17話

「ごめん。遅くなった」


 デイタの体は、立っていられるのが不思議なくらい酷い有様だった。木人との戦いで負った傷に加えて、右半身に傷が増えている。左肩に背負ったヒヅキを庇い、プテラの攻撃を受けたからだろうか。


 火傷は未だ炙られているかのように、脳へ熱を伝え続ける。応急処置すら施していない傷口。凍てつく外気が刺し、雪は染みる。傷口と外気の温度差が、熱を余計に強く感じさせた。


「デイ、タ……?」


「女騎士頼む」


 呆然と、状況を把握しようとするアリス。


 デイタはそんなアリスに、気を失ったままのヒヅキを寄りかけた。「んんっ」とヒヅキの瞼が動き、意識を取り戻したのを確認して視線を動かす。


 視界に収めたのは、血の海に沈むデュオンの姿。解けて赤くなった雪は既に凍り始めていた。


「アリスほとんど怪我してないじゃん。約束、守ってくれたんだ」


「グゥ……」


 襲い来る鎌を見もせずに砕きながらデュオンに語り掛ける。喉を震わせることすら辛いだろうに、デュオンは言葉を返した。


「ありがとう。デュオン」


 デイタの声は掠れていた。デュオンの命がもう長くはないことを理解してしまったから。沸き上がってくる感情を何とか抑えて振り返る。まだやらなくちゃいけないことがあった。


『デイタ……!』


 デイタとラムの目が合う。その視線を受けてラムの心がかき乱された。これまでより一層激しく。心の揺らぎが大きければ大きいほど、その原因に対する破壊衝動が強まっていく。燻っていた感情が燃え上がり、熱い殺意なって体を突き動かした。


「その恰好、あんま似合ってないね」


『零点』


 ラムの体にノイズが走り、その両肩が犬の頭蓋へと変身していた。デュオンの姿を反映させたのだろう。


 目視した生命体の優れた部位を掛け合わせて、異形の姿は更に暴悪に変身する。


『もう私をかき乱さないで』


 犬の頭蓋から炎と冷気が放たれた。


 螺旋を描く、相反する力の本流をデイタが受け止める。竜の手のひらがじわじわと削れていく。熱と冷気で硬くなった皮膚が罅割れ、崩れるように細かな肉片が散る。


 しかしデイタの手が削り切られるより先に、拳を力強く握りしめる。


 荒れ狂う炎と冷気が、霧散した。


「俺考えたけどさあ!」


 デイタが跳び上がる。振るわれる鎌を力任せに振り払い、障害など無いかのように真っ直ぐ突き進んだ。


 叩かれた鎌は例外なく粉々に砕け散っていく。


(再生、できない……!?)


 砕かれた腕がこれまでのように再生できないことに気づく。原因もわからず、今まで出来ていたことが突然できなくなり混乱した。しかし思考を整理する時間はない。がむしゃらに繰り出した足鎌も、為す術なく砕かれる。


「嫌なことあるなら!」


 考える暇も与えず迫るデイタ。鎌も、大蛇も、熱線も、炎や冷気さえ、黒竜の腕が余す所無く壊し尽くす。災害激甚の渦中を、その身一つで突破した。


「言ってくれないと!」


 デイタが異形の胸骨に手を添える。


「やっぱ、わかんねー!」


 衝撃が発生し、胸骨が砕けた。


 そして押し込んだデイタの手が、内側にいた白き少女の顔を鷲掴みにしていた。翼の生えた、蝋のように白い少女。


 グルフォスが「天使」と呼称する存在。


「お前だ、邪魔なのは!」


 そのまま握りつぶそうとするデイタ。


 しかしその瞬間、脳内に膨大な量の情報が流れ込んできた。何億、否それ以上の生涯の記憶が一瞬の内に流されたかのような圧倒的な情報量。整理することなど到底できず、その情報の殆どを認識できない。代わりにデイタが感じ取れたのは、脳を直接揺さぶられるような、激しい頭痛。


 けれど認識できた情報のほんの一欠片。変身能力に気づいた少女とそれを利用する人間たち。他人に成り代わる日々で自我を見失いかけながら歩んだ数年間。世界の全てが敵に回ったと錯覚してしまうくらい、短期間に浴びせられた多量の悪意。


 それは全方位から槍を突き刺されるような、凄惨で暴力的な体験だった。


「っ!?」


 流れてきた情報に気を取られ、力を緩めてしまったデイタ。その隙をつかれ、背後から放たれたラムの熱線。既に避けられない距離まで迫っていた。


 振り向き、かろうじて腕で受けるが、地上へと勢いよく撃ち落される。土が舞いあがり、凄まじい衝撃で地面が陥没した。


 クレーターの中心にデイタが蹲る。


「う、おぇ……」


 内側から何かが込み上げ、呻きながら白いドロドロとしたものを吐き出した。高熱を出したように汗が噴きあがり、息を荒げて肩を上下させる。胸を押さえて呼吸を整えようと必死に息をした。そうして、膝に手をつきながらも何とか立ち上がった。


 一方。


『ごめ……』


 ラムは胸を痛めていた。苦しそうに身悶えするデイタの姿を見ていられなくて。


 だが何か言いかけた時には再び天使がラムの中に戻っていた。


『う、あ、あああああああ!』


 ラムの体がノイズに包み込まれ、傷一つない異形の姿となって現出する。デイタの攻撃に対して再生能力は働かないが、変身し直せば体は元に戻るらしい。燃え滾る殺意が再度表面化し、デイタに狙いを定める。


 対するデイタは口を拭い、ラムを見上げた。


「……ごめん、気づけなくて」


 ラムがどんな思いで生きてきたのか。もっとデイタにできることはなかったのか。悔悟の情は尽きない。けれど今は自分の不甲斐無さを嘆く前に、目の前で苦しむ少女と向き合うのが先だ。


 今のままでは先刻のように、天使に触れただけで動けなくなってしまう。そんなことでは、ラムに寄生した天使を引き剥がせない。この状況が長く続くのは不味い。触れただけであの影響力なら、取り憑かれているラムはどれだけ苦しんでいるか。


「すぐ、終わらせる」


 一刻も早く天使を消す。形振り構っていられない。我が身可愛さに、力を出し渋る戦局は越えた。


 デイタが己に課した枷を外す。


 その体が黒い瘴気の渦に包まれた。強力な重力場が発生し、大気が、大地が震動し土や雪を巻き込んでいく。


 雷鳴が轟き、白い景色に極大の黒球が形成される。


 ここに新たな世界が創造されようとでもしているのだろうか。そう疑うほどの爆発的なエネルギーの集中と膨張。


「デイタ!? それはダメだよ!」


 アリスが声を張り上げる。しかし静止の声は届いていないのか、黒い渦は収まらない。


「なにが、起こって……」


 ヒヅキが荒ぶる力の膨大さに言葉を失う。特殊な知覚能力など持っていなくても、本能が刺激される。


 重力が増したように、全身を倦怠感が襲う。背筋に悪寒が巡った。鼓動が早まり、胃は縮んだようにムカムカと不快感を訴える。肺が酸素を拒絶し、呼吸さえ儘ならない。喉が閉じたように、細くなった器官で無理やり息を繰り返した。


 黒球の外周に渦が巻き、山をも包むほどに拡大していく。アリスとヒヅキは吹き飛ばされないよう必死に互いとデュオンの体を支えた。


 極大の黒渦は、やがて内側にいる存在の中へ取り込まれていく。


 現れたのは、黒き怪物。


 燃えるような赤き瞳。一度振るえば街一つ吹き飛ばす強大な竜の腕。西洋の竜のような頭部と人間のような構造の体。しかし腰から下に足はなく、東洋の龍のような首が無数に蠢いていた。一頭でも実在したなら、世界はその龍の気まぐれで回るであろう。皮膚を覆う硬質で尖った鱗は触れた悉くを傷ける。


 破壊の化身が、そこにいた。


『連理……』


 天使と接続して流れ込んだ情報。デイタの正体。


 こんなものが世界に存在していい道理がない。こんなものが存在するのなら、世界は形を保てない。やがて何もなくなった世界に、怪物だけが残されるだろう。


 その異様を目にしたものは、黒き怪物が存在する世界を容認できず、その存在を本能が否定する。恐怖という言葉ですら生温い。知覚するだけで精神が汚染され、正気を保てる者は一握り。あらゆる負の感情が身体を震わせ、意思を砕く。


 黒き怪物と化したデイタ。


 黒竜の巨腕が、ラムの異形の腕を掴み容易く引き千切った。千切った腕を握り潰し、崩壊させた残骸から天使を炙り出す。無数の龍が天使を咬み砕いていった。欠片も残らずに消滅した白き少女。


 しかし大地が割れ、白い蝋のような何かが間欠泉のように沸き上がる。その全てがラムへと向かい、濁流が異形に襲い掛かる。無数の龍と二本の腕がそれを阻まんとするが、全てを消滅させることはできず。天使がラムと同化していく。


 そして、ラムが姿を変えた。


『あれには変身できないか』


 黒き怪物、連理へと変身を試みたが上手くいかず、しかしその力の一端を再現することには成功した。背から十の龍が蠢き、開いた口に黒い光が収束する。


『消えて』


 放たれた十条の黒光がデイタに伸びる。触れたもの全てを抹消する負の力。


 だが無慈悲にも黒光の悉くを無数の龍が喰らい尽くし、光線が霧散した。


 無数の龍は止まることなく、ラムの攻撃を残らず喰い荒らす。


 竜の腕と龍のアギトが怒涛の如く押し寄せ、ラムに取り付く天使を片っ端から滅していった。


 更に地上から沸き上がろうとする天使に、無数の龍が黒い波動をぶつける。波動は侵食し、地中深くを巡る。そして、この世界枝に根を張った天使を一切合切消滅させた。


(化け物になった私より、化け物になって止めてくるとかさあ……)


 ラムは壊されていく自身の異形の体を冷静に見ていた。傷つけられているにもかかわらず、怒りは覚えない。


『ほんと、めちゃくちゃなやつ……』


 異形の体が砕け散り、そこに小さなノイズが生じた。人の姿へと戻ったラム。ほとんど意識がないのか、重力に身を任せて落ちていく。


 ラムを追いかけるデイタの体から黒い渦が抜けていき、こちらも人の姿へと戻った。その体には黒い罅のようなものが刻まれている。怪物となった代償。神経が断たれ、脳の信号が強制的に遮断されるような激痛と思考の攪乱が頻りに起きていた。


 デイタは痛みに顔を顰めながらも、落ち続けるラムへ右手を伸ばす。


「ラム!」


 ラムは朦朧とする意識の中、自分へ必死に手を伸ばす少年の姿に頬を綻ばせる。


「やっと、呼んでくれた」


 辛くて、苦しくて、どうしようもなくなった時。彼と関わった後には、気持ちが移ろっている。少しずつ少しずつ、気づけば暗いところから離れていて、見つけた明るい場所に行きたいと思うようになって。


 今もこうして、手を差し伸べてくれる。暗いところへ行かないように。明かりはこっちだと。


 アリスと話して確信した想い。後ろめたくもあるその気持ちは、けれど膨れ上がるのを止められない。どうしようもなく純粋で、だからこそ扱いに困る。自分には似合わないとラム自身思っているが、どうにも手放せない。


 自分を変えてしまうほどに激しく、かつ甘い感情。


(……好き殺したい


「!?」


 ラムの表情が驚愕に染まる。


(いま私、何を……)


 デイタの手が、手を伸ばせば届く距離まで近づく。


 その手を見て思うのは、いつも。


 水族館で手を取ってくれたデイタ。手を取って笑いあうデイタとアリス。


その手を私もその手がなければ!……)


 ラムは自分の中に、まだ天使の欠片がいると気づく。天使が醜い感情、悋気を押し上げる。


(違う! 私はそんなこと思ってない!)


 押し殺そうとしても、ラムの自我を覆うように張り付いて離れない。好意に寄生して膨れ上がる悪意。明りに手を伸ばすほど、暗がりが逃がすまいと近づいてくる。やがて自我が塗り替えられ、ラムという人格が消失してしまう。そんな恐ろしい結末が脳裏を過り、息が詰まりそうになる。


「助けて……」


 涙ながらに伸ばした手。それは誰にも救いを求められず、救われてはいけないと思っている少女が心の奥底に秘めていた、紛れもない願い。


 デイタは全身を使って少しでも前へと、更に手を伸ばす。


(その手があるから……!)

「逃げて!」


 何が自分の感情なのかもあやふやだった。


 叫びも虚しく、互いの指先が触れ合う。


 次の瞬間には、デイタの右腕が血飛沫をあげて舞っていた。


「──!」


 デイタは歯を食いしばって、痛みに声を上げないよう堪える。


「ちが、うの……ごめんなさ……」


 鎌の生えた自身の腕を見てラムが震える。自分を助けるために手を伸ばしてくれた愛しい人。その表情が激痛に歪んでいる。それを為したのが他ならぬラム自身であることが信じられない。信じたくない。


「なんで……」


 ラムが、歯を食い縛るデイタを見つめて呟く。


「声、上げないの……?」


 ラムが報復したものたちは皆、泣き叫び喚き散らしていた。それが正常な反応だ。


 痛いはず。熱いはず。辛いはず。苦しいはず。


 助けようとした相手に裏切られたのだ。怒りも悲しみも、内に溢れているはず。


(叫ぶのを堪える必要なんて……)


 ラムにはわからなかった。デイタが何を考えているか。自分のことに一杯一杯で、悪意以外の感情を読み取ることに慣れないままこれまで生きてきたから。一番大切な人を傷つけてしまった自責の念に苛まれ、頭も回らない今は余計。


「アリスが」


 デイタの口から出たのはこの場にいるもう一人の少女の名前だった。何故だか今は聞きたくない盲目の少女の名前。


 音が彩るアリスの世界。風の音や足音など、発されている音から情報をかき集めて景色を思い描く、音が光になった世界。


 言葉が創造するアリスの世界。そこに「ものがある」と言われた瞬間『もの』が現れる、言葉が魔法のような力を持った世界。


 もしも悲鳴を上げてしまえば。


「怖がる」


 アリスの世界を、恐怖で染めてしまうから。


 ラムがそれを聞き終える頃には、デイタの腹部を鎌が貫いていた。

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