無人の家
「ああ、もう……」
シュウノを飲み込んだ魔法陣はすぐに薄れて消えてしまったが、俺は一応その道路をデジカメで撮影した。画像に特殊な処理をすれば魔法陣を確認できる可能性はある。もし確認できなくても……まあなんとかなるだろう。
見慣れた記法の呪文だったので、ぱっと見の印象で大体の仕掛けは予想できた。やはり防犯用のものに思えた。ただ、仕掛けの意図はわかっても、なぜこのごく普通の住宅にこれほど執拗な防犯トラップが仕組まれていたのかはわからない。ストーカーにでも悩まされていたのだろうか。
インターホンを鳴らしたはずだったが、誰も応答しないのでもう一度ボタンを押した。
間を置いて何度か押してみたが、誰も出ない。
俺は金属製のくぐり戸を開けて敷地に入った。小さな庭は芝生が雑草に置き換わり、野生に戻りつつあった。椿の生垣が内側に向けても伸びまくって、圧迫感のある壁のようだった。
草にほとんど隠れている敷石を踏んで、家の玄関にたどり着く。玄関の鍵は開いていた。
「すみません。ご予約を頂いてました藍村ですが」玄関の戸を開けて声を掛けてみるが、返事は無い。家に人の気配が無かった。
履き潰された男物のスニーカーがぽつんと置いてあり、これが依頼人の履いてきた靴なのかもしれない。玄関脇の下駄箱は引戸が開け放してあって、その中には何も無かった。
空気は少し湿っぽく、カビのにおいが篭っている。長く誰も住んでいなかった住居に特有のにおいだ。しかし、床や壁の状態は良く、傷みはほとんど見られない。
玄関から正面に向かって続く廊下には、途中まで何かを詰めた段ボールが雑然と積まれて、通路の半分ほどを塞いでいる。また、空いた床に急に電子レンジや炊飯器が並んでいたり、大量の文庫本が積み上がって崩れかけていたりと、引越しの直前か直後のような雰囲気があった。ただ、引越しと違うのは、それら全ての上にうっすらと埃が降り積もっていることだ。
俺はもう一度声を張り上げて、どこかにいるかもしれない家主に断ってから、靴を脱いで家に上がった。居間と台所、洗面所、風呂、トイレ、書斎のようになっている和室、二階の四部屋……うち二つは寝室で、二つは物置になっていたようだ。どの部屋も、生活感が残されたまま、途中まで引越しの荷造りを進めたような、非日常の散らかり方をしていた。
少し気になったのは、夫婦の寝室だったと思われる部屋の姿見が派手に割れていたことだ。割れた後に破片をできるだけ集めて透明な防水テープで貼り合わせ、とりあえず最低限の外見を取り繕ったような様子だった。といっても、これだけひび割れてしまうと自分の姿が無数に重複して映ってしまい、鏡としての用は成していない。
依頼人の姿はどこにも無かった。
しかし、やるべきことは同じだ。俺は玄関に戻り、上がりかまちに腰掛けて膝の上でノートパソコンを開いた。
依頼人と話せないまま仕事を進めるのには慣れている。死者の国での仕事はいつもそうだ。今回の依頼人は死者ではないが、話さずに済むのなら俺にとってはかえって気楽で良い。
まずは先ほどシュウノを飲み込んだ道路の写真を取り込んで処理した。完全な形ではないが、呪文の一部が復元できた。何種類かの刺激に反応して作動する、防犯用の罠だろう。
おそらく、飲み込まれたシュウノは一定時間後に近所の適当な場所に吐き出される。コストの面から考えても、五分間捕まえた後で五十メートル離れた路上に開放するとか、それくらいの規模のはずだ。今頃は数ブロック離れた場所に放り出されて、ポカンとしているかも。後で探しに行くか。
道路のトラップとは別に、家の解体工事を妨害している別な呪文があるはずだった。俺は家の外に出て草ぼうぼうの庭を確かめ、それから家の周りをぐるっと一周した。外壁はくすんだクリーム色で、見た目に変わったところはない。一応、一面につき数枚ずつ写真を撮っておいた。
玄関前に戻ると、ノブの上の方に先ほどは無かった青白い矢印が浮かんでいた。矢印は上を向いている。それに従って顔を上げると、玄関先のタイル貼りの天井に、蜘蛛の巣に似た形の魔法陣が現れていた。
「ああ……そうか」
シンプルな偽装の呪文だ。この呪文で、家のあちこちに書かれた他の呪文を隠している。
こうすることで、家の外観を保ったまま外壁や路上に様々な呪文を仕掛けているのだろう。
再び家探しをして寝室の端にあった脚立を拝借し、玄関口まで運んできた。脚立に上がって真上を見上げると、なかなか辛い体勢だがなんとか作業はできそうだった。
蜘蛛の巣型の図形とその合間に散りばめられた呪文は、蓄光性のスプレー塗料で書かれているようだった。仕事道具として持ち歩いているアルカリ溶剤と研磨スポンジを試してみるが、やはりそう簡単には落ちそうにない。家主の希望としてはここを解体できるようにすることが第一なのだろうし、消すのは諦めて効果を一時停止させる方向でやったほうが良いのかもしれない。
苦しい姿勢で天井を睨みながら、呪文の効果を崩すための一手を考えていると、
「忙しそうですねー」
と、聞き慣れた声が足元に近付いてきた。
一応、偽物でないかどうか確認するために俺はそちらを見下ろした。
いつも通りの、シュウノの甘い笑顔と目が合う。
俺は無言で天井の呪文に目を戻した。
「え、何か、コメントは無いの?」
「今忙しいんだ」
「まあ、まあ、それは見てわかるけど」
「後でな」
「まだ何も頼んでないって。ていうか助けに来るとかさ、せめて無事を喜ぶとか無いの?」
「たいしたもんじゃないだろう。戻って来なかったら探しに行くつもりだったよ」
「え、ほんと?」
「いや、そのまま仕事だけ終えて帰ったかも」
「ひどい。僕は魔法が使えない一般人なのに」
「俺だって別に魔法が使えるわけじゃねえよ」
なんだよ一般人って。俺がそうではないとでも言う気か。呪術を扱う人間を魔法使いとか呪術師とか表現してその語感を面白がるような風潮が、俺は好きではない。
脚立を降りてパソコンを操作し、デジカメを天井に向ける。撮影した魔法陣をパソコンで処理。呪文を辿る。素人仕事だが、それなりに書き慣れた人の筆致だ。
呪文の効果を阻害する文を書き足してデジカメに送り、天井に向かってフラッシュを焚いて「逆写」した。
「あーらら。なんだこりゃ」シュウノが声を上げた。
「何か出てきたか?」俺はカメラをおろして振り返った。
シュウノは唖然として家の外壁を見上げていた。俺も玄関口を離れ、外壁を見渡せる位置まで下がった。
クリーム色の壁全体が、英文のようなものでぎっしりと埋め尽くされている。崩れた筆記体で、ほとんど読み取れない。
「呪文じゃないな……?」俺は思わずつぶやいた。
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