一階の半分程度になりそうだ。一階が来客を迎えるレストランと従業員の居室、二階が宿泊用の個室数部屋といったところか。
正面入口前の丸木の階段を上ると、重そうなドアが勢いよく開いて、子供が二人飛び出してきた。
十歳かそこらに見える少女と、それより一回り小さい少年。赤らんだ丸い頬がよく似ているので、姉弟とわかる。どちらもスノーウェアで着膨れていて、化繊の分厚い帽子をかぶっていた。
「あ……え、誰?」少年の方は俺を見て戸惑ったように目を泳がせた。
少女は俺に対しては何も言わず、ドアを開け直して「ねえー!」と屋内に向かって叫んだ。「お客さん来たよー!」
はーい、と女性の声が奥から聞こえた。「ノンちゃん、お客様にスリッパ出してくれるー?」
「ええー」少女はわざとらしく嫌そうな声をあげた。
お構いなく、と俺はおざなりに呟きながら、二人の子供を避けてドアを潜った。
それほど広くない上がり框があって、雪靴や長靴が雑多に並んでいた。脇の壁に横長の下駄箱が作り付けられているが、こちらは空っぽで、拭き残した埃がこびりついていた。
俺はその下駄箱の端に自分のスニーカーを入れ、少女が出してくれたスリッパを履いた。
目の前の木のドアが開き、ブカブカのパーカーの袖を捲り上げた女性が出てきた。姉弟に似た丸顔で、古臭いデザインの丸眼鏡をかけている。
「
それからドアを大きく開いて、部屋の中を示した。
「一旦こちらへ、ええ、お掛けください。もう、なんもかんも埃だらけで、ようやく一通り拭いたところで……汚くて申し訳ございませんが。今、飲み物をお持ちしますので」
その部屋が、宿泊客の食堂を兼ねたレストランとして使われていたようだった。正方形に近い形の大部屋で、四人掛けのテーブルと椅子が幾つもある。ただ、中央の一組以外はテーブルの上に椅子を逆さにして積んだ形で、壁際に押しやられていた。
女は依頼主の妻の
俺は勧められるまま椅子に座り、隣の椅子の上に荷物を置いた。泊まるつもりはないので、いつもの仕事道具のバッグだけだ。
この部屋を温めるには小さすぎる灯油のファンヒーターがテーブルのすぐそばに置かれ、足元に向かって温風を吹き出していた。座った直後は外気温との差で暖かく感じたが、コートを脱いで数分すると寒くなってきた。
パーカーの女はティーバッグとお湯を入れたカップを俺の前に持ってきて、「すみません本当に何もなくて。夫がね、ばあちゃんを散歩に連れてったので、間も無く戻りますから」と言った。
「お子さん方は、冬休みですか?」俺はノートパソコンを取り出しながら聞いた。
「ええ、あれはうちじゃなくて妹んとこの子で。あたしの甥と姪です」
「あ、なるほど……」
「妹んところも色々あって忙しくてね。お手伝いはできるし邪魔はしないからって、押し切られて預かったんですけど、全然ですねえ。まあ親戚ったって他所の子じゃあ、こちらも強く言えないし」
「はあ」
実の親からも預け先の伯母からも厄介者扱いとは気の毒だが、先ほどすれ違った感じでは、あの姉弟は彼らなりに勝手に楽しんでいる様子だ。娯楽は少なそうだが、ガミガミ言う大人もおらず遊び放題なら、それはそれで悪くない休暇なのかもしれない。
パソコンでメールを確認しているうちに、杖をついた小柄な老婆と、それに付き添う四十代くらいの小太りの男が入ってきた。こちらが依頼主の
厚彦は母親を妻に任せ、バタバタと上着や手袋を片付けてから俺の向かいに座った。妻と同じく古臭い丸眼鏡を掛けていて、そのレンズが冷え切って半ば曇っている。白髪の混じり始めた髪は少し長めで、先ほどまでニット帽をかぶっていたせいか、癖がついて波打っていた。
「どうもどうも、お待たせして申し訳ない」厚彦は座るなり言った。
「いえ、少し早く着きすぎまして……」俺は会釈を返した。
「もともと両親のやってた店なんですがね、父が施設に入ってからは母もあの通りで、街の方のマンションに引っ越したもんで、ここはほとんど放ったらかしなんです。けど、母もだいぶ認知症が入ってきまして。いずれうちで引き継がなきゃいけないものなんで、連休とかを使いながらぼちぼち片付けていたんですが」
「となると、今回ご依頼いただいた呪文は、ご両親のどちらかが設置されたものでしょうか」
「だと、思うんですがねえ。親父に聞いてもまず、私では会話が成り立たずで。いつも面倒を見てくださってる介護士さんに頼んで何とか聞き出してもらったんですが、やはり知らないと。お袋も、知らないと言ったり知ってると言ったり、日によって答えがバラバラだし要領を得なくてね……」
俺が引き受ける解呪の仕事は、設置した人間が失踪したり死亡したりというケースが大半で、こうして所在がわかっているのに詳細を聞き出せないという形は珍しい。この夫婦もさぞかしもどかしい思いをした末に、依頼を決めたのかもしれない。
「さっそくですが、実物を見せて頂けますか」俺はノートパソコンをバッグに仕舞って立ち上がった。
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