第2話 一人旅

 そんな状態が二ヶ月くらい続いた頃だろうか。

 何となく彩子さんの様子がおかしくなった。特に笑顔が変だ。まるで事務所でお客さんを相手にしているような営業スマイルを僕に送ってくる。

「……彩子さん、何か悪い事でもしました?」

「してないよ」

「でもその笑顔! 空太だったら容赦なく『胡散臭い』って言いますよ!」

「あー、翔の弟くんはそういうところあるね……いやさぁ、出張依頼で張り切り過ぎて、今頃疲れが……歳は取りたくないよ」

 そういえば彩子さんは四十歳を過ぎていた。僕には解らない領域だけれど、歳を取ると後から筋肉痛が来るとか聞いた事もあるし、だから出張の疲れが溜まったというのも頷ける。

「まったく、疲れてるならそう言ってくださいよ! 無理して笑わないで欲しいです!」

「だって心配掛けたくないし」

「僕は彩子さんの何ですか? 一緒に住んでる意味は解ってます?」

「だ、だって……歳だから疲れたとか言いづらいと思わない? ただでさえ翔は一回り以上若いんだし……ちょっとした意地ぐらい張らせてよ」

 僕は軽く溜息を吐いたけれど、彩子さんの気持ちも解らなくはない。いつまで年齢差を気にしているのかとも思うが、まだ僕は二十代なので、やっぱり四十代とは数字のインパクトが違う。

(もうちょっと経てば、こういう彩子さんの反応も無くなるかなぁ)

 僕は翌日、栄養ドリンクを何本か差し入れた。彩子さんは「私もこんなモンの世話になる日が来たか」と笑っている。その笑顔が普段通りだったので、僕は安心した。


 しかし。

 彩子さんは疲れが取れるや否や「国内でいいから一人旅をしたい」と言い出した。僕はもちろん反対だ。

「何で一人旅なんですか!」

「いやぁ、子供の頃からの夢だったんだよね。死ぬまでにやりたい事の一つなんだけどさ、こないだ体力の衰えを感じたし、実行するなら早いほうがいいかなって」

「ああ……」

 僕は納得してしまう。これから年齢が上がれば上がるほど、無茶が効かなくなりそうだからだ。

「事務所は久保と横島に任せるよ。最近、横島も私の真似をして、女性客への対応が出来るようになって来たしな」

「えっ、そうなんですか?」

「まぁ久保のサポートは必要らしいが。久保は年齢重ねてるから、結構頼りになるし……あ~、部下に任せて一人旅出来る環境最高! 帰って来たら貯まった売り上げ金もあるんだぜ?」

「彩子さん! 不真面目過ぎますよ!」

 ぺろっと舌を出した後、彩子さんが大爆笑する。その後はネットを見つつ、「いつ出発にしようかな~」などと楽しそうにしていた。

 僕は頻繁に連絡を取る事を約束して貰ってから、彩子さんの計画を聞く。すると、北海道から沖縄まで津々浦々周るという返答があった。これではいつ帰って来るか判らない。


 数日すると、彩子さんは荷造りを始めた。思ったよりも荷物が少なく指摘したところ、「足りない分は現地調達だよ」という返答があった。

「なるほど、それも楽しそうですね」

「たぶん記念になるしな」

「いいアイディアだと思いますよ」

「でしょ?」

 彩子さんは本当に嬉しそうだ。僕は少し、いや、かなり寂しかったけれど、子供の頃からの夢を叶えてあげる事に関しては悪い気分じゃない。それに連絡を取ろうと思えば携帯があるし、もし彩子さんが困る事態になっても国内だからすぐ助けに行ける。

 ただ、離れると思うと抱きたい気持ちが強くなり、出発の前日だというのに致してしまった。なるべく優しくはしたけれど。


 僕は翌日、彩子さんを最寄の駅まで送って行った。かなりの早朝だったので駅のホームに乗客は居ない。僕だって普段なら出勤前だ。

「じゃ、行って来るね!」

「本当に気をつけてくださいよ、連絡もマメにして欲しいです」

「解ってるって」

 ちゅ、と彩子さんがキスしてくれた。僕は彩子さんを抱きしめ、それは電車の出発を告げる音声が鳴るまで続く。

「はは、ホームに誰も居ないのを最大限に利用しちゃいましたね」

「車掌さんには見られたけど……じゃ、楽しい一人旅を始めるよ! またね!」

 挨拶をしながら、彩子さんが電車に乗り込んだ。すぐに電車が出発し、僕は彩子さんが見えなくなるまで大きく手を振る。お互いに笑顔だった。




 彩子さんが一人旅に出て、僕の生活はだいぶ変化した。

 寂しさを埋めるため仕事に打ち込んでいたら、二ヶ月経った頃には資格取得や昇進試験を勧められるようになったのだ。仕事をしながら資格の勉強をするのは割と大変で、僕は携帯の向こうの彩子さんに弱音を吐いていた。

「はぁ、疲れた」

『翔は今が頑張り時でしょ!』

「それは解ってるんですけど……せめて彩子さんが傍に居てくれたらなぁ。今どこですか?」

『大阪。食べ物が美味しくて安い! ちょっと短気な人が多い気もするけど、いい街だね』

「へぇ~……遊びに行っていいですか? 本場のたこ焼きが食べたいなぁ」

『翔がたこ焼きを好きなのは知ってる。でも、来ちゃったら一人旅じゃなくなるでしょ!』

「ああ、そうでした」

 僕たちは同時に笑う。それから僕が旅の安全を祈願し、携帯に向かいキスしてから通話を切った。

(よし、彩子さんからパワーを貰えた気がする。もう少し頑張ろう)

 僕は背伸びをして、こつこつと勉強を再開した。

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