第9話 愛しています

 その時、付き添いに来ていた彩子さんのお父さんは、病院の外で煙草を吸っていた。だから部屋には僕と彩子さん、看護師の三人きり。その看護師も、医師を呼ぶためだろう、ぱたぱたと大急ぎで去って行った。

 僕は瞼も唇も閉じている彩子さんに叫ぶ。

「今も僕は幸せです! ずっと好きです! 愛しています!」

 彩子さんの唇に口づけると、まだほんのり温かかった。

 そこに、医師と看護師が現れる。僕は彩子さんの傍から少しだけ離れ、亡くなったという確認作業をする医師や、メモの様な物を取る看護師を眺めていた。

 僕は現実感も無くぼうっとしていたが、彩子さんの身体から魂みたいな物が生まれたので刮目する。彩子さんの魂は、生前そのままの姿だった。

「……あ、彩子さん!」

 僕は彩子さんの魂に触れようと試みる。手をうんと伸ばし、抱きかかえるよう、もしくは掴むような感じで。彩子さんには、こちらの世界で一秒でも長く過ごして欲しかった。

 でも僕の腕は空を切り、試みは上手く行かず。彩子さんは白い歯を見せるような良い笑顔で『じゃあね』と手を振った。それから僕の髪に手のひらを宛がい――これはきっと、髪の毛をくしゃくしゃしているつもりなのだ。

 それが終わると、彩子さんはマーブル模様みたいにぐにゃりと歪んだ。

「待ってください! 彩子さん……! 待って……!」

 しかし彩子さんはゆっくりと空気中へ溶ける。白い魂は一片も残らなかった。

(ああ、もしも僕が、魂に触れる力を持っていたら……そうすれば彩子さんをこの世に引き留められたのかな……)

 亡くした悲しさよりも悔しさが勝ってしまい、僕はぎりっと歯軋りする。

 そこへ、彩子さんのお父さんが現れた。煙草なんかを吸っている間に、と泣き崩れている。その横で僕は、冷えていく彩子さんの手を握っていた。ずっとこうして居たかったが、それは許されない。看護師が病室から出て行くよう告げてくる。要は遺体の処理だ。所要時間は三十分、それとも一時間と言われたか。あまり聞こえて来ない。

 病室から出たお父さんは、震える手で携帯を取り出し、ご家族に悲しい連絡をした。それを見て僕も両親へ訃報を送る。

 それから僕とお父さんは、病室フロアの休憩所に座った。

「……翔くん、ありがとうね」

「いえ、最期まで至りませんでした」

「そんな事は無い、うちの家族はみんな翔くんに感謝してるよ」

 その後は二人で黙ってしまい、ちくたくと時間だけが過ぎる。僕は彩子さんの魂を見たせいか、ひどく混乱していたので、無言が有難かった。


 やがて、看護師が僕たちを呼びに来る。そこで聞いて驚いたのだが、支度を終えた彩子さんは、もう病室を追い出されるらしい。

 時刻は真夜中、僕は彩子さんを自宅へ、と思った。彩子さんを乗せる為の車が、既に用意されているという話だし。

 僕とお父さんは、車に乗り込む彩子さんを見つめていたが――運転手から行き先を問われた所で、お父さんが僕に話し掛けて来た。

「翔くん、本来なら君たちの家に彩子を寝かせるべきなんだろうが……葬儀はこちらで出したいので……実家へ連れて行くよ」

「そうですよね。ご親族がたくさん居る場所でお葬式をするべきです」

「本当に済まないね」

「いえ……その代わりと言っては何ですが、葬儀が終わるまでお宅に伺ってもいいですか?」

「それは勿論! いや、むしろ来て貰わないと困る! 何せ彩子が一番大事に思っていたのは――」

 その辺でお父さんは言葉にならなくなり、僕はハンカチを手渡した。

 やがて、車が出発していく。車には彩子さんしか乗れないと知り、僕は彩子さんのお父さんを自宅に招いた。僕たちは明日の朝一番の電車で、彩子さんのご実家へ行く。

 お父さんは眠れないようで、ずっとビールを飲んでいた。僕も眠れなかったが、大学生になった時に作った喪服や、しばらくお世話になる為の荷物などを準備し、気を紛らわす。

 あと二時間ほどで始発。電車に乗れば、また彩子さんに会える。

 僕は駅への道のりでも、電車の中でも、ご実家へ向かう車の中でも、ずっとそればかり考えていた。




 彩子さんのご実家は、ちょっと古いけれど立派な日本家屋だ。なので二間続きの仏間もあるし、葬儀はご実家で行う事になった。

 僕は皆さんに挨拶をしてご実家に上がり、さっそく彩子さんの顔を見に行った。仏間で布団に寝かせられた彩子さんはとても安らかな顔をしていて、少しだけ安心する。

 すぐに葬儀が行われる為か、ご実家はとても慌しかった。午前中のうちにお坊さんが来て、読経も始まる。

 そして、その日のうちに通夜をすると決まり、彩子さんは棺桶に移された。親族が重たそうにしていたし、少しでも役に立ちたいから勿論手伝う。その間、葬儀屋がてきぱきと祭壇を作り花を活け、すぐにお葬式の風情が整った。

 僕はある意味、部外者なので、ずっと彩子さんの傍に居られた。死化粧が取れないよう、そっと彩子さんの肩に触れて見守る。僕が彩子さんより大分若いので、僕と彩子さんの関係を知らない親族から見れば奇異だろう。そうだとしても、彩子さんのご両親やご姉弟が許してくれているのだから、どうだっていい。


 やがてお通夜が始まった。僕は一般席に座っていたのだが、彩子さんのお姉さんに連れられ親族席に着いた。親族席では参列者に礼をされ、こちらも同じく礼を返す。彩子さんの身内と扱って貰えて、少しだけ慰められた。

 僕が目を伏せていたところ、彩子さんのお母さんから「ご両親がいらしてるわよ」と声を掛けられる。見れば参列者の中に僕の両親、空太、久保さん、横島さんの姿があった。僕は参列者が疎らになった所で皆の元へ行く。

「来てくれたんだね、きっと彩子さんも喜んでる」

「翔……あんた酷い顔よ」

 嗚咽する母さんの肩を、父さんが抱いている。

 久保さんは居づらくなったのか、彩子さんの方へ移動していった。横島さんも、大泣きしながら久保さんの後を追う。

 号泣する母さんを落ち着かせようと、父さんが遠くの席に連れて行ったため、僕の傍には空太だけが残った。

「……兄さん、あの人、僕のお茶飲んだ?」

「うん、文句を言いながらも全部飲んでたよ」

「じゃあ効かなかったんだ……縋っても所詮は藁か」

「ありがとうね、空太。彩子さんは空太の気持ちが嬉しかったと思う」

「そうだといいな。じゃあ佐野さんと最後の喧嘩をしてくるね」

 そう言うと空太は彩子さんの方へ歩いて行く。空太が手を合わせつつ、普段の調子でやっているのかと思えば、不謹慎ながら少しだけ笑みが零れた。

「空太、程々にしてあげてね」

 僕は空太の背中に向かって呟き、親族席へ戻る。

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