1-20 <通天閣からの景色(3)>

「七未ちゃん!」


マキは七未の姿を見つけると、ほっとしたように手を振った。


「あ、マキちゃーん」


七未はゆらゆらと手を振り返す。

いつものように、ぼーっとしている様子だ。

あまり元気はなさそうだが、それでもうっすらとした笑顔をマキに返した。


髪を茶色に染め、肩のところにまで伸ばしている。

ぱさぱさして枝毛の多い髪は、あまり手入れされていないようだ。

よれてちょっと色あせている、人気のあるミュージシャンのロゴがプリントされているグレーのTシャツ。

そのTシャツの上に、白いダウンジャケットを羽織って、赤を基調にしたタータンチェックのマフラーを首に巻いている。


待ち合わせ場所は大学のラウンジ。

午後3時過ぎで、今も多くの学生でにぎやかだ。

そんな雑踏の中なので、七未、マキ、岡ちゃんの三人が特に目立つことはない。


マキが七未に言う。


「きょうはわざわざ出てきてもらって、ごめん。

どう、調子?

しんどくない?」


「ううん、きょうは午後に講義あったから。

ついでやからだいじょうぶ。

きょうも頭はぼーっとするけど、まあ調子は特別悪くないよ」


七未はあまり表情を動かさないが、でもたぶん、できるだけ愛想よくふるまおうとしているのだろう。

マキを見ると、作り笑いっぽい笑顔を浮かべた。


「七未ちゃん、この人が電話で話した人。

岡本さん、通称岡ちゃんです」


「やあ七未さん、はじめまして。

岡本です。

岡ちゃん、って呼んでください」


「はじめまして、岡ちゃん。

マキちゃんから伺ってます、おもろい人やって」


「マキちゃんが、そんなん言うてましたか、あっはっは」


しばらくの間雑談をした後、三人はラウンジを出て大学から6,7分ほど歩いたところにあるカフェに向かった。

通りからちょっと奥まったところにあるので、ここには難波大学の学生はほとんど来ない。

岡ちゃんが、七未が話しやすいようにと、ここを選んだ。


カフェの外観はすべてこげ茶色の木材による外装。

入口のドアも木製。

まさに隠れ家的なカフェだ。

そのドアを開けると、ドアにつけられたベルがチリン、と鳴った。

室内は照明を落としているので、すこし暗め。

それが落ち着いた雰囲気を醸し出している。


中にいる客は数人。

30代くらいのおひとり様の女性。

50代くらいの中年女性が二人、会話している。

スーツ姿の男性が一人、ノートパソコンを開いて作業中だ。

学生らしき人は一人もいない。


「うん、OK」


岡ちゃんはそう言って、七未とマキを交互に見た。

マキは七未と顔を見合わせると、七未の、うん、という表情を確かめて、岡ちゃんにうなずいた。


店内にはやさしげな男性の店員が一人。

カウンター奥に、コーヒーやフードを作っている男性店員がもう一人。

やさしげな店員のほうが三人を案内して、空いている一番奥のテーブル席に通した。

ウェイター役なのだろう。

七未とマキが奥側のソファに並んで座り、岡ちゃんが手前側に座った。


「きれいなお店ですね」


七未が言った。

岡ちゃんは笑顔で、


「悪くないやろ?

ぼくが学生のころに見つけて、よく来てたお気に入りのお店ですわ。

ひさしぶりに来たけど、まだやっとった。

よかったよかった」


マキは微笑んで、岡ちゃんと七未を交互に見た。


男性店員がオーダーを訊きに来たので、岡ちゃんがホットのブレンドコーヒー、マキはホットカフェオレ、そして七未はホットのアールグレイをオーダーした。


「七未さんは紅茶が好きなんや」


「・・・ええ。

英国びいきなんです、UKロックとか、イギリスのアートとか好きなんで。

それで」


マキがそこで言う。


「七未ちゃんはね、ロックすごくくわしいんですよ。

あたし、七未ちゃんからいっぱいUKロックのバンド、教えてもらって。

コールドプレイとかレディオヘッドも、七未ちゃんに教えられて知ったんです!」


マキがうれしそうに言った。

七未はちょっと照れたように、くすっ、と笑う。

岡ちゃんが言った。


「そうかあ。

ぼくもコールドプレイも、レディオヘッドも以前はよく聴いたなあ。

最近は仕事とDJに時間をとられて、ほとんど聴かなくなっちゃったけど。

なつかしいな」


岡ちゃんが両手を頭の後ろに回して、ふーっ、と息をつきながらそう言った。

するとマキがたしなめる。


「岡ちゃん、昔の音楽みたいに言うけど、どっちもまだバリバリ現役のバンドですよ、もう」


「あっはは、ごめん」


すると七未が話した。


「・・・あたしのほうは、クラブミュージックをいつもマキちゃんから教えられてるんです。

クラブにも誘ってもらって、ときどき行ってるし。

マキちゃんのDJはすごくかっこよくて・・・。

楽しいです、クラブは。

自分が全部、解放されるみたいで」


七未は両手を目の前にならべてかざす。

手の甲を自分に向けると、じっと見つめた。


「・・・あんなふうに、みんなを踊らせて、楽しませることができて・・・。

うらやましいです、マキちゃんが」


先ほどの男性店員が三人のオーダーを持ってきたので、そこで七未は話を止めた。

岡ちゃん、マキ、七未とも、それぞれ自分のブレンド、カフェオレ、アールグレイに一口つけた。


「おいしいです」


七未がそう言うと、岡ちゃんがにっこりと笑顔を返した。

彼女は話の続きを始めた。


「・・・あたしは、なんにもしたいことがないんです。

あ、マキちゃんのクラブは楽しいですよ。

でも、それ以外にはなんもないな。

楽しいことは、なんも・・・」


七未はそう言うと、うつむいて目の前の両手を広げて、表に裏にと返したりしながら見ていた。

マキは真剣な表情になって、訊いた。


「・・・七未ちゃん、つらいことあるん?

なんでもいいから、話してくれん?」


七未はマキのほうを見ない。

両手を裏返したり表に返したりして、ぼんやり見続けている。


マキは続けた。


「岡ちゃんはね、メッセにも書いたように、福祉施設でお仕事してるの。

障がいのある人をケアしててな、精神、身体、知的障害・・・。

いろんな障がいのある人を助けてる。

アルコール、薬物とかの依存症の人を助けたりもしてるねん。

やから、七未ちゃんが今なってるような状況に対しても、なんかアドバイスできるかもしれんと思う」


そこでマキは一息おいて、注意深く七未を見つめながら、続けた。


「・・・なんで、もし嫌でなければ、あたしたちに少しでも話してくれるかな、症状のこととか、家族のこととか、困ってることならなんでも」


七未は、自分の両手を裏返したりして見続け続けていた。

そうやって視線を上げずにしばらくだまっていたが、やがて視線を上げてマキを見た。


「・・・ええよ。

マキちゃんと、マキちゃんが信用してる人やから」


マキは、笑顔でうなずいた。

七未は話を始めた。


「・・・なんでだかは、ようわからへん。

なんで始めたかは、ね。

薬のこと。

きっかけは高校のときかな。

高3のとき」


「学校がつまんなくてね。

いじめとかあったし。

でも先生は全然こっちのこと見てないし、こっちの言うこともまともに聞いてくれないし。

友だちも少なかったから、言いたいことを言い合える子も周りにいなかったし」


「親もあたしのこと、全然無関心やし。

父親は、株っていうよりなんかギャンブルみたいな、変な投資に夢中になり始めて。

ヒマさえあればパソコンに向かってる。

母親は、そんな父を見て見ぬふり。

父に面と向かって文句言えないんやと思う。

で、あたしに小言ばっかり言うてくるようになってん。

そんで、うざくてたまらなくなったから、家出て」


「で、夜遊びするようになった。

だいたいミナミやったかな。

道頓堀の周辺とか。

今の『グリ下』。

そう、まだそう呼ばれるようになる前。

その頃はまだ、グリ下に集まる子は少なかったから、あのあたりだけに集まっていたわけではなくて・・・。

戎橋、橋の上のほうとか。

道頓堀の通りとか、その周辺にも、若い子たちがちらほらいた」


マキは神妙な面持ちで、七未の話を聴いていた。

岡ちゃんもひざの上で両手の指を組んで、まじめな顔をして聴いている。


「あたしはそういうところ、あちこちで夜遅くまでふらふらしてて。

でそうすると、あ、いつもあの子おるな、って子が何人もいて。

そうやってなんとなく知り合って、なかよくなって。

その子らに会いたいから、いつも行くようになったねんな」


「どの子も、あたしと同じ。

親と仲が悪くて家を出たとか、学校でいじめられて居場所がないとか。

そもそも学校や勉強がつまんなくて行きたくないから、行かなくなった、とか・・・。

みんなそんな子らで、みんなあたしと同じやったんです。

やから、話も合ったしすぐ仲よくなれた」


そこまで言うと、七未は言葉を止めて、ふーっ、と息をついた。

両手を裏返して、両の手のひらを外側にして指を組んで伸ばすと、うーん、と伸びをする。

その様子は、楽しかった思い出を語るようにも見えた。

しかし一方で、過去の苦しかった思いを吐露しているような、苦痛の表情を浮かべているようにも見えた。


マキも岡ちゃんも、七未が話を続けるのを静かに待った。


やがて、七未は続きを話し始めた。


「・・・で、その中のだれかが教えてくれた。

せき止め薬、一気飲みすると気持ちよくなれるって。

その子も、もともとやってたんだよね。

学校でも家でもいやなことばっかりで、全部忘れてしまいたい。

そしたら、ここのだれかが、あたしこれやってるから、あんたもやってみなよ、気持ちよくなれるから、ってね。

そうやって、だれかからだれかへ、順々に伝わっていった。

そんな感じのノリやったから、最初は軽い気持ちやったんよね、あたしも」


マキは訊きたくなって、尋ねた。


「・・・最初飲んだとき、どんな感じやったん?・・・」


七未は少しの間、考えるように首をかしげて、んー、と声を出した。

それからおもむろに答えた。


「最初はね、とにかく気持ち悪かった。

吐き気が止まんなくなって、道路の上でげえげえやったりして。

でもね、そのうちなんだか身体も頭も、ほわーん、としてきてね。

苦しみとか、やな気持ちとかが、みんなマヒしたみたいになって。

なんか気分ええわ、そう思ったの」


マキは黙って七未の話を聴いた。


「結局初日は頭がんがんで、夜も眠られへんかったけどね。

でも、気分はよくなった。

舞い上がったみたいになってね。

気持ちよかった。

やから、翌日もやりたくなったんよね。

そうやって、沼にはまり込んでいった。

ずぶずぶと、ね」


そこで、七未はしばらく話すのを止めた。

マキも岡ちゃんも、七未を静かに待った。


でも、七未は続きをなかなか話そうとしない。

マキはなにか声をかけてあげたくなった。

しかし、言葉を探しあぐねていた。


やがて、3分ほどもたったかと思うくらいになって、七未が口を開き始めた。


「・・・で、気がついたら、やめられなくなってた、って感じ。

もう今じゃ、気持ちいいから、ってよりは、これないと生きるのしんどすぎるからやってる、っていうのに近いかな。

完全に中毒よね。

こういうのを『依存症』っていうのよね?

マキちゃんといっしょに出た講義で、先生が言ってた。

市販のかぜ薬とかでトリップする、って話。

あ、あたしまさにそれやわ、って」


「薬やりながらでもいちおう受験勉強はなんとかできたから、こうやって大学受かったけど、よく受かったな、と自分でも思うもん」


そう言うと、七未は自嘲気味に、くすっ、と笑った。

でも、その笑顔は痛々しい苦悩の跡もいっしょに刻まれているように見える。


マキは、七未のそんな表情と彼女が話す言葉のひとつひとつを追いながら、自分の身体にも心の中にも一筋の痛みが走ったように感じた。

悲しかった。


七未ちゃんのこと、なんとかしてあげられないだろうか・・・。


そのとき、岡ちゃんが声を出した。

穏やかな、静かな口調だった。


「・・・苦しかったんやな」


七未は視線を下に向けたまま、黙っていた。

マキも自分の足元を見つめたまま、黙っていた。


「七未さんがそれだけの苦しみを背負って、今まで生きて来れたことが、すごいことや。

ぼくはそう思う。

せき止めを飲もうが、なんの薬を飲もうが、まずええ。

とにかく薬の力を借りながらでも、きょうまで生きて来れた、それだけでえらいことやと思うよ。

たいへんやったな」


七未は、かすかにふるえていた。

涙が、両の目から、ぽと、ぽと、とこぼれ落ちていた。


マキも、顔を上げて七未を見た。

マキの両目からも涙があふれ出た。

それをぬぐうこともせず、流れるに任せた。


「七未さん」


岡ちゃんが変わらず穏やかな口調で、やさしく七未に語りかけた。


「ぼくの友人で、依存症になった人を助ける施設に勤めてるのがおる。

そこに通うとるのは、薬物とか、アルコールとか、摂食障害とか、いろいろなものの依存症になった人たちや。

10代の子から中高年の人まで、いろんな年齢の人が、男女とも来てる。

七未さんのような、せき止めの依存症になっている子も来てるそうや。

どうやろう。

もし関心があったら、一度いっしょにそこを見学してみんかな?

もちろん、そこを利用するかしないかは、七未さんの自由や。

でも、よかったら一度その友人の職員とも話してみいへんか?

友人やから特別ほめるわけやないが、とってもいいやつでな、男やけど女性のこともよくわかってくれるやつや、話しやすいと思う」


七未は、涙をぼろぼろとこぼしたまま、黙っていた。

ひざの上に両手を置いて、つっぱったまま。


「・・・ん・・・。

まだ・・・まだ、わかりません、どうしたらええか・・・。

ちょっと、混乱しちゃって・・・。

・・・もちょっと、考えてから返事しても、ええですか・・・」


と、か細い声で囁くように答えた。


マキが、


「・・・七未ちゃん」


七未に声をかけた。


「・・・ありがとな、あたしたちに話してくれて。

つらいこと話さなんなくて、いっそうつらい思いさせちゃったな・・・。

でもあたし、七未ちゃんにつらいことがあったら、そのつらいことを少しでも減らせるようにしたいと思うし・・・。

七未ちゃんがしてほしいことあったら、なんでもあたしらに言うて。

できることなら、なんでもするよ!」


「・・・うん、ありがとう、マキちゃん・・・。

あたしは、こうやってマキちゃんが、岡ちゃんさんが話を聴いてくれたこと、それだけでじゅうぶんうれしいです・・・」


そう言って七未は、マキと岡ちゃんにぺこりと頭を下げた。


その後、七未は自分のこと、両親のこと、弟のことを二人に話した。

話しているうちに、気が楽になっていったのだろう。

七未の表情は徐々に穏やかになっていった。

ときどき笑顔もまじえ、マキと岡ちゃんを交互に見ながら話した。


やがて、七未は岡ちゃんに言った。


「・・・さっき岡ちゃんがおっしゃっていた、施設の話。

あたし、行ってみたいと思います。

連れて行っていただけますか?」


マキの顔が、ぱっ、と明るくなった。


「行きたいと思ってくれた?

ええよ、ええと思うよ!」


岡ちゃんも、穏やかな表情は変わらないまま、


「うん、よく決心してくれたね。

ありがとう。

いっしょに行こか。

いつがええかな?」


二人は、都合のよい日時を二、三、挙げてすり合わせた。

そして、岡ちゃんが施設に連絡を取って調整するということにした。


岡ちゃんは七未に訊いた。


「マキちゃんも、いっしょに行ってもいいかな?

七未さんのいい友達やし、マキちゃんも勉強にもなると思うし」


マキはびっくりした表情で、


「え、いいんですか?

邪魔にならんかな・・・七未ちゃんの」


ととまどうように言う。

七未は、笑顔でマキを見つめて、


「ならないよ!

むしろ、マキちゃんがいてくれたほうが安心する」


と言った。

マキは、


「七未ちゃん、ほんとにええの?

そう言うてくれるの、うれしいわあ。

ほな、いっしょに行くね」


「よっしゃ!

これで決まりや。

なら日時、またお二人に連絡するんで、ちょっと待っとってな」


岡ちゃんは笑顔でそう言ってから、ふと、思いついたように天井を見て、


「そや。

今度、マキちゃん、ユウタくんとで、ぼくといっしょにイベントしよか?

それに七未さんにも来てもらえたら、もっとええな」


マキが、


「え!

ええんですか!?

そんな、岡ちゃんに誘っていただけるとか、光栄の極みです!」


テンション上がり気味に叫んだ。


「あたしも、三人がいっしょにDJするの、見たいし聴きたいです」


七未もうれしそうに言う。


「よし。

ほなら計画しよか・・・?」


岡ちゃんはそう言うと、朗らかな笑顔を浮かべて、二人を交互に見つめた。

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