第8話 きっと一生、後悔する

 やがて彩子さんは、僕の前でも虚勢が張れなくなった。眠っている時間が増え、久保さんが言っていた通り嘔吐もする。その上、食べてもいないのにお腹が膨らんだり、かと思えばぺたんこになったり。これに関しては彩子さんに聞くのが躊躇われ、自分で調べた。『がん お腹 膨らむ』と検索したら一発で出てくる。

 それによれば、異変の原因は『腹水』とか言うらしい。これが溜まった時に膨らんで、抜いた時はぺたんこになる訳だ。僕の疑問は解消されたが、説明サイトに並ぶ『末期の症状』という言葉には悲しみしかない。

 でも僕は同じように世話を焼き、なるべく楽しい時間を作った。面会の最後にキスする習慣も、よっぽど具合が悪くない限り続けている。

 そういえば今日、彩子さんのご両親、ご姉弟とお見舞いがかち合った。彩子さんが眠っていたので、病院に併設された喫茶室へ向かう。話す内容は親族でしか知り得ない彩子さんの病状と、僕からは最近の様子の報告などだ。

 そこで僕は、彩子さんがいよいよ長くない事を告げられた。

「彩子は翔くんを愛しています。看取ってくださったらあの子も幸せです」

「……治る、という奇跡を信じたいですが……その時がもし来たら、僕が必ず」

「ありがとうございます……!」

 ご両親、ご姉弟が涙を流している。僕もつられて泣きそうになったが我慢した。まだ彩子さんが居なくなると決まった訳じゃない。泣いてしまったらそれを認めるようで嫌だった。




 そこからは、覚悟した程ではない穏やかな日々が続いた。抗がん剤治療は続いていて、毎日ニット帽を被るようになったけれど。相変わらず嘔吐してはいるけれど。でも彩子さんは生きている。

 僕は水分を欲しがった彩子さんの介助をしていたが、毎日聴いている面会時間終了のチャイムで天井を見上げた。

「あ、もうこんな時間ですか」

「またな、翔」

「はい!」

 僕は日課のキスをして自宅に戻る。掃除などする気にならないから、少し荒れ気味だ。当たり前だけれど帰った時に部屋は真っ暗だし、独りで使うにはソファもダブルベッドも広すぎる。

 少し寒く感じたので、僕は久しぶりにコーヒーを淹れ、猫舌の彩子さんなら火傷するだろうなと思いつつ飲んだ。

「あ、しまった!」

 ぼうっとしていた為か、コーヒーカップを取り落とす。幸いもう片方の手で掴んでカップは事無きを得たが、飛び散ったコーヒーで火傷してしまった。僕の心境は複雑だ。

(こんな時に彩子さんがいたら、真っ先に心配してくれるんだろうな――翔のドジ! って言いながら、救急箱を持ってきて……)

 考えると悲しくなってくるので、思考を強制的にシャットダウンする。僕は手当もせずに無理やり眠った。




 穏やかだと思っていた日々は、だんだん変化してくるものだ。しかも医師の見立て通り、悪い方向に。

 彩子さんは見るからに痩せていた。生命力が失われていると僕でも判る。久保さんはもっと厳しく見ており、真剣な顔で「そろそろまずいかもしれない……」と呟いていた。


 そのうち彩子さんは寝返りも打てなくなった。床ずれ防止で数時間に一回看護師が来て、彩子さんの向きを変えていく。僕は少しでも役に立ちたくて、看護師の仕事を手伝った。

 この辺りで僕は会社に長期休暇を申し入れた。介助が名目だったので、割と簡単に通る。だから面会時間が許す限り、彩子さんの傍にいた。ここまで協力してくれた久保さんには感謝だ。


 そんなある日の事。僕にとっては突然だった。彩子さんが独り部屋に移るというのだ。一瞬、六人部屋よりは良い環境でいいかな、と思ったが違った。毎日通う僕に、看護師が教えてくれる。彩子さんがモルヒネの経口投与を嫌がってしまい、今後は点滴に移行するのだ、と。

 その時、僕には未だ事の重大さが解っていなかった。でも、じわじわと嫌な雰囲気を感じてくる。

 まず、泊り込みを強制された。親族が二十四時間必ず付き添うように言われたのだ。

 次に、モルヒネ点滴の恐ろしさである。簡単に中毒域に達し、彩子さんは幻覚の中で過ごしていた。眠る以外はいつも喋っているのだが、相手は大抵、高校生の頃の僕だ。

「翔、試験のヤマなら教えてあげる」

「すごいね翔! やれば出来るじゃない!」

「たこ焼き買って来たよ~! 好きでしょ?」

 こういった言葉が、際限なく続く。独り部屋に移された理由の一つはコレだろう。


 僕は親族じゃないから、個室にはご両親やご姉弟が順番で詰めていた。それぞれが彩子さんの独り言に涙している。

 僕は目を瞑り、彩子さんの独り言に小さく答えた。

「ヤマですか、お願いします」

「へへ、頑張りました」

「たこ焼き美味しいです。彩子さんにはフーフーで冷ましてあげますね」

 これを繰り返しているうちに、どんどん時間が過ぎていく。彩子さんが眠ればいつの間にか僕も寝ているし、そうかと思えば目覚めた彩子さんに話し掛けられて起きる。ブラインドがぴしゃりと閉じていたから、外が明るいのか暗いのかも判らない。

 僕はそんな中で寝ぼけつつ、彩子さんに返答していた。だから、どこからが夢で、どれが現実なのかの境界線が曖昧になってくる。彩子さんが高校生の僕にばかり話しかけるので、いま僕は高校生なんじゃないか、こんなに元気に喋っている彩子さんが病気というのは嘘なんじゃないか――そんな風にも思い込めそうだ。

 しかし、これではいけないと目を覚まし、彩子さんの手をそうっと握る。目を逸らしてはいけない。きっと一生、後悔する。

 彩子さんが亡くなったのは、それから一週間後の真夜中。幻覚のお陰で、死への恐怖が無かったのだけが救いだった。

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