第3話 大冷戦
結局、彩子さんが帰って来たのは、最初の日から数えて三ヵ月後。しかも帰宅日については全くの未連絡だった。僕が自宅に帰って見つけたのは、既に荷解きも終わって居眠りしている彩子さん。一瞬、僕は夢の中に居るんじゃないかと思った。「サプライズしたかった」とは、その後居眠りから目覚めた本人談。
「お帰りなさい、彩子さん……!」
「思ったより長引いちゃって悪かったね」
「いいんです、その分楽しかったですよね?」
「お土産あるよ~。とりあえず『ちんすこう』でも食べるか。結構甘いんだよねコレ」
「ふふっ、じゃあお茶を淹れますね」
彩子さんはお茶を飲みながら、最後に行ったという沖縄の話を沢山してくれた。僕は一回も行った事が無かったので、本当に聞くだけしか出来ないけれど、彩子さんの話を通して見える沖縄の景色はとても美しい。
やがて彩子さんは、旅行疲れか眠気を訴え、本格的に寝入ってしまう。久しぶりに逢えたから是非とも抱きたかったけれど、今の彩子さんにそれは酷な話だろう。
「しばらく経って元気になったら、しましょうね……」
僕はベッドの中の彩子さんに軽くキスした。そして彩子さんの温もりを感じながら、一緒に眠る。
彩子さんは三、四日しっかり休んでから、事務所へ出勤していった。横島さんにも久保さんにも、帰宅したと言っていないらしいので、彼らはとても驚くだろう。「横島さんは所長の帰還に気が抜け、泣いてしまうかもしれないな」などと思い、くすっと微笑む。
その一方で僕の生活は、彩子さんが居なかった時より悪化していた。仕事はバンバン入って来たし、資格の試験日も迫っている。更に悪い事には部下が想定外の妊娠をしてしまい、早々の寿退社という運びになり――すぐ新しい人材が配置されたが、教育が終わるまでには暫くかかるだろう。その間の皺寄せは、結局僕に回ってくる。
なので、夕食は会社で出前を取ったりコンビニで済ませたりという感じで、彩子さんには申し訳ない事になった。僕は帰宅出来た時にそれらを謝るのだが「翔のせいじゃないでしょ! 翔は頑張ってるよ! 偉い偉い!」と髪をくしゃくしゃされて終わりだ。
でも新人が慣れ、試験が終わってしまえば多少の余裕が出てくる。
試験結果はまだ出ていないけれど、僕は久々に彩子さんを誘った。でも「仕事で疲れた」と断られてしまい、非常に残念だ。
とは言え自分だって余裕が出るまでは、彩子さんをそちら方向で『放って置いた』という状態だったので、強くは言えない。我慢のご褒美に手だけ握らせて貰い、二人で眠る。
そんなある日、僕と彩子さんの間で喧嘩が勃発した。
「彩子さん! いつになったら抱かせてくれるんですか!」
「いやー、私も若くないしさぁ。ホント疲れてんだよ」
何だかんだで言い訳され、もう一ヶ月近く抱かせて貰っていない。僕は我慢の限界に達し、彩子さんに詰め寄る。
「彩子さん!」
「いや、マジで許して翔さま。手だけでいいなら付き合うけど……」
「ダメです!」
僕は強引に彩子さんを抱きしめる。そこで違和感を覚えた。
「……ずいぶん痩せました? 昔から細身だったけど、それよりもだいぶ……」
「うーん、疲れで食欲も控えめなんだよな。まぁ中年太りの三段腹になるよりはマシだろ?」
「……そういえば、夕食も僕の分だけ作ってあって、自分は『もう済ませた』と言ってばかりでしたよね」
「すまん、翔が心配すると思ってさぁ」
「はぁ!? まだそういう事を言うんですか!?」
僕はそれから懇々と数時間説教した。ついでに彩子さんが未だに籍を入れてくれない不満も口にする。
それが悪かったのか、翌日から彩子さんの機嫌は最悪だ。僕の食事の用意もしてくれないし、目が合えばツンと逸らしてしまう。
(何だよ、確かに僕も言い過ぎたけど、彩子さんを大事に思っての話だったのに)
ちょっとした歪みはお互いの意地で長引き、いつの間にか家庭での会話が無くなっていた。こうなったら我慢比べだ。今回は元々の切っ掛けが彩子さんにあるし、多分よく喋る彩子さんの方が折れてくるだろう。そんな風に思っていたのだが。
彩子さんはちっとも折れなかった。それどころか事務所からの帰宅時間をわざと遅くして、家に帰って来ても風呂に入って寝るだけだ。
これは不味い、と僕は今さら慌てる。やはり僕から謝った方が良さそうだ。
とはいえ、タイミングが難しい。朝は僕の方が早く起きて出勤するし、夜は僕が声を掛けても無視して眠ってしまう。眠っている彩子さんを起こして謝罪、というのは自分本位な気がして実行しにくいから、起きているであろう時間帯にメールや通話をしてみても反応無し。更には休日も合わせてくれない。
そんな時、僕が受けていた試験の結果が出た。内容は無事の合格。昇進試験の話も本決まりになる。この報告は仲直りの切っ掛け作りになりそうだと思い、今夜も無視を決め込み寝室に入ろうとする彩子さんに、嬉しい事があると話し掛けてみた。彩子さんは立ち止まり、久しぶりに僕の姿を見てくれる。
「あのっ、資格試験に受かって、今度は昇進出来るかもしれないんです!」
「そうか」
「あと、この間は済みませんでした、僕が言い過ぎてしまって――」
「別にいいんじゃないの? もう、どうでもいい」
彩子さんはそう言い残して寝室に入ってしまう。
いよいよ焦った僕は『手紙を書く』という手法を取った。内容は「先日は言い過ぎてごめんなさい、謝罪が遅くなったのもすみません。許してください」というシンプルなものだ。
僕は手紙に封をして、絶対に目に入るだろう玄関ドアの内側に貼って置いた。封筒には大きい字で『謝罪文』と書いてあるから、かなり目立つ。
(よし、これで彩子さんも機嫌を直してくれるだろう!)
僕は勇んで出勤した。しかし帰宅した時、封筒がそのままになっていたので落胆する。
その日、彩子さんは帰って来なかった。無断外泊というやつだ。僕は心配で眠れず、そのまま出勤した。正直、仕事に行くような気分では無かったけれど、重要な会議の予定があったので外せない。
僕は出勤時、どうやったら許して貰えるのかという事ばかり考えていた。重要な会議だって、あまり耳に入って来ない。僕はその後も考えて、考えて、考えて――最後に思い出したのが弟である空太の存在だった。夫婦喧嘩は犬も食わないと言うけれど、空太ならきっと真面目に聞いてくれる。ただネックとして、空太が『彩子さんに厳しい』というのが存在した。高校生の僕を安めの時給プラス仕事帰りのラーメンという、現物支給で雇っていたのが気に入らないらしい。僕は一緒に食事が出来て喜んでいたのだけれど。そういえば、空太は探偵業務だって胡散臭いと一蹴していた。僕がさんざん振られていたのにも怒っているし、まぁとにかく良くは思っていなかった。でも、そんな空太だからこそ、僕とは違う意見が出そうで期待できる。
夕方、僕は空太に連絡を取り、食事に誘ってみた。空太だって仕事があるだろうに、二つ返事で了承される。僕は空太お勧めのレストランで会う約束をした。個室もあるというから丁度いい。
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