第7話 念じられた雫

 それからの僕は、会社と看病を両立する生活になった。昇進試験どころでは無い。上司に身内が重病になったと告げ、定時で上がる日々が続く。

 僕が彩子さんにしてあげられるのは、ちょっとした洗濯とか読みたい本や飲み物の差し入れ、テレビ用カードの購入などなど――本当に雑用だけだ。後は久保さんとの情報交換くらいか。詳しい病状は親族しか聞けないから、籍を入れていない僕には何も出来ない。でも彩子さんのご両親は好意で病状を伝えてくれる。

 ご両親によれば、今日、彩子さんが受けているアルミホイルで包んだ点滴は、明かりを嫌う抗がん剤らしい。これを数日置いて何セットか実行する。

 僕は点滴がぽたり、ぽたりと落ちる度、その液体に「効け、効け」と言い聞かせた。もしかしたら念じれば何とかなるかもしれない。だから毎日病院へ通い、一生懸命、念を送る。

 とは言え、僕が病院に居られるのは、平日の定時上がりと休日の面会時間だけだ。他は久保さんに任せっ切り。でも僕は毎日顔を出すから、誰かがお見舞いに来ればすぐに判る。

 今日は父さんと母さんが来てくれた。嬉しかったけれど、彩子さんが恐縮して無理をするので早めに帰って貰った。

 翌日には空太。病室に入ってくるなり、浮気を疑った事を謝罪していた。彩子さんはわしゃわしゃと空太の髪を滅茶苦茶にする。

「空太くんのお陰で翔が私の薬を見つけた訳だ。感謝してるよ~」

「佐野さんは謝らせてもくれないんですか!?」

「ちょっ、空太……怒らないで」

「あっ……すみません、お見舞いも兼ねてるのに」

 そう言うと空太は、手提げ袋から見た事も無いようなパッケージを幾つも取り出した。

「これらは全部、漢方や民間療法で癌に効くと言われる健康食品です。美味しくは無いと思いますが、お茶ばかりなので全部試してください」

「ありがとうね、空太くん……」

 彩子さんが一番手前にあった箱を開ける。その途端かなりの異臭が漂ったので、彩子さんはすぐに箱を閉じた。

「すごいなコレ……どう飲めって言うんだよ」

「良薬口に苦しと言うでしょう? 貴女は黙って飲めばいいんですよ!」

「いや、苦いよりも臭いの方が先に来るんだけど?」

「じゃあ良薬鼻に臭しとでも言い換えれば良いですか!?」

「空太、抑えて抑えて……」

 空太は彩子さんに対し口調は厳しいけれど、実際は真面目に心配している。今日の健康食品だって、調べて買い物に行ったり取り寄せたりで大変だっただろう。

 なので僕は空太が帰ってから、彩子さんに癌が治るというお茶を淹れた。彩子さんは「はは、やっぱクソマズいねー」と言いながらしっかりと飲んでいる。


 その翌日には横島さんもやって来た。横島さんは結構マメに顔を出してくれる。お見舞いはいつも花束。彩子さんがあまり食べられないから仕方ないが、プロポーズに使うような真紅の薔薇の花束はどうかと思う。でも本人には悪気が無いので、彩子さんの枕元に飾った。

「ああ、いい匂いだな……どうだ横島、新しい職場は。警備会社だったっけ?」

「荒事にはそこそこ慣れてますし、もしかしたら大丈夫かもしれません」

「確かにウチで働いてればなぁ」

「実はこの間、俺が警備していた現金輸送車が狙われたんですけど、事無きを得ました。表彰されたのなんか生まれて初めてですよ」

「はは、すごいじゃないか」

 横島さんは彩子さんに良い報告が出来た事で、嬉しそうに帰って行く。その頃、面会時間が過ぎたので、僕はカーテンを引いて軽い口づけをさせて貰った。これは毎日の習慣だ。つまり、帰る合図。

「じゃあな、翔」

「ええ、また明日」

 翌日は休日だったので、僕は街に買い物へ行った。目当ては彩子さんに似合いそうなニット帽。彩子さんの髪は健在だけれど、本人はいつ毛が抜けるかと心配しているので、先に用意してあげたい。

 僕はさんざん迷った挙句、彩子さんの髪色と同じ黒い物と、洗濯用に違うメーカーのやはり黒い物を購入した。それらをプレゼント包装にして貰い、病院へ急ぐ。

「彩子さん、こんにちは!」

「お、翔だ」

「あれ……? これは何ですか?」

 今日の彩子さんのベッドには、見知らぬ物が存在していた。ベッドサークルに透明で薄い鞄のような物がぶら下がっていて、中には黄色い液体が溜まっている。

「あー……じろじろ見ないで! これ私のおしっこ!」

「へっ?」

「排尿がなかなか上手く行かなくなってきたから、導尿ってやつ。あそこに管が刺さってるんだよ……怖くて見たくない……」

「い、痛くないんですか?」

「その辺はよく出来てる。あまりトイレに行かなくていいから快適だな」

「そうでしたか……!」

「でもあんまりオシッコは見ないで! 恥ずかしいから!」

「はい、了解しました」

 笑顔を浮かべた僕だったが、内心はとても焦っていた。排尿が上手く行かないとはどういう事だ。身体全体が悲鳴を上げているんじゃないのか。彩子さんの病状は、どんどん悪化している。

 僕は冷や汗をかきつつ、お土産のニット帽を差し出した。プレゼント包装しているので、彩子さんは楽しそうに包みを開く。そして、二つのニット帽を大変喜んでくれた。

「これでいつハゲても大丈夫ね!」

「治るなら髪くらい、どうでもいいですよ」

「でもまぁ隠したくなるのが乙女心だからさ」

「ですね、自然に髪が失われるんじゃなくて、薬の副作用ですし」

「だね!」

 彩子さんがニット帽を被ってみせる。どちらの製品もよく似合っていた。

「これで治療にも前向きになれそう」

「そうですか、良かったです」

「翔、ありがとね」

 喜んでくれた彩子さんに、僕の方が嬉しい。後で久保さんに聞いてみたら、僕が居ない時にも気が向けば被っているらしかった。ただ、抗がん剤の副作用か度々嘔吐しているとも聞き、心配が募る。僕の前では元気そうに振舞っているから、余計気になった。

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