第5話 白い錠剤
結局、彩子さんは、ふいっとその場を後にした。行き先が寝室だったのでホッとする。
(僕も寝よう……今日はソファを使うしかないな)
僕はごろりと横になる。そこで、彩子さんの忘れ物を見つけた。いつも持ち歩いている鞄だ。この中を調べれば、相手の情報が判るかもしれない。判りさえすれば、話なんかは出来なくても、相手の姿くらい見られるだろう。
もう浮気、というか本気が確定の今「彩子さんを疑うなんて……」という気分はとっくに消えている。
僕はがさがさと鞄を漁った。中には手帳と携帯、読みかけの雑誌、小物入れなどが入っている。ファスナーも幾つかあり、そこには印鑑や通帳などが仕舞ってあった。
僕は取り敢えず携帯を手に取る。でもPINコードを知らなくて歯が立たなかった。次に手帳。中には何故か、謎の記号が沢山並んでいる。まるで暗号だ。空太なら解けるかもしれないが、これも僕には無理だった。その後、期待せずに開けた小物入れの中身は、香水や櫛などの身だしなみ用品のみ。
(僕は探偵に向いてないな……探偵事務所でバイトって言っても、高校生だった僕は書類整理だけで、しかも受験の頃には辞めざるを得なかったし)
そう思いながら、出した物を仕舞っていく。
そこに、異音が立った。ガサッ、とか、カシャッという――紙や金属が擦れるような音だ。
僕は仕舞い掛けた物を全部出し、音の出所を探す。
それは鞄の底板の下だった。そこには厚みのある白い紙袋が入っており、袋の表に『佐野彩子様』『六~八時間毎服用』『金子市立病院』と印字してある。袋の中身は白い錠剤のシートで、何錠あるのか判らないほど幾つも重なっていた。
僕はシートを一枚だけ取ってみる。すると、すぐに『モルヒネ』という文字列が見えた。モルヒネが麻薬だという事は僕でも知っている。でも、なぜそれが彩子さんに出されているのかは解らない。
僕は仕事のため持ち歩いているノートパソコンで検索を掛けた。ブラウザ上に表示された薬の説明文には、とても強い鎮痛効果がある旨と、がん患者などに処方される事が多いという内容も記してある。
僕はモルヒネを掴んだまま、衝動的に寝室へ入った。彩子さんは眠っていたが、無理やり上下のパジャマを脱がせる。すると腹部にクッキリと肌を縫い合わせた痕が残っていた。
「……何だよ、翔」
彩子さんはまだ寝ぼけている。僕は彩子さんの眼前に、モルヒネを置いた。その途端、彩子さんの目が見開かれる。
「これ、説明してください」
僕が強く言うと、彩子さんがノソノソと起き上がる。そして、僕の頭をくしゃっと撫でた。
「……もう隠し切れないか。そう、私はがん患者ってやつだよ」
「何で言ってくれなかったんですか!?」
「まぁ手術で治る可能性も低かったしね」
「そ、そうだ手術! そんな事をいつの間に――あっ!」
僕は彩子さんの一人旅を思い出す。そういえば、あれ以降、肉体関係を拒まれていた。
「……一人旅って、入院だったんですね。拒まれてた理由も解りました。傷跡、見られたら大変ですもんね……」
「まぁ真っ暗にすりゃやれない事もなかったよ。でもさ、体力が本当に落ちてるし無理そうで」
「当たり前じゃないですか! 僕だって知っていれば求めませんでしたよ!」
以前抱きしめた時よりも、更に細くなってしまった彩子さんの身体に触れる。彩子さんは気まずそうにパジャマを着込んだ。
「なぁ翔。私さ、抗がん剤の点滴をしてるんだよ。今まで短期入院や通院で出来てたけど、だんだん症状が悪くなってきて」
「それが長期出張と、事務所に行かなかった理由ですか!? どれだけ騙せば気が済むんだ!」
「まぁ聞いて。私、今度ベッドの空きが出来たら長期で入院するの。これから色んな抗がん剤に挑戦して、どんどん毛も抜けてハゲるし、どうせ治らないから多分死ぬまで出て来られないだろうなぁ」
「先進医療もあります! 勝手に決め付けないでください!」
抵抗する僕へ、彩子さんが微笑する。達観してしまったような表情だ。僕はそれが気に入らない。
「どうせ貴女の事だ、僕に言ったら迷惑が掛かるとか、そんな事ばっかり考えてたんでしょう?」
「否定はしない」
「食事は摂らなかったんじゃなくて、摂れなかったんでしょう?」
「それも否定しない」
「浮気の振りをして僕に嫌われて、後腐れなくしようと努力したんでしょう?」
「……まぁ、否定しない」
僕は彩子さんをじっと見据えていたが、彩子さんはきょろきょろと視線を動かす。きっと落ち着かないのだろう。自分の計画が崩れた上、僕に問い質されているのだから。
そこで僕は、ふわっと静かな気持ちになった。辛いのは彩子さんなのに、僕が責めてどうしようというのか。それよりも、いま僕が出来る事は――。
「あの……僕、彩子さんと闘病生活する覚悟を決めました」
「そうかぁ。翔は優しいけど頑固なトコあるからねー。まぁそんなに保たないと思うし、もうバレちゃったしよろしく頼むわ」
「治ります!」
「そりゃあ現代医学の否定だよ」
ははっと彩子さんが笑って、いきなり起き上がる。何事かと思っていたら、外出用の服を着始めた。
「ど、どうしたんですか彩子さん」
「まだ時間に間に合うし、久しぶりのラーメンでも行かない? まぁ仲直りの記念って事で」
「……っ! 嬉しいです!」
僕は彩子さんに一度だけ口づけし、すぐ外出の支度をした。向かうラーメン屋は、事務所でバイトしていた頃に沢山連れて行って貰ったお店。元気であれば歩ける距離だけれど、今回は彩子さんの体力を考えてタクシーを使う。
車内で彩子さんは、流れる景色を見ていた。僕はそんな彩子さんの姿を見つめる。無くなってしまうかもしれない長くて艶のある黒髪、強く抱いたら折れそうな肩。そこで彩子さんの手が空いているのに気づき、ちょっと握らせて貰った。すると、同じくらいの力で握り返してくれる。
(どうしよう……病状は深刻そうだけど、今すごく嬉しい)
僕は嬉しさの原因を少しだけ考え、離れようとした彩子さんと、また気持ちが繋がったからだと結論づけた。そうだ、いま僕の前には嘘の無い彩子さんが居る。
「翔」
「は、はいっ」
いきなり名前を呼ばれて驚いた。素っ頓狂な声で返事をしてしまう。
「何かありましたか、彩子さん」
「あのさぁ、今日はチャーシュー何枚でも頼んでいいよ」
「……すごいな、大盤振る舞いだ」
「まぁね」
ラーメン屋には八分ほどで着いた。
僕はここに来るのが久々だったけれど、彩子さんは度々通っていたので店主は気さくに対応してくれる。
「なんだいお客さん、ちょっと痩せたか?」
「中年過ぎると食欲がなぁ」
「解る解る! 俺もさぁ――」
本当はちっとも解っていない。こうやって僕にも誤魔化していたと思えば悲しくなってくる。
店主は暇なのかラーメンを作りながら話し続け、出来上がる頃には話題が僕の事になっていた。
「へぇ~、あの高校生の子が立派になったね!」
「身長なんか百八十五センチだってさ! ガタイがいいんで、並んでる私も鼻が高い!」
「……止めてください彩子さん、恥ずかしいです」
「よっ、仲がいい二人にチャーシューをサービスだ! 特にお客さんは痩せちまったから、麺も大盛りにしといたぜ」
「すごい、チャーシュー追加する必要なかったな」
確かにチャーシューは多いし、彩子さんの丼も大きい。今の彩子さんが、こんなに食べられるとは思えなかった。彩子さんもそう感じたらしく、大盛りの丼を僕に寄越す。
「さぁ翔、たくさん食べて大きくなれよ!」
「もう十分大きいですよ……でも頂きます。彩子さんは僕のを食べてください」
「うむうむ。ほれ、私のチャーシューもやるからな」
彩子さんはそう言いつつ、自分の丼の中身を殆ど全部押し付けてくる。残ったのは少しの麺とスープくらいだ。
それでも彩子さんはスープを残し、「ごちそうさま」と呟いた。僕はそのスピードに付いて行けず、未だ麺をすすっていた訳だが。彩子さんは「二人でラーメン、懐かしいな」と、どこか遠くを眺めていた。
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