クラムレンリ 嫩葉散雪

現 現世

0話 czymu apxw em npreuna

 生は選択の連続だなんて言うけれど。

 運命なんてものがあったとして。

 選択さえも運命ってやつで片付けられてしまうなら。


 なんて曖昧な言葉に希望を包められるのは。


 ーーだけなんだって。


 ◇


 夜。街の外れの、もう少し外れた場所。森の中に、切り立った地形に囲まれた池があった。蛍が飛び交い、点綴する光が水面に反射する。その池には、空よりも多くの星が輝いていた。


 池を囲う低めの崖の縁には、一本の大きな木が生えている。池の周囲は木々が生い茂っていたが、その大きな木の周りだけは不思議と木々が生えていなかった。悠然と聳え立つ大きな木は、ここへ訪れたものを自然に誘い込む。それは荘厳さ故か、魔性か。


 足元を見やれば、草花に紛れて真っ白なキノコがポコポコと生えている。黒などに比べれば負の印象の少ない白。しかしキノコに関しては、強い毒性を警戒しなければならない。


 数十キロ離れたところでは、人工物の並ぶ都会の街並みが見られる。必要以上の明かりと汚れた空気の狭い空。そのことを鑑みれば、ここの景色は非日常的とも言えるだろう。一種の秘境と呼ぶべき星の池。


 そこへ、半袖短パン姿の少年が現れた。年の頃は小学校低学年くらいだろうか。


 夏とはいえ、そんな格好で夜風に当たれば少し肌寒い。ボロボロに汚れ、所々に小さな穴の空いてしまった衣服なら尚更だ。腕を摩って寒さを誤魔化しているが、微かな震えは収まっていない。


 頬や破れた衣服の隙間から覗く白い肌には傷が目立つ。子ども特有の好奇心やそそっかしさからついてしまった傷とはまた別の、日常的に振るわれているであろう暴力の形跡はなんとも痛ましい。少年が置かれた環境の厳しさを感じさせた。


 きっと食事もまともに取れていないのだろう。栄養の不足した、痩せ細った体では傷が治るまでに相応の時間が必要になる。完治する頃には新たな傷が刻まれ、生傷が絶えることはない。多少の痛みに慣れ、苦に感じなくなった少年はそのことを幸せだと思っていた。苦痛への慣れを幸福だと勘違いしてしまう環境を、一般には不幸と言う、少年はそのことに思い至らない。そんな日常しか知らず、当たり前だと信じて、疑うことすらできないから。


 虫の音が聞こえる程度の静かな森。少年が小さな歩幅で歩くたび、カサカサと葉擦れの音が追加される。足元も見ておらず覚束ない歩みは、時に花や白いキノコを踏み荒らした。


 そうして少年が大きな木に近づくと、木から飛び出た何かを手に取る。


 それは、糸電話のようだった。


 しかし紙コップの底から伸びる糸は木に繋がっている。本来なら対となるもう一方の紙コップに繋がっているもの。しかし少年が手にしているのは半分だけの、出来損ないの糸電話だ。


 それでも少年は糸をピンと伸ばし、紙コップに向かって言葉を紡ぐ。そして今度は紙コップに耳元を近づけるのだ。


 まるで、どこかにもう半分があるかの様に。


 晴れの日も。風の強い日も。雨の日も雪の日も。少年は森の中へやって来ては糸電話を手に取った。見えない誰かに言の葉を送り、誰かの言の葉を受け取る。


 それから何度か季節が回った頃、大きな木に異変が現れる。


 幹が歪んだ。酔いが回った、或いは蜃気楼でも見ているような光景。幹の中心が裂け、中から覗くのは真っ白な空間。どこまでも広がっている様に見える。とてもではないが、一本の木の内側の広さではない。


 突然の異常に少年は目を見開く。少しの間動けずにいたが、慌てて木に駆け寄った。そして手繰り寄せたのは糸電話。少年にとって、大切なものだから。


 糸電話の無事を確認すると、再び木の裂け目に視線を移す。


 明らかな異常。真面な危機管理能力を備えていたなら、それに干渉しようとは思わないだろう。この場から離れ、見識あるものに情報を共有するべきだ。


 しかし、何故だか少年は目を離せずにいた。


 こことは違う、どこか遠くへ行けたのなら。それがどんなところかはわからない。けれど、きっと今よりは……


 誰かと言葉を送りあう日々の中で、少年は自身の日常が当たり前ではないことを知った。辛いことから逃れ、幸せを願っても良いのだと気づいた。


 だからだろう。少年は淡い期待を胸に、吸い込まれるように手を伸ばした。


 もしかしたら、この向こうには。


 裂け目を跨ぎ、遂に両足を踏み入れる。不安そうに片手で掴んだ裂け目の縁。怯えの表れだった。何かあったらすぐに戻れるようにと。だが深呼吸して、前を向く。意を決して縁から手を離した。


 小さな体からなけなしの勇気を振り絞り前に進む少年。その姿が白に呑まれていく。


 少年の体が見えなくなってからしばらく。未だ戻ってこない。それにもかかわらず、幹には再び異変が現れ、生じた時とは逆再生する様に裂け目が閉じてしまった。


 その日、世界から一人の少年が忽然と姿を消した。


 辺りには寂寥を覚える虫の音だけが響いていた。


 ◇


 大きな木にできた裂け目から、少年が飛び出した。放り出された手前、上手く着地できずゴロゴロと転がる。元々汚れていた服が更に泥まみれになってしまった。


 地面に手をつき、よろよろと立ち上がって辺りを見回す。


 そこの地形は、先刻まで少年がいた場所と殆ど変わらなかった。しかし少しだけ違う。池の上に浮かぶのは蛍ではなかったのだ。目を凝らしてみれば、蜻蛉の様な透明な翅の生えた小人が飛んでいる。


 それは、妖精と呼ばれる種族だった。彼らは緑や黄の小さな光を発し、蛍のように明かりを灯して夜の森を照らした。


 妖精たちは少年を見つけると、忙しなく飛び回り始める。


 違いはもう一つ。


 大きな木の根本に、色素の薄い金髪をした少女がいた。少年がいた国ではあまり見られない、目鼻立ちのくっきりした顔立ち。汚してしまうのではないかと、触れるのを躊躇う程に白い肌。楚々とした、上品なドレスの似合うお姫様の様な少女だった。


 少年の転がる音を聞き、瞳を閉じたままキョロキョロと首を振る少女。その影には、少年にとって最も大事なものがあった。


 それは大きな木から垂れ下がる紙コップ。半分だけの糸電話だ。


 驚き、一瞬硬直した少年。だがその意味を理解するのは早かった。立ち上がると汚れを適当にはたき落とし、少女に近づく。


 相変わらず瞳を閉じたままの少女。しかしながら、足音か気配か。少年の存在に気づき、少女は不安そうに後退る。


 少年はその様子を見て、困った様に立ち止まった。そして、ゆっくりと口を開く。控えめに少年の声が発された。


 それを聞いた少女の肩がハッ、と動く。それはここ数年、何度も何度も聞いてきた声。聞き間違える筈がない。


 少女がおそるおそる、左手を伸ばす。


 ゆらゆらと頼りない左手。期待もあるが、怖くもあったのだろう。


 少年が右手で少女の左手を取り、二人で大きな木の根本に座る。裂け目はいつの間にか閉じてしまっていた。


 妖精たちの囁く声と、少年少女の楽しそうな声が夜の空に溶けていく。


 少年は時折、少女の手を取って空に絵を描いた。目の見えない少女に、少しでも形を伝えられる様に。


 ずっと試してみたかった。言葉だけでは、難しかったから。糸電話で会話している時に何度も考えた。どうしたら、伝えられるだろうかと。


 それでも、伝わらないこともあった。少年はどうしようかと悩み、今度は少女の背に絵を描くことにした。少女も頷いて背中を向ける。


 少年の指の先が背をなぞると、少女が笑って体をくねらせる。くすぐったくて、形を理解するどころではなかった。


 どうやら作戦は失敗した様だ。


 今度は少女が唄を披露する。


 少年がいつも糸電話を通して聴いていた唄だ。それは、どんな歌声より耳に残る声だった。少女の形の良い唇が丁寧に、踊る様に詩を紡ぐ。一音一音に力と意味が込められてる様な、不思議な感覚。少年にとってはそれが心地良かった。


『二人、始められたら』


 そんな意味の込められた唄らしい、と少女が少し大人ぶって教える。


 それからも少年と少女は肩を寄せ合う。


 少年が左、少女が右。


 これから、二人の定位置になっていく。


 二人は話し続けた。月が沈むのも忘れるくらい。


 これが小さな二人の冒険の始まりだった。


 少年は気づかない。森に住まうものたちが木陰から二人に目を光らせていることに。

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