第11話 冷たい唇
三日ぶりの金子市は、よく晴れていた。
僕は自宅に戻り、溜めてしまった掃除や洗濯をする。でも病院から持って帰った、彩子さんの使い掛けのカップや衣服などには手を付ける事が出来なかった。
紙袋に入っていたそれ等は、自然と一番目に付く場所に置かれる。僕の場合は、いつも彩子さんが座っていたソファの上だ。
少し落ち着いたところで、会社に連絡を取る。結婚はしていなかったものの忌引きが適用されると聞き有難かったが、亡くなる前に二週間ほど休んだりもしていたので明日から出社する事に決めた。
暫くぶりに顔を出した会社では、何と言うか思ったよりも書類が溜まっており、大変な思いをしてしまう。でも、僕の仕事が溜まっているという事は、僕がこの会社に必要とされているようで嬉しい。
昼休みになると数人がお悔やみを持って来てくれた。僕は佐野家に渡すと約束し預かる。
その後、溜まった仕事を残業で片付けようとしたら定時で帰された。もう見ていられない、との事。そんなに酷い顔をしているだろうか。
僕は帰り道にスーパーやホームセンターに寄り、久々の自炊の為の材料と、線香、灰付きの線香立てを購入した。自宅に帰ったらすぐに線香を焚き、遺品が入った紙袋の前で手を合わせる。それから料理。もちろん彩子さんの分も作り、紙袋の前に置く。
「彩子さん、焼肉のタレで炒めた牛肉ですよ。本物のお店には今度連れて行ってあげますね」
返事はもちろん無いが、それで構わない。どうせ自己満足の産物だ。なので、食後にはコーヒーも振舞う。
そんな日が四日間ほど続き、いよいよ週末になった。
僕は喪服で佐野家に出向く。
ご実家ではご両親が僕を暖かく迎えてくれた。
仏間には少し小振りになった祭壇と、白木で出来た仮位牌が置いてある。お葬式の時にもあったようだが気づかなかった。この見慣れない漢字の文字列が、彩子さんのあの世での名前だと言う。でも、僕にとってはいつまでも『彩子さん』だ。
法要はお坊さんがお経を上げて行くだけのシンプルなもので、親族も葬儀の時よりはだいぶ少ない。
僕はもっと人が減ってから、彩子さんのお骨が入った白い布箱に触れた。前回は見落としていたが、生地と同じ白い糸で刺繍がしてある。僕はその刺繍をいつまでもなぞっていた。
しかし、帰らなくてはいけない時間が来る。
僕はご両親に挨拶し、また来週と約束した。
そうやって一週間ごとに佐野家へ通う。
その間、僕の自宅での生活ぶりは変わらない。朝な夕なに線香を焚き、手を合わせ、彩子さんの分まで食事を作ってお供えする日々だ。
暫くすると両親や空太、久保さんと横島さんが様子を見に来てくれる。僕は法要に出席している事と、出来得る限り自宅でも弔っている事と、会社にも行っている事を伝えた。
僕の顔色は少し良くなっていたようで、皆は一様に安心している。そして、紙袋に対し手を合わせてくれた。
僕は皆にお茶を淹れるため、台所へ引っ込む。そして居間に戻ると、彩子さんの法要の話題が出ていた。僕がお茶を出すと、母さんが聞いてくる。
「佐野さん、いつが四十九日なの?」
「ちょうど来週が四十九日なんだ。これで一週間毎の法要が終わるみたいだけど……最後だし、何か特別な事でもあるのかな?」
それに答えてくれたのは母さんだ。
「四十九日には納骨をするのが普通ね」
「納骨?」
「お墓に骨壷を収める事よ」
お墓、と聞き僕の何かが崩れる。僕は自分でも解るほどガクガクと震えていた。
「じゃ、じゃあもう彩子さんのお骨入れに触ることも出来なくなるの!?」
「そうよ……翔には可哀相な話だけれど、お骨をお墓に入れないのもね……」
「……嫌だ。あんな石の下に入るなんて、寂しすぎる」
「でも兄さん、それが決まりみたいな物だから……」
僕は納得が行かず黙り込んでしまう。そのうち空太が、気を利かせて両親を帰してくれた。残るのは空太と久保さん、横島さんだけだ。
「ぼ、僕は鷹山くんの気持ちが少し解るよ。出来れば手元に置きたいよね。先方にお願いしてみたらどうだろう?」
「横島さん……兄さんは戸籍上の繋がりが無いから、佐野さんのお骨は佐野家のものなんですよ。そこに兄さんが拒否した所で状況は変わらない。何故なら佐野家の人たちは、お墓に入れてあげる事が一番の供養だと思っているでしょうから」
「そ、そっか……俺は引き篭もりだったから、その辺はよく解らなくて……でも、どうにかならないかな」
「分骨という手がありますね。佐野さんのお骨の一部を兄さんが引き受けるんです」
僕は空太の発言で、ぱあっと陽が射す気がした。でもご両親に「娘さんのお骨を少しでいいから僕にください」とは言いづらい。どうしたって再び骨壷を開ける事になるし、そうすれば悲しみも増すだろう。第一ご両親は、分骨などをちらりとも思っていない筈だ。
そんな考えを話す僕に対し、久保さんは「ちょっといい子ちゃんかもね」と悲しそうな表情をしている。確かにそうかもしれないけれど、この話題はデリケート過ぎて僕の手に余る。
そして、問題の四十九日がやって来た。
この日は普段より賑やかだ。やはり納骨があるからだろう。位牌だって、きちんとした物が作られている。何故か二つも。
僕は不思議に思いながら読経を聞き、手を合わせ、おそらく見るのが最後になるだろうお骨入れに口づけする。親族は驚いていたが、自分の欲望を抑え切れなかった。
そのせいか、お墓まで彩子さんを抱く事を許される。佐野家のお墓は、自宅からほど近いお寺にあった。だから、その道のりは馬鹿みたいに短い。
お墓に着くと読経が始まり、それからすぐに墓石がずらされた。墓の下にはただの土が見えており、とても冷えそうだ。
僕は少しだけ抵抗したが、親族一同の意向には逆らえない。結局は骨壷を墓の下に、自ら納める。
(彩子さん、ごめんなさい。でも、この方が成仏出来ますよね?)
ずっとそんな事を考えつつ、墓の前に立ち尽くす。親族はぱらぱらと去って行ったけれど、僕は墓の前から動く事が出来なかった。
ご両親は最後まで僕をご実家に帰るよう誘ってくれたが、やがて諦めて戻っていく。だから墓の前には僕だけという状況になった。
僕は墓石を抱きしめ、ちゅっとキスする。
「……冷たい。唇が冷たいですよ、彩子さん」
そこで僕の両目に涙が溜まった。そういえば彩子さんが病気になって以降、葬式でも一切泣いていない。なのに今頃。
僕が流した彩子さんへの涙は、墓石に染み消えて行く。まるで大粒の雨が降ったみたいだ。僕は墓を暴きたい感情を懸命に抑え、ただただ墓石を抱きしめ続けた。
結局、僕は陽が沈んでからご実家へ顔を出した。ご実家では僕の事を心配していたらしく、やたら歓迎される。僕は本当に申し訳なかったと謝ってから、仏壇に手を合わせた。
そこに、彩子さんのご両親が揃って現れる。手には位牌を持っていた。
「これね、位牌分けって言うの。片方はこちらの仏壇に置くけれど、もう片方は翔くんが持っていてくれないかしら
「……えっ!」
嬉し過ぎて言葉が出て来ない。でも位牌はすぐに受け取って、大事に大事にハンカチに包み、胸元へ仕舞う。
「あの……僕、一生大事にします」
「翔くんが言うなら間違いないな。なぁ母さん」
「本当に……一週間毎の法要に毎回来てくれたのは、翔くんだけよ。あの子も幸せ者だわ」
涙を流すご両親を宥め、僕は金子市へ帰って行く。胸元にある位牌が、何よりも大切に思えた。
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