1-19 <通天閣からの景色(2)>
10月14日。
クロさんの店で、DJ OKKAこと岡ちゃんがプレイする日だ。
マキとユウタは、開始から聴くつもりで7時30分から来ていた。
カウンター席に二人並んで座って、カクテルを傾けている。
岡ちゃんはカウンターの二人が座っている席より奥のDJブースに近い席で、ビールのグラスを目の前に置いて出番を待っていた。
グラスは半分ほどだけ空いていた。
丸い顔をして、黒の軽く色のついた眼鏡をかけ、中折れ帽をかぶった中肉中背の男。
ライトグレーのパーカーを着て、こげ茶色のチノパンを身に着けている。
岡ちゃんの出番はこれからだ。
だから、マキもユウタも本番前に声をかけるのは遠慮していた。
マキがユウタの耳元に口を寄せて、ひそひそ声で話す。
「あの人?」
「そのようやな」
「予想したよりは小柄やわ」
「そか。
おれは大体予想してたとおりな感じ」
「ユウタ予想力すごいな」
「何言うてんねん」
ユウタが吹き出しかける。
20:00。
岡ちゃん、DJ OKKAは、DJブースに入った。
クロさんのほうを向くと、目で合図する。
クロさんがうなずくと、DJ OKKAはミキサーのフェーダーを上げ、CDJのPLAYボタンを押した。
シンセの音が静かにフェードインしてくる。
ビートのない、美しいアンビエント。
新たなシンセの音が重なってくる。
やがて、その音は何層にも積み重なって、それはいつの間にかパイプオルガンのように荘重なハーモニーとなって、ルーム中を包み込む。
その上に、空から舞い降りるかのようにハイハットの音が入ってきて、規則正しくリズムを刻み始めた。
さらにそこに太いキックが入ってくる。
ゆったりしたビートはBPM115くらいか。
束となったシンセの音と相まって、徐々に心を揺さぶるグルーヴが刻まれていく。
マキとユウタは、その心地よいグルーヴに身を委ねていく。
BPMは、気がつくと少しずつ上がっていっている。
いつのまにか、BPM120ぐらいのハウスビートに変わっていた。
ベースのうねるような響きが、心を揺さぶっていく。
こだまのように、遠くで歌う人の声。
光が射してきた。
ピアノの音が、きらきらと輝く朝の光の反射のように踊り出す。
DJ OKKAは、飄々とした様子で淡々とミキサーとCDJを操作して、微笑みを浮かべながらプレイを続けている。
楽しそうだ。
ユウタは、なんとも言えない気持ちに捕らえられながら、彼のプレイ姿を見つめた。
横のマキを見る。
マキも、口を半分開いたまま、恍惚とした表情でDJ OKKAを見つめ続けている。
やがてBPMは124から128ぐらいの間を行ったり来たりして、ディープハウス、90年代のシカゴハウス風、デトロイトテクノ、プログレッシブハウスと、さまざまに表情を変えながら展開を重ねた。
ジャーニー、リズムと音楽の旅だ。
最後にDJ OKKAは、再びアンビエントの静寂の響きにもどって、2時間の旅を締めくくった。
「今夜も、ありがとうございました」
DJ OKKAは、マイクを取るとテノールの声で、そう一言礼を言った。
十数人の客から、拍手が起こった。
何人かは、大きく手をたたいていた。
ユウタとマキも、力強く拍手を送った。
二人とも笑顔で顔を見合わせた。
ブースを降りてカウンターにもどってきたDJ OKKAは、やはり変わらぬ飄々とした調子の「岡ちゃん」だった。
クロさんが岡ちゃんに声をかける。
「おう岡ちゃん、彼らがこないだ話した二人や。
ユウタとマキちゃん」
岡ちゃんは、丸い顔にかけた眼鏡の奥から覗く細い眼を、いっそう細くして笑顔になると、
「おー、いらっしゃい。
ぼくのラウンジDJにようこそ」
と言った。
ユウタがあいさつする。
「こんばんは。
ぼくがDJ U-TA、岡野雄太と・・・」
「DJ Maxi、森本真希です。
DJ、すばらしかったです!」
すかさずマキが続ける。
「ほんと、最高でした!」
ユウタも後を継いで言う。
「いやいや、ありがとう」
さらにクロさんが注釈を入れた。
「この二人は、なかなかええDJやぞ。
二人とも学生で、しかも福祉に興味があるそうや」
「ほー、それはそれは」
岡ちゃんはそう言って、あらためて二人の顔を見た。
そして、
「福祉の仕事は、おもろいよ。
たいへんなことも多いけど、いいこともたくさん得られる。
根性は要るけどね」
根性、という言葉は、岡ちゃんのキャラとはうらはらな、遠いものに見える。
岡ちゃんは、クロさんから新たに出されたビールのグラスに口をつけた。
うまそうにビールをゴクゴクと飲む。
クロさんが言った。
「ま、なんでも訊きたいこと、ざっくばらんに岡ちゃんに訊いてみ。
わかることはなんでも答えてくれるから」
「クロさん、ぼくがわかることなんて、そんなにはないと思うけどな。
古いレコードの話なら、いくらでもできると思うがね」
そう言って、わっはっはと笑った。
なんか、おもろい人やな。
マキは思った。
カウンターで岡ちゃん、マキ、ユウタと3人並んで話をした。
マキが訊いた。
「岡本さんは、精神保健福祉士の資格を持ってらっしゃるそうですね」
「うん。社会福祉士と両方。
あ、岡ちゃん、でいいよ」
マキは、こくん、とうなずいて言った。
「ほなら、そう呼ばせていただきます、岡ちゃん。
あたしも、まずは社会福祉主事、それから精神保健福祉士の資格も取りたいと思ってて・・・」
「ああ、そっか。
社会学科か。
なら科目要件は卒業までに満たせるのやな?」
「ええ、単位取れれば、ですけど」
「取れれば、やな」
そう言って岡ちゃんは笑う。
マキはちょっとうつむき気味になって上目遣いで岡ちゃんを見ながら、
「・・・でも正直、社会福祉主事って、なにするための資格か、いまいちようわかってへんのです」
岡ちゃんは片手にグラスを持ったまま少し上を向いて、
「あー、そやなあ・・・。
確かに、福祉の世界に入ってる人やないと、わかりにくいわなあ」
と考えるような表情をした。
「たとえばの話。
市とか区とか自治体の福祉事務所で、生活保護を受けている人に定期的に家庭訪問をしたり、問題なく生活ができているか面倒を見る、いわゆるケースワーカーってやつ。
そういう仕事の人は、この資格を持ってる人やね」
「・・・ケースワーカー、かあ・・・。
けっこうたいへんな仕事、ってイメージがあります。
単なるイメージだけで、具体的な根拠があるわけやないけど」
「うんうん。
世の中、なんとなくそういうイメージだけが広まってる感じやな。
実態はなかなか知られていない。
でも、こういう仕事はとっても広い知識が求められる。
あと、人と接する能力、最近よく言う、『コミュニケーション能力』ってやつ?
それも必要やね。
人と接することが好きでないと、なかなか務まらんかも。
これは精神保健福祉士も同じやけど」
マキがうんうん、とうなずいていると、ユウタが訊いた。
「・・・岡ちゃんは、どうして福祉の仕事をしたい、って思ったんですか?」
岡ちゃんは、うーん、とうなりながら、右手のこぶしを顎に当てて考えるポーズをとった。
「・・・なんでやっけかな・・・。
・・・あー、たぶん、あれやな」
マキとユウタは顔を見合わせた。
「まだ学生のときの体験、あれが元やな。
ちょっと長ごうなるけど、話していい?」
「もちろんです」
「話してください」
ユウタもマキも言った。
「オレがまだ大学1年のときな。
たまたま『社会福祉論』って科目を取ってな。
特に興味があったわけやのうて、まったくの気まぐれや。
そしたら、その授業に同級で、車いすの子と、統合失調症の子が来とってな。
それがきっかけかな」
マキが岡ちゃんに訊いた。
「その二人はどんな人やったんですか?」
「ああ、車いすの子は女の子、統合失調症の子は男の子やった。
おれ、いわゆる障がいのある子を見るの、そんときが初めてでな。
けっこう衝撃やった。
でも車いすの子は、いつも当たり前のように、自分で車いすの車輪を手で回して、教室に入って来てた。
統合失調症の子は、授業が始まってわりとすぐ仲よくなってな。
あ、よく席が隣やったからな、いつの間にかよく話すようになってん。
本人から、『自分は統合失調症という障害を持ってるんで、自分が福祉に関する制度とか、法律とかよく知っておきたいと思って、この講義取ったんです』言うてた」
マキとユウタは、静かに岡ちゃんの話を聴き続けた。
「ま、二人にとっては、障がいがあっても、それが日常やから、いつも当然のように車いすを自分で引いたり、薬を飲んだりして生活を続けてるわけや。
それが当時のおれには不思議な感覚でな。
あ、女の子はなかなかきれいな子でな、それもおれの関心が高まる理由のひとつやった、はっはっは」
ユウタが訊いた。
「それで、その後もその人たちと付き合いとか続いたんですか?」
「ああ、今も続いてるよ。
車いすの子は・・・もう子やないな、りっぱな大人の女性や。
今は、大手の企業でWebデザイナーの仕事をしてる。
大学にいる間から、このへんの仕事が自分にも向いてるし、やっていけそうや、って言って勉強してたんや。
えらいわ。
努力家やった。
それから、統合失調症の彼。
彼は、その後も入退院を何度かしたんやけど、数年後になんとか就労継続支援B型事業所で事務仕事できるようになった。
それをしながら、今はピアサポーターとしても活動してるわ」
「へえ」
マキが思わず声を漏らした。
「あー、そうそう、彼らとは別に、大学の友人でもうひとり、病気というか障がいを持った子がいてな。
いい子なんやけどな、その子も女性なんやけど、かわいい子でな」
「岡ちゃんのお友だちの女性は、みんなかわいい人ばっかなんですか」
ユウタがニヤッと、からかうように言う。
「はっは、そのようやな。
でもな、その子はな、止まらないのや、万引きぐせが」
「え?
それって・・・」
「別にお金がないわけでも、それをほしくてたまらないわけでもない。
でも、店に入るとなぜかなにかを盗らんではいられない、そういう病気や。
『クレプトマニア』いうてな、依存症のひとつ。
そういう病気や」
マキが口を出した。
「・・・依存症?
って、あの、アルコールとかギャンブルとかの、あの依存症ですよね?」
岡ちゃんがそこでビールを一口飲むと、一息おいて話を続けた。
「ああ、もちろんそういうのも典型的な依存症やな。
けど、それだけやない。
ゲームとか、薬物・・・麻薬とかだけでのうて、市販の普通に
売ってる薬でも、摂り過ぎれば依存症になるものがいっぱいある。
摂食障害のように、食べ物でもそうなるものもあるな。
・・・とにかく、それを摂らずにいられなくなるとか、やらずにいられなくなるような状態に陥れば、どんなものが元でも依存症になるわけや」
「へえ・・・」
マキが再び声を出した。
ユウタも、黙って話を聴いている。
「その子は、今でもときどき病気が再発して、入退院を繰り返してる。
おさまってるときは退院して、パート的な仕事してるけどな。
何か月か前にも会ったけど、そんときは元気そうやった。
でも定職に就けんのがキツい、言うてたわ」
「そうでしょうね」
ユウタが声を落として言った。
「ぼくは、大学でそういう人たちといっしょになって、授業を受けたり話したりしてて、なんていうか、そういう、障がいを持つってどういうことなんやろか、とか、障がいを持ってる人たちをサポートする制度とか、いろいろ知りたくなったんやな。
彼ら、彼女たちの助けに少しでもなりたい、という気持ちもあった。
で、気がついたら、社会福祉を専攻してて、卒業したらそのまま福祉の道に入った。
そんな感じや。
・・・まあ、使命感とか、そんなのは全然ないわ。
やりたくなったからやってみた、そんな、適当な感じやわ、ははっ」
ユウタは感心したような表情で聴いている。
マキはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「あの・・・。
実は・・・・」
「ん?」
岡ちゃんとユウタが、同時にマキを見る。
「いや、あのな、こないだあたしたちのパーティーに来た子でさ、七未ちゃんっていうのが来たのやんか。
あの子がな、『自分は依存症や』って言ってて・・・」
「ああ、あの、終わった後にマキに話をしに来てた子か?」
ユウタが言った。
「そう、そう!
あの子、フランス語の授業でいっしょになったのやん。
それでおたがい、わからないとこ聞き合ったりしてるうちに仲よくなってん。
で、あたしがDJやってるってこと教えたら、行く行く!ってパーティーにも来てくれて。
ふだん、見た目はあんな風にすごく楽しそうにしてるし、明るいしね、すごくいい子やねん。
やけど、明け方、帰り際に急に、
『あたし、家におるとな、つまんないことばっかでさ、つい、せき止め薬飲んじゃうの。
飲むの、やめられへんねん。
こういうの、依存症っていうのかな。
マキちゃん、どう思う?』
って言ってな。
あたし、ちょっとそのときは、どう声かけてあげたらええのんか、わからんくて。
何も言えへんで、
『そうなん?
なんかつらいことあんのん?
聞いてもよければ、あたし話聞くで。
なにできるか、わからんけど』
ってだけ、言うしかできなくて・・・」
ユウタは、言うべき言葉が見つからなくて、マキを見つめた。
「そういうことがあったのや」
「その子、七未ちゃんは、実家におるんか」
岡ちゃんが静かに言った。
「ええ。
両親と、弟が1人とで豊中のマンションに住んでるそうです」
「ああ。なるほど。
そんなに広い環境ではなさそうかな?
家に帰ると、親や弟さんがいつも近くにおる感じなのかな」
「たぶん、そんな感じやと思います、彼女の話から想像するに」
「うん。
親御さんから、なにかいろいろ言われてたりとか、弟さんとの間でなにか困りごとあったりとか、あるのかな」
「あ!
なんかお父さんが、投資の仕事してるみたいで、ずっと家におってFXってのやってるらしいんです。
で、ほとんどお父さんとの会話がないみたいで。
お母さんとお父さんとの間もそうらしいので、なんか夫婦仲、あんまりよくないっぽいです。
そんな雰囲気やから、弟さんも自然にナーバスな感じになっちゃってるみたいで・・・」
「あー。
そういうのは、けっこうよく聞くパターンや。
それは、七未ちゃんよりも、まずそのお父さんが依存症かもしれんね」
「え?
お父さんが?」
マキがきょとんとした顔で訊く。
そう。
FXは、それ自体は投資だけど、家族との交流もなくなるくらいそれに夢中になってるって状態は、ギャンブル中毒と同じような状態。
FX依存症と言ってもいいと思う。
よくあるんや、そういうのは」
「・・・そなんや・・・」
マキが声を落として言う。
ショックを受けたようだ。
「マキ、その七未さん、大学にはちゃんと来てる感じなんかな」
「うん・・・いちおうね。
でもなんていうか、講義ちゃんと聞いてる感じではないかな。
ぼーっとしてる、っていうほうが合ってるかも」
「うーん・・・。
なんとかしてあげたほうがいいかもな、その子」
岡ちゃんがうしろ頭に両手を当てて伸びながら言った。
「そうですね」
ユウタもうなずく。
「あたしも、このままじゃいかんよな、なにか七未ちゃんの助けになってあげなあかん、そう思ってます。
けど、どういうふうにしたらえええか、わかんなくて・・・。
やから、お二人にアドバイスいうか、もらいたいです」
マキが真剣な目で二人を見ながら、そう話した。
ユウタが、
「・・・うーん・・・」
と言って頭に両手を組んで置いて考え込んだ。
しばらくして、岡ちゃんが、飄々とした感じで微笑むと、マキに言った。
「マキちゃん、その七未ちゃんって子に、会えるかな?
マキちゃんもいっしょに」
マキは、目を大きく見開いた。
「ええんですか?」
岡ちゃんは、微笑んでうなずいた。
吸い込まれるように澄んだ目で、マキとユウタを見つめて。
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