第6話 さらば、佐野探偵事務所

 異変が起きたのはラーメン屋からの帰り道、タクシーの中だった。彩子さんが酷い腹痛を訴え、うずくまっている。

 僕は大慌てで金子市立病院へ車を回して貰った。薬袋に書いてあった病院だ。

 病院にはすぐ着いた。日頃お世話になっている患者という事で、優先的に処置もして貰えそうだ。

 僕は何もする事が出来ず、ひたすら廊下で待っていたのだが、やがてストレッチャーに乗った彩子さんが運ばれてきた。すうすうと眠っている。看護師からは、今夜の様子を見るため予備のベッドで休ませると言われた。もちろん付き添いたいと申し出たが断られる。医師からすればそこまでの症状では無いらしい。

「ホントに彩子――佐野さんは平気なんですか……?」

「ええ、多分ラーメンでお腹がビックリしちゃったのね。今は重湯が限界だと思うから」

「そうでしたか……」

 それでもラーメンに誘ってくれたのは、仲直りの記念と言っていた。二人で重湯だって良かったのに、どこまで僕に気を遣うつもりなのか。自分の身を考えない彩子さんへの腹立だしい気分と、その優しさに対する感謝が交互に襲ってくる。

 それから僕は自宅に戻った。今夜、彩子さんにしてあげられる事は何も無い。


 翌朝、僕は自分が体調不良という事にして、彩子さんの元へ急いだ。ベッドでは、すっかり良くなった彩子さんが片耳にイヤホンをしてテレビを見ている。

「彩子さん」

「おー翔、騒がせて済まなかったな」

「いえ、何だか無理をさせてしまって申し訳なかったです」

「ラーメンの事なら私が言い出した話だし気にするな。ただ――」

 彩子さんからもたらされた情報は、芳しくなかった。今日、ちょうどベッドの空きが出来たので、入院を開始すると言う内容だ。

 その為か、彩子さんのご両親が病室にやって来た。保証人になったり一時金を支払ったりするらしい。本来なら僕がその役目を果たしたかったが、同じ住所なのでお役に立てず、歯がゆい思いをする。

 彩子さんのご両親と会うのは久しぶりだった。同棲を始めた時に挨拶し、僕と彩子さんの関係はご存知なので、特に気負う必要も無い。ご両親は電車で二、三時間の場所に住んでいるので、傍で暮らす僕に彩子さんの細かい世話を頼んだ。僕はもちろん笑顔で受ける。


 彩子さんはその日のうちに新しい病室へ移った。女性ばかりの六人部屋だ。挨拶しようと思ったが、大体の人はカーテンを引いている。具合が悪いのだから当然と言えば当然だった。

 でもまぁ、挨拶の品を五つ用意して、食事時などに渡す。彩子さんと同じ室内で暮らすのだから、人間関係はスムーズな方がいい。幸い彩子さんも調子さえ良ければ口が回るので、何の問題も無さそうだ。

 僕は面会時間ぎりぎりまで彩子さんと過ごしていたが、帰り際に呼び止められた。

「なぁ翔、事務所の件だが――近い内にお前が畳んでくれないか?」

「横島さんと久保さんで回っているなら、そのままでいいじゃないですか」

「私が始めた事務所だからな。いつ目が白くなるか判らないし、そうなる前に私が幕を引くのが道理だ。横島と久保が続けたいのなら、同じ稼業を新しく始めればいい」

 思うに、後顧の憂いを断ちたいのだろう。僕は彩子さんと「元気になったら、また同じような店を開業する」と約束してから、一週間以内に事務所を畳む事にした。


 僕は彩子さんの言いつけを守る為、翌日の会社帰りに事務所へ向かった。横島さんは未だ彩子さんの事をとぼけていたが、全てが明るみに出たと話すと正直になってくれる。

「ごめん鷹山くん、佐野さんから固く口止めされていて」

「いいんです、彩子さんの気持ちも解ったから」

「久保くんもね、全部知った上で我慢してて……」

「そうだったんですね。さて――」

 ここからが本題だ。僕は彩子さんの意向を伝える。横島さんは驚いていたが、すぐ彩子さんの気持ちを汲んだ。

「ここは佐野さんの思いが詰まった場所だもんね。出来れば戻るまで残しておきたかったけど、一度整理したい気持ちも解るよ」

「横島さんもどこかで開業したらどうですか?」

「いや、俺は話し下手だから。今も久保くんに相談しながら対応してるしね。でもいい社会経験をさせて貰ったし、他で頑張っていくよ」

 横島さんは転職する事に決めたようだ。そこに丁度久保さんがやって来た。久保さんも横島さんと似たような言い訳をしていたので、同じく気にしなくていいと伝える。

「横島さんは転職するみたいだけど、久保さんはどうするんですか?」

「そうだなぁ、次の面白い仕事が決まるまでは暇だね……」

 久保さんは探偵事務所を面白いと思っていたようだ。それもそうか、事務所にいれば、毎日のように愛憎劇やヒューマンドラマを実地で見られる。時にはサスペンスやミステリーのような展開もあった。

「探偵事務所並みに面白い仕事かぁ、なかなか難しそうですね」

「ホントにね……あっ! そうだ!」

 久保さんが何かを思いついたという表情で僕を見てくる。

「どうしましたか?」

「次が決まるまで、翔くんが面会に来られない時は、佐野さんの様子を見ようか?」

「本当に!?」

「佐野さんにはお世話になったしなぁ。面会に行って何かあったら、翔くんに連絡するよ」

「お、お願いします!」

 話がついたところで事務所を畳む予定を言った。横島さんと久保さんは準備期間が一週間も無い事に驚いていたが――いざとなれば僕一人で対応できそうだ。小さな事務所で書類や家具の類はぜんぶ処分だし、軽トラックでもレンタルして、ごみ集積場まで何往復かすれば済むだろう。積み込みは大変そうだけれど、体力には自信があるので。

 でも結局、横島さんと久保さん、あとは空太までもが手伝ってくれた。不動産屋との契約解除など、事務的な件も幾つかあり、人手があって良かったと考え直す。

 何も家具が無くなった事務所は、やたら狭く感じた。僕は彩子さんとの出会いの場だった部屋に深く感謝し、頭を下げる。それから鍵を掛けて、『佐野探偵事務所』は終わりを告げた。

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