第39話 逃げてしまえよ

『別れて、欲しいの……』


 五年前の夏。

 付き合ってもうすぐ一年という記念日が近かったのに、月坂は突然別れを告げてきた。


『なっ、なんでだよ急に……。俺が月坂を幸せにできないからか? 情けなくて、高嶺の花とは釣り合わないからか? なぁ、どうして!?』


 当時の俺は必死だった。生まれて初めての恋人を、好きだった幼馴染みを、……失うのが、怖かったから。


『違うの!』


 だからこそ、


『私ね、アイドルになるために上京するの』


 アイツの心がもう俺に向いていないと思った瞬間、人生で一番絶望した。


『高校は?』

『あっちで探して、養成所と掛け持ちするの』

『それならここの高校を卒業して、それから養成所でもいいじゃねぇかよ! たかが一年くらいスタートが遅くなったくらい──』

『一年!? 何を言ってるの??』


 悲痛な叫びに、俺は黙ることしかできなかった。


『私はずっと待った! アイドルになりたいと思った九歳のときからずっと! 一年なんかじゃない、八年も遅れたのよ!! 全部、パパとママが反対するせいで……』


 だけどね、と。天から降りてきた一本の蜘蛛の糸を眺めるように、月坂は曇り空を見上げた。


『ようやくパパが許してくれたの。東京に転勤するからって……』

『じゃあ……』


 当時の俺がとるべき行動は、一つしかなかった。


『俺も行くよ。東京に』

『ダメ』

『ダメじゃねぇ、俺も行く!』

『──ダメなの!!』

『なんで!?』

『……パパが、言ったの』


 すすり泣きながら、月坂は言った。


『アイドルになるなら、翼くんと別れろって。お前の無謀な夢に、他人を巻き込むのは迷惑だって……』


 ……また、迷惑かよ。


 昔から何度もコイツを苦しめていた言葉が再び牙を剥く。

 だけど、どうしても月坂を手放したくなかった俺は……、


『じゃあ、俺に迷惑はかけていいのかよ……』


 その凶暴な獣を、味方につけた。


『それは……』

『結局、どっちに転んでも迷惑なんだろうな。俺を夢に巻き込んでも迷惑だし、俺と別れて東京に行かれるのも迷惑だし!?』


 俺はその時、邪悪な笑いを見せていたのだろう。

 頭がおかしくなって、もういっそその方が楽なんじゃないかって考えていたと思う。


『あーもう、分かったよ』


 まるで、悪魔に取り憑かれたようだった。


『勝手に行ってこいよ。どうせ上手くいかねぇから……』


 夢見る少女を嘲笑い、否定する悪魔に。

 あぁ、最低だ。今だから思う。

 現実主義でつまらない俺は、いつだって夢を見なかった。

 けれどその時まで、誰かの夢を真っ向から否定するなんてことはなかった。それがポリシーだったから。


 だけどこの日、俺は初めて自分を曲げたのだ。


 〇


「だから決めたんだ、もうこれ以上、誰かの夢を否定しないって」


 俺は打ち明けた。あの日からの誓いを。

 子どもだった、あの頃のワガママな自分を打ち消す誓いを。

 それなのに、月坂は冷ややかな声で言った。


「ワガママなのね、相変わらず」


 そして、俺の痛いところを突いてくる。

「あの頃は私と別れたくないからって、別れを告げられたあなたはムカついて、私の夢を否定した。『どうせ上手くいかない』と吐き捨てた。なのに今度は何? 諦めるな? ズタボロになった私から逃げ道を奪うの!?」

「……ごめん」


 お前だって「あのステージに立たせて欲しい」って言ったくせに……。

 そう思ったのに、それが言葉に出なかった。


「お願いだから……、私を楽にさせて……」


 だってそんな言葉をかけてしまうと、コイツの心が音を立てて崩れそうだったから。


「……分かった。もう、逃げてしまえよ」


 だから俺は──、


「──どうせ、上手くいかねぇから……」


 またあの時の悪魔を、心に宿らせた。

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