1話 

 浮かぶのは視線。


 母親。クラスメイト。共演者やスタッフ。他人。家に上がり込むようになった男。


 込められた感情はそれぞれ。


 期待。嫉妬。怨恨。嫌悪。羨望。色情。


 枚挙に遑がないそれら。その視線のどれもが、心を蝕んだ。


 心の深く。見せたくも知られたくもない、醜い自身を探られているようで。いつか、見透かされてしまいそうで。


「案外、怖くないな……」


 夏が過ぎ、肌寒い風が秋の訪れを感じさせる校舎の屋上。通常は立ち入りが制限されている。しかし縁にある柵を越え、足を滑らせれば落ちてしまいそうな、そんな危険な場所に少女がいた。


 風に靡く嫋やかな黒髪。長い睫毛に、透き通り澄み切った瞳。真っ直ぐ通った鼻筋。少し小さめの艶やかな唇。若くして、見るものの心を吸い寄せる妖艶なまでの魅力を感じさせる。


 少女の容姿は、浮世離れして見える程に美しかった。個の造形が神によって成されているのだとすれば、間違いなく神から祝福を受けているのだろう。


 少女が昏い決心に突き動かされようとしている中、下方にはいつも通りの光景が広がる。グラウンドを駆ける運動部と、行事に備えて行進しながら演奏する吹奏楽部。


 最後を彩るには、似つかわしくない賑やかさだった。


 少女の心と周囲の雰囲気の乖離が可笑しくて、皮肉気に笑う。個人がどれだけ悩んでいようと、沈んでいようと、世界は見向きもしない。分かりきっていること。なのにいざ自分がその立場になると憎らしく感じてしまうのだから、大概勝手だ。


 少女が重心を前方へずらし、赤みがかった空に背を向けようとした時。


 屋上の扉が開く。年季が入っており建て付けも悪くなってる為か、キィと思わず身を竦めたくなる音がした。


「誰!?」


 少女が倉皇として柵を掴み、誰何する。


 屋上に来る者など滅多に居ない筈だ。それがこんな、少女にとって都合の悪いタイミングで起こるだなんて。


「ん? 誰かいんの?」


 入ってきたのは寝癖のついた少年だった。シャツには皺が目立ち、ネクタイは緩んで曲がっている。捲った袖もぐちゃぐちゃだ。着崩しているというよりは、ただだらし無くてそうなったであろう制服姿。


 その手には、天辺に取っ手のついた球状の何かを持っている。それには棒状の足が三本ついていた。更に、背にはパンパンに膨れた大きなバックパックを背負っている。これから山でも登るのだろうか、制服であることを除けば、そう感じさせる装いだった。


 そんな少年と、少女の目が合う。


「何してんの? お前」


 少年は柵の向こうにいる少女を見て、不思議そうに目をぱちくりする。こんなところに人が来る筈ない。そう思っていたのは少年も同じだった。


 対して少女は、少年に対して何か違和感の様なものを感じていた。


「……君には関係ないでしょ」


 顔を逸らす少女。表情を無くし、取り繕う。殆ど無意識に心の内を隠していた。そうやって生きてきたから。


「そうだね」


 それだけ言って少年は球体を半ばから開く。その正体はグリルだったようで、予め中に入れていた炭に火をつけた。


 更に下ろしたバックパックから、小さめのクーラーボックスを引っ張りだす。中を開けると牛脂と少量の野菜、肉が入っていた。缶ジュースも完備している。


 少年はいそいそと準備を進め、遂には校舎の屋上でバーベキューを始めてしまった。


「……」


 少女は柵の向こうで絶句していた。意味がわからないから。


 視線に気付いたのか、顔を上げた少年と再び目が合う。


「食いてーの?」


 少年が焼肉を口一杯に頬張りながら、きょとんとする。


 その様子に少女は苛立ちを募らせた。


 どれだけ悩んだと思ってる?


 どれだけ苦しんだと思ってる?


 どんな思いで、ここに立ったと思ってる?


 少女には、少年のとぼけた顔が憎たらしくて堪らなかった。不幸なんてまるで知らなそうな、暢気な顔。少女の苦悩になど見向きもしない世界が、人の形をして目の前に現れたような不快感。


 無意識に体に力が入る。歯を食い縛り、拳を握り締めていた。


「もう誰にも見られたくないの! どっかいってっ!」


 喉を痛めてしまいそうな声で吐き出した。心からの叫び。稚拙な言葉。言葉を選ぶ余裕もなかった。


「やだよ。ちょうど炭いい感じになってきたとこだぞ」


 しかし少年にも譲れないものがある。今日は絶対に焼き肉が食べたいと思い、態々準備して重い荷物を持ってきたのだ。グリルだって、大きなバックパックだって、この日のために新調した。


「君はっ、今私がどんな気持ちで……っ!」


 怒鳴る少女。だが、声が詰まってしまう。


「そんなんわかるわけなくねー」


 少年が缶ジュースを開けると、プシュッと良い音がなり、泡が溢れてきた。ぞんざいに扱われた炭酸飲料からの報復だ。


「うっわ!? 最悪……」


 奇襲を諸に食らい、慌てて制服を拭く少年。染みになっては大変だ。少女の気など知る由もない。


(こいつ……)


 少女がなんとなく感じていた違和感。その正体に気づいた。


(さっきから、私を見てないんだ)


 少年の視線が物理的に少女に向いていても、心の底では見ていないのだ。少女に興味がない、関心がない、どうでもいい。そう思っているのではないか。視線に対して過敏になっている少女だからこそ気づいた、些細な違和感。


 それは少女が今まで向けられたことのない視線だった。


「……くよ」


 少女が呟く。言葉の端しか聞き取れない。


「それの何がっ! 最悪なの!」


 炭酸飲料を溢した程度のことを最も悪いと言えるのなら、それは最高の人生だ。少年の言葉がいちいち少女の神経を逆撫でした。


「もういい! しね!」


 少女は振り向くと、苛立ちを言葉と体に乗せ、一思いに跳んだ。はじめは少年に迷惑をかけるかと逡巡したが、こんなやつになら迷惑の一つくらいかけてもいいと思った。


 訪れる浮遊感。改めて真下を見ると、高さを実感する。確実に死ぬ。今更になって恐怖が込み上げたが、だからといってどうしようもない。できるのは身を委ねることだけ。そうして落ちて、思考も出来ぬ肉片になる。逃れようのない状況に安堵した。


「うっ!?」


 しかし、突然少女の首が絞まる。落ちようとしていた体が空中で急に止まり、それに追いつかなかったシャツの襟に全体重がかかった結果だ。あまりの苦しさに涙を浮かべ、足をバタつかせた。首元を抑えながら振り向くと、少年が少女の制服の襟首を掴んでいた。


 少年はいつの間にか柵を乗り越えていたようで、片手で柵を掴みながら、少女を持ち上げる。見た目に似合わぬ怪力。普通の中学生であれば、共に落ちているところだ。


「しねって言いながらしのうとするやつ、初めてみたわ」


 グイッと少女を肩に担ぎ、軽快に柵を飛び越えて屋上へと戻った。少年が少女を下ろす。


 すると少女は蹲って咳き込んだ。間近に迫った死に恐怖したからか、嫌な汗が流れる。吐き気を催すほどの動悸に抗い、呼吸を繰り返した。


 少しして落ち着いたのか顔を上げる。


「なんで止め……んぐっ!?」


 何か言いかけた少女の口に、焼き肉が突っ込まれた。


「あとでにしてくんね? 折角の肉、不味くなる」


 少女の口から割り箸が抜かれる。唾液がつーっと橋を架けた。少年を涙目で睨みながら、焼きたての肉をはふはふと頬張り、嚥下する。


「うまい?」


「……うん」


 その答えに満足したのかニコニコと笑う少年。


 少女はなんだかドッと疲れて言い返す気力も起きなくなった。この少年と口論すること自体、馬鹿らしく思えて。


「次、どっちがいい?」


 少年が牛サガリのパックと、牛タンのパックを少女に見せる。


「……ん」


 少女は牛タンのパックを指差した。


「いいじゃん」


 少年は注文通り牛タンを網に乗せ、タッパーからねぎ塩ダレを掬ってかける。


「準備ガチすぎ……」


 手際よく味付けまで済ませていく様子を見て、少女は小声で呟いた。


「ほい」


 少年が割り箸を差し出す。


 少女はなんとなく少年に流されている状況が気に入らないのでそれを受け取らずにいると、


「なに、食わせてほしいの?」


 少年がニヤニヤと底意地の悪い顔を浮かべて、子ども扱いするように言った。


「ち、違う!」


 少女は頬を赤らめ、慌てて割り箸を受け取る。こんなことをする為に屋上に来た訳ではない。なのだが、気づけば初対面の男子とバーベキューしていた。この話を少女が過去の自分に伝えられたとしても、到底信じてもらえないだろう。実は少女は屋上から落ちていて、これは変な夢なのではないかと疑ってしまう。現実だから、困っているのだけれど。


「君、名前は?」


 少女が問う。


「デイタ。そっちは?」


「……ラム」


「肉みてーな名前」


 ラムが手刀を振り下ろした。こいつのデリカシーはどこに置いてきたのかと。


「ラムチョッ……」


 それ以上は言わせまい、とデイタの両頬を片手で掴む。頬がぐにゅっと歪み、タコみたいな口になる。ラムはその間抜け面をニコニコと見つめた。


「……」


 無言で。


「すびばせんでひた」


「あたり」


 圧に屈したデイタの謝罪がお気に召したのか、手を離す。


 そして二人はバーベキューを続けた。


 これといった会話はない。


 はい。ほい。それとって。焼けたぞ。うま。


 淡々と肉を焼いて食べた。


 その何とも言えない、常識から外れて判断力を狂わされた時間が少しずつ、ラムの心を崖の淵から遠ざけていった。


 そうして暫く経った頃、屋上のドアが勢いよく開いた。ドアが職務放棄しかねないほどに悲鳴を上げる。


 現れたのは背の高いポニーテールの少女。切れ長の双眸が似合う、端正な顔立ちをした少女だった。男装すれば、男子よりもイケメンになりそうだ。そんな少女の手には竹刀が握られている。


「屋上から煙が上がっていると思って来てみれば……また君か、デイタ!」


「げっ!? 女騎士!」


「女騎士ではない! 風紀委員だと何度言えばわかる!」


 彼女の二の腕に巻かれた腕章は、風紀を守る者の証。当然ながら女騎士などという時代錯誤の役職には就いていない。怯えるデイタの首根っこを掴み正座させる。


 その後、ラムも風紀委員の少女に正座させられていた。


「何で私まで……」


「黙れ!」


 ピシィ!


 不満そうなラムの抗議の声は、屋上に叩きつけられた竹刀によって掻き消される。


 あれこれくどくど。風紀とは何たるか。校舎の屋上でバーベキューなど言語道断。


 そんな説教が小一時間続いた。

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