第006話 暗号名(コードネーム)

「――ところでファルターク。お前、《モビィ・ディック》って知っているか?」

「はぁ⁉」

 いきなり話題を変えられて、俺の思考が停止した。

 俺の目と口が三つの円を作ったのが可笑おかしかったのだろう、口角をあげて彼女はフッと笑う。

「いや、すまん。先週からちょっと気になっていたものでな。で、どうだ? 知っているのか?」

「ええ、知っていますよ。大昔に地球テラで書かれた小説に出てくる白いクジラのことでしょう?」

 たしか昔、母親の図書館で読んだことがある。

 かつて自分の足を食いちぎった白鯨はくげいを捕鯨船で追いかける老船長の話だったと思う。結末まではおぼえていないけど……最後はどうなったのかな。勝ったんだっけ?

「それは有名な話なのか?」

「うーん、どうでしょうね……二〇〇〇年くらい前に書かれたモノだし、地人族アーシアンだけのローカルな話ですからねえ」

「そうか……」

 言ったきり、アークウェット大尉は黙り込む。耳朶みみたぶからぶらさがっているだろうイヤリングをもて遊びながら、何やら考え込んでいる様子だ。いったいどうしたんですか、大尉。

「……知らなかったんだ」

「え?」

エレオノーラでさえ、森人族エルフエレオノーラでさえ知っている話だったのに、私は知らなかったんだ……」

 なんだか、ひどく落ち込んでいるようだな。

 ちなみにエレオノーラというのはあのとき俺が助けた部下の名前で、いまは俺の後任としてミランダ中隊の副官をしている。明るくて真面目なんだけど、たまに常識の斜め上をいく発言をぶちかまして空回りするタイプの女の子だ。だから、俺が入院していた時に見せたあの姿が、初めて見るものだったので全然ピンとこない。

「で、そのモビィ・ディックがどうかしたんですか?」

 酒が入っているせいか、大尉の話はなかなかすすまない。

「ああ、そうだった。これはここだけの話なんだがな……お前も宇宙そらを飛んでいるから気をつけたほうがいいと思って、特別に教えておいてやる。軍機だから取り扱いには注意しろ」

「だから俺はもう軍人じゃ――」

「うるさい、黙って聞け」

 最後まで言わせてくれず、アークウェット大尉は続ける。彼女はいつのまにか両肘をテーブルにつき、口元で両手を組んでいた。

「一か月ほど前から、『大きなかたまり宇宙そらを飛んでいる』という目撃報告がいくつかあがっている」

 彼女の声は、内緒話をするように低く小さい。ああ、内緒話か。軍機だものな。

「大きな塊?」

 つられて俺の声も小さくなる。

「ああ。なんでも二〇キロ近い長さのある物体らしい」

「……小惑星か何かですか?」

「詳しいことはわからん。だが、目撃地点ポイントを線でむすんでも、一本のラインにはならないんだ」

 漂流しているわけではないということか……。

「だから、わが連隊から二つの中隊が出て調査することが、先週正式に決まった。これが私たちの次の仕事だ」

 なるほど。ところで「私たち」の中に俺は含まれていませんよね? と訊こうとしたが、彼女は口を挟ませてはくれなかった。

「で、その調査対象の暗号名コードネームに選ばれたのが《モビィ・ディック》だ」

 ああ、そこで話がつながるのね。納得。

 ちなみにそいつは白いのか、といた俺の質問に対する彼女の回答は、「知らん」のひと言だった。

「お前も、もし見かけるようなことがあったら、軍に連絡してくれ。中隊の事務局でも私の端末タブレットにでもいい」

「俺、大尉の端末番号ばんごう知りませんよ?」

「何? そんなことも知らんのか? ちょっとお前の端末タブレットを出せ」

 びくっとして俺が控えめに端末タブレットをさしだすと、それをひったくったアークウェット大尉が自分の端末タブレットを取り出して操作した。彼女から端末タブレットを返してもらって画面を見ると、『ミランダ』という文字の横にいくつかの数字と記号がならんでいた。

「いいか、見かけたら絶対に連絡してこい。見かけなくても連絡してこい。ちなみに来月は一八日が私の休日ひばんだ――」

 いったい何を言っているんだ、この女性ひとは?

「――だが、正体がわからんからお前も気をつけろよ。《炎竜えんりゅう》の件もある」

「えんりゅう?」

「なんだ、知らんのか?」

 なぜか、勝ち誇ったような視線をアークウェット大尉は俺にむけた。

「ええ」

「私たちをおそった翼竜ワイバーン暗号名コードネームだ」

 満足したように彼女は笑う。軍を辞めたあとで決まった暗号名コードネームなんて、俺が知るわけないでしょう。

「今回の調査には、《炎竜えんりゅう》の捜索も実は含まれている。いや、正確に言えばこちらのほうが本命だ。あの大きな翼竜ワイバーンを野放しにしておくと、ここやら地上やらをいつ襲ってくるともかぎらんからな」

「まあ、そうですね」

「《炎竜えんりゅう》の捜索には、エレオノーラも乗り気でな。お前の敵討かたきうちをするんだと張りきっていたぞ」

敵討かたきうちって、まだ俺生きてるんですけど……」

 うん、やっぱり常識の斜め上を生きている子だった。

「まあ、いいじゃないか。最近はエレオノーラでも結構真面目にやっているぞ。彼女の端末番号ばんごう端末タブレットに入れておいてやったから、気が向いたら連絡してやってくれ。気が向いたらでいいからな。私には気が向かなくても連絡しろ。軍を辞めてから一度も連絡してこないとは、まったくどうかしているぞ、ファルターク。あそこでバッタリ出会わなかったら、いったいどうするつもりだったんだ?」

 そうしてまた彼女に睨まれる。いや、だから端末番号ばんごうを知らなかったんですってば。

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