第5話 雪女の最後??
そんなわけで、俺も復活して、登校することになった。
学校も久しぶりだ。教室に入ると、友達が心配してくれて、うれしくなった。
しかし、9月になったというのに、夏の暑さは、そのままだった。
残暑というには、暑すぎる。外は、うだるような暑さで、熱中症で倒れた人がたくさんいた。
高齢者には、つらすぎるだろう。学校でも、保健室に行く生徒が目立ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「あぁ~、ウチは、涼しいや」
外は、暑いが、ウチの中は、涼しい。冷房をかけてないのに、快適なのは、雪さんのおかげだ。
俺は、タオルで汗を拭きながら、二階に上がって、汗だくの制服から着替えた。
一階に降りていくと、雪さんが冷たい麦茶を出してくれた。
俺は、それを飲みながら、なんとなく話をしてみた。
「外は、暑いけど、これって、もしかして、この前の灼熱地獄の鬼のせいなの?」
「そんなことはありませんわ。地獄の鬼は、天気までは、関与しません」
「だけど、ものすごく暑いよ。これって、天気じゃなくて、妖怪のせいじゃないの?」
「それは、わかりません。でも、そんなことは、しないと思いますよ」
「そうかな・・・ また、俺と雪さんのことで、怒って熱くしてるかもしれないよ」
「それじゃ、調べてみましょう」
「調べるって?」
雪さんは、そう言うと、掃除機を片付けると、リビングに俺を呼んだ。
「外を見てくるんです」
「ダメだよ。外は暑いんだよ。雪さんは、雪女だから、溶けちゃうよ」
「私じゃありません。私の分身です」
俺は、雪さんのやることを黙ってみることにした。
雪さんは、手の平に息を吹きかけた。すると、白くてきれいな手に雪の塊ができた。
すると、それを手で何か作り始めた。
「どうですか?」
「それ、うさぎ?」
「そうです。雪うさぎです」
雪さんの手の平には、小さなうさぎの雪だるまがあった。
ちゃんと、耳もあったけど、どう見ても、雪の塊にしか見えない。
雪さんは、その雪うさぎに優しくキスをして見せた。
すると、その雪うさぎが、急に動き出した。長い耳をピクピクさせて、赤い目をキョロキョロして手の上からピョンと、床に飛び降りて、床の上を走り回っている。
「うさぎ・・・」
「ハイ、雪うさぎです。ちょっと、命を吹き込んだんです」
そう言うと、同じように手の平に息を吹きかけて、うさぎの雪だるまをいくつも作った。
そして、キスをすると、次々とうさぎに命が吹き込まれて、雪うさぎが俺の足元を
元気に飛び回っていた。まるで、本物の生きているうさぎのようだ。
「それじゃ、みんな、外に行って、様子を見てきてください」
そう言うと、雪うさぎたちは、元気に外に出て行った。
「大丈夫なの? この暑さで溶けたりしない?」
「その前に、帰ってきますよ」
そう言うと、雪さんは、リビングのソファにゆっくり腰を下ろした。
俺も隣に座った。無言でいるのが気になって、雪うさぎが戻ってくるまで、話をしてみる。
「雪さんて、いろんな能力があるんだね」
「これでも、一応、妖怪ですから」
「雪女の国って、どんなとこなの?」
「雪と氷に閉ざされた寒いところですよ」
「それじゃ、俺なんかは、行けないね」
「そうですね」
そんなにあっさり言われると、ちょっとガッカリする。俺としては、雪女の国に行ってみたい。
「どこにあるの?」
「それは、秘密ですわ。ずっと、山奥の、一年中、雪と氷に囲まれたところですよ。
人間たちは、誰も足を踏み入れることはしません」
そんなところが、日本のどこかにあるのか。なおさら、行ってみたい。
「ドラキュラとか、カマイタチとか、他にも知り合いっているの?」
「いますよ。会ってみたいですか?」
そう言われると、会ってみたいような、みたくないような・・・
弟なら、きっと、会いたいっていうだろう。でも、俺は、ちょっと怖い気もするのだ。
「でも、隆志さんなら、きっと、みんなも歓迎してくれますよ。それに、妖怪といってもみんな楽しい人たちだから、安心してください」
雪さんがそう言うなら、間違いないだろう。確かに、俺が今まであった妖怪たちは、みんな楽しくて、おもしろい妖怪たちだった。口では、人を食うとか、血を吸うとか言ってたけど俺には、そんなことは、しなかった。
「地獄は、行ったことあるの?」
「いいえ。あそこは、暑くて、雪女は、行けません」
「でも、地獄の鬼は知ってるんでしょ」
「顔見知り程度ですよ」
雪女って、かなり妖怪の世界では、顔が広いのかもしれない。
「楽しい妖怪たちなら、また、会ってみたいな」
「きっと、会えますよ」
そんなたわいのない話をしていると、雪うさぎたちが帰ってきた。
しかし、外を走り回ったせいで、暑さで体が溶けかかっていた。
長かった耳も半分くらい溶けてしまっている。
「あらあら、大変。すぐに、治してあげるからね」
そう言うと、雪うさぎたちに息を吹きかけた。すると、溶けかかっていた身体が、元通りの雪うさぎになった。
長い耳もピンとたって、鼻をヒクヒクさせて、赤い目がとてもきれいになった。
雪さんは、しゃがんで雪うさぎたちの話を聞いている。
言葉がわかるらしい。さすが、雪女だ。俺は、変なところに感心してしまった。
しかし、雪うさぎたちの話を聞いていた雪さんは、急に立ち上がって、俺の方を向いて言った。
「どうやら、隆志さんの感は、当たっていたみたいですよ」
「どういうこと?」
「この異常な暑さは、妖怪の仕業です」
「なんだって!」
俺は、半分冗談で言ったのに、どうやらホントだったらしい。
「どういうことなの?」
「雪うさぎたちの調べでは、妖怪の仕業というのは、ホントのようです」
「どんな妖怪なの?」
「それは、わかりません。でも、そんなことをする妖怪は、許せません」
「許せないって・・・ 雪さん、キミは、雪女なんだから、熱に弱いんだよ。無理しちゃダメだよ」
「いいえ。このままでは、この国に冬は来ません。ずっと、夏のままです。それでいいんですか?」
「そんなバカな・・・ 冬が来ないって」
「それほど、強い能力を持った妖怪だということです」
なんてことだ。冬が来ないなんて、そんなことがあり得るのか?
「それで、どうするつもり?」
「その妖怪を倒します」
「そんな・・・ ダメだよ。雪さんにもしものことがあったら」
「安心してください。私は、溶けたりしません。これでも、雪女の姫なんですよ。熱には、氷で対抗します」
「だけど・・・」
「心配してくれて、ありがとうございます。私なら、大丈夫です。隆志さんのためにも、私が守って見せます」
そうはいっても、俺は、心配だった。この暑さだ。雪さんが溶けてしまったら、取り返しがつかない。
「ご苦労様」
雪さんは、そう言うと、雪うさぎに息を吹きかけると、あっという間に消えてしまった。
「それじゃ、ちょっと懲らしめてに行ってきます」
「ダメだよ、行っちゃダメだ」
「大丈夫ですよ」
「でも・・・」
「私なら、平気です」
そう言うと、雪さんは、立ち上がって、出て行こうとした。
「待って、俺も行くよ」
「ダメですよ。隆志さんに危険な目に合わせたくありません」
「俺も行くよ。雪さん、一人にやらせるわけにいかない」
「外は、暑いんです。隆志さんは、出ちゃダメです」
「雪さんだって、雪女じゃないか。俺も行くよ」
雪さんは、それ以上は何も言わなかった。
俺は、雪さんの後をついて、外に出た。外は、異常な暑さだった。
雪さんは、俺が熱くないように、息を吹きかけながら、傍を歩いてくれた。
「いったい、どこに行くの?」
「あっちの方角です」
雪さんが指を刺した。その方向は、俺の通っている学校だった。
気が付けば、道には、だれ一人歩いていなかった。余りの暑さに、みんな家にこもっている。
危険な暑さだけに、外に出ないのだ。外を歩いているのは、学校に着くまで、俺と雪さんだけだった。
夕方なのに、ちっとも暗くない。夕暮れ時なのに、まだ、太陽が燦々と輝いている。
校庭には、生徒は誰一人いなかった。ガランとした校庭で、暑さのためにグラウンドが蜃気楼で揺れている。
俺たちは、校庭の真ん中に立つと、雪さんが上を見上げて言った。
「そこにいるのは、わかってるんですよ。そこの妖怪、出てきなさい」
俺は、見上げてキョロキョロする。でも、俺の目に映る景色は、雲一つない真っ青な空だった。妖怪なんて、どこにいるんだ?
「隠れてないで、出てきなさい。雪姫が会いに来たのよ」
普段の雪さんとは思えない、力強い言葉だった。
そのとき、熱風が俺たちを包んだ。俺は、両手で頭を抱えて目を閉じた。
ゆっくり目を開けると、俺たちの前には、巨大な一つ目の巨人が立っていた。
真っ赤な髪が、炎のように燃えていた。全身が火に包まれて、暑くて傍に寄れないほどだ。雪さんは、俺より熱いだろう。しかし、雪さんは、その巨人を見上げて仁王立ちでしっかり立っていた。
「隆志さん、校舎の陰に隠れてください」
「でも、雪さんが・・・」
「私は、大丈夫。危ないので、隠れていてください」
俺は、雪さんの足を引っ張らないように、校舎の陰に身を隠した。
「あなただったのね」
「雪姫か。人間界に来ているという噂は、ホントだったのか」
「炎天魔人。人間が困っているんです。いい加減にして、自分の国に帰ってください」
「なんだと」
校舎の陰に隠れてみていると、雪さんは、炎の巨人のことを炎天魔人と呼んだ。
すごい妖怪なのかもしれない。俺があったことがある妖怪たちとは、レベルが違うらしい。
「灼熱の国に帰りなさいと言っているの」
「なにを偉そうに。たかが雪女の分際で、オレ様に指図するつもりか」
「悪さも程々にしなさいと言ってるだけです」
「雪女の指図は受けん」
「どうしても聞いてくれないんですか?」
「聞く耳持たん」
「それなら、仕方がありませんね」
「雪女が、オレ様とやるというのか? バカなことを。お前なんざ、溶かしてやるぞ」
「やれるものなら、やってみなさい」
「おもしろい。雪女の一匹や二匹、ドロドロに溶かしてやるわ」
そう言うと、炎の巨人は、口から火を噴いた。
「危ない!」
俺は、思わず声を出した。しかし、雪さんは、その炎を軽く避けた。
初めて見る、ものすごい跳躍力だ。そして、目にも止まらない速さで、走り出した。
下駄を履いているのに、俺より速く走る姿に、驚いて声も出ない。
「ちょこまか、うるさい雪女め」
炎の巨人は、雪さんを火で追った。しかし、雪さんは、校庭狭しと逃げ回る。
だけど、このままでは、いつか火に追いつかれてしまう。
雪さんは、校庭の真ん中に立つと、炎の巨人に向かって、口から猛吹雪を吐き出した。
「うおっ!」
炎の巨人が吐く炎が、あっという間に凍ってしまった。
さらに、指先からも冷たい冷気を出して見せた。
炎の巨人の足がカチコチに固まった。
「どう。雪女を甘く見ると、そうなるのよ。わかったら、さっさと自分の国にお帰り」
雪さんは、堂々とした口調だった。いつもと違う、厳しい言葉遣いだった。
「その程度か。今度は、こっちから行くぞ」
巨人は、太くて強大な脚で、氷を自ら割って、動き出した。
そして、雪さんに向けて、さらに熱い炎を吹きかけた。
校舎の陰に隠れている俺の方まで、その熱風を感じて、気が付けば額に汗が浮き出ていた。俺でさえ暑いのに、雪さんは、もっと熱いはずだ。
それでも、雪さんは、負けていなかった。指先と口から雪を吐いて対抗している。
まさに、炎と氷の対決だった。どっちも押しつ押されつという感じだった。
「がんばれ、雪さん」
俺は、大声で雪さんを応援した。
どっちもどっちという感じで、火と雪が当たったところから、ものすごい水蒸気が沸き上がった。
しかし、巨人と雪さんとでは、体格と体力の差は歴然だった。
少しずつ、雪さんが押されていくのがわかった。このままじゃ、雪さんが炎に巻かれてしまう。
雪さんが溶けてしまう。そう思ったら、俺は、校舎の陰から飛び出していた。
俺は、雪さんの後ろから肩をガッチリ掴んだ。
「がんばれ、雪さん」
雪さんは、ちらっと、後ろを向いて俺を見て、小さく頷いた。
俺の気力だけでも、雪さんに届けという思いで、力を込めた。
暑さなんかに負けていられない。汗が止まらない。汗が目に入る。
でも、そんなことで弱音を吐いていられない。雪さんががんばっているんだ。
俺だって、少しでも、力になりたい。
しかし、雪さんの肩が少しずつ温かくなってきた。
自分の手を見ると、雪さんの白い着物が透けて、素肌が見えた。
だが、着物が透けたのではなく、着物が溶けてきたのだ。
雪さんの着物は、雪でできていると言っていたのを思い出した。
それじゃ、この暑さで、着物が溶けてきたのか?
「雪さん、もうダメだ。逃げよう。このままじゃ、雪さんが溶けちゃよ」
俺は、大声で叫んだ。しかし、雪さんは、その場を動かない。
冷たい体の雪さんが、初めて汗をかきながら、必死に雪を吐いていた。
だけど、このままじゃ、ホントに雪さんが溶かされてしまう。
「雪さん、もういいよ」
俺は、雪さんを止めようと後ろから抱きしめた。
しかし、雪さんは、雪を吐くのをやめなかった。抱きしめた俺の手は、着物ではなく、素肌の感触を感じた。
着物がどんどん溶けていっているのだ。ダメだ、このままじゃ、体も溶けてしまう。
「雪さん!」
俺は、泣き叫んだ。でも、雪さんは、やめなかった。どんどん炎に押されて、真っ赤な炎は、すぐ目の前に迫ってきた。
俺は、雪さんを抱きしめた。これで溶けてしまうのは、イヤだった。
「あぁっ・・・」
すぐ目の前に真っ赤な炎が迫ってきた。雪さんと俺は、その炎に包まれる。
このまま死んでしまうのか? せっかく、知り合ったのに、こんなとこで死ぬなんてイヤだ。
「雪さん・・・ 雪さん」
俺は、声を上げた。
「ごめんなさい。やっぱり、私じゃ、ダメだったみたい」
雪さんが初めて声を出した。
「何を言ってんだ。ダメなんかじゃない。雪さんは、がんばったんだ。俺たち、人間のためにがんばったんだ」
「隆志さん・・・」
雪さんの吐く雪が弱くなってきた。
「隆志さん、ごめんね」
雪さんの声が弱くなってくる。俺は、力一杯抱きしめた。俺は、炎の巨人を睨みつけた。
死ぬならいっしょだ。死んでも、雪さんと離れない。何が何でも離さない。
俺は、そう思って、覚悟を決めた。
そのときだった。押されていた吹雪の勢いが吹き返した。
「なに!」
見ると、真っ赤な炎がどんどん白い雪に押されているのが見えた。
「人間。お前の覚悟を見せてもらった。後は、あたしたちに任せなさい」
後ろから声が聞こえた。俺の目に飛び込んできたのは、何十人という雪女の集団だった。その雪女たちは、口から猛吹雪を吐いていた。
「雪女ごときが、何人いようが、敵ではない」
炎の巨人が叫んだ。でも、雪の勢いのが強かった。真っ赤な炎が白く冷たくなっていく。ものすごい音が聞こえた。炎が白く凍っていく。
「そんな、バカな・・・ 炎天魔人のオレ様が、雪女に・・・」
炎の巨人の最後だった。
「ぐうぉ・・・」
ついに、炎の巨人は、カチコチに固まってしまった。そして、粉々に砕かれて、風に吹かれて消えてしまった。
後に残ったのは、巨人の大きな足跡だけだった。
「雪さん」
俺は、雪さんを抱きしめた。すると、雪さんは、ぐったりと体の力が抜けて、俺の腕の中に倒れこんだ。
「雪さん、しっかりしろ」
「隆志さん・・・」
「もう、大丈夫だ。雪さん、もう、いいんだよ」
俺は、必死に雪さんに話しかけた。辺りは、猛暑だったのが、ウソのように涼しくなった。
「隆志さん、ごめんなさい」
「しっかりするんだ。今すぐ、ウチに帰って、冷やしてやるから」
すると、雪さんは、弱々しく顔を横に振った。
「もういいんです。私の体は、もう、溶けてなくなります」
「何を言ってんだ」
「隆志さんに会えてよかった」
「雪さん、雪さん」
俺は、何度も雪さんの名前を呼んだ。しかし、もう、雪さんの体の感触はなくなってきた。肩を抱いているのに、透きとおって、重さも感じない。
「雪さん、死んじゃダメだ。俺のこと、好きなんだろ」
「・・・」
「雪さん・・・」
俺は、力の限り雪さんを呼んだ。大声で叫んだ。
「た・か・し・・・さん・・・」
「雪さん」
そして、雪さんは、完全に溶けてしまった。
「うわぁーっ・・・」
俺は、大声で泣き叫んだ。雪さんが溶けてしまった。そんなバカな、こんなことがあってたまるか。
俺は、雪さんが溶けて、黒く濡れた土を握りしめ、何度も何度も拳で叩いた。
「雪さーん!」
俺は、真っ暗な夜空叫んだ。そして、振り向いた。
「なんでだ。なんで、雪さんが溶けなきゃいけないんだ。雪さんを元に戻してくれ」
俺は、雪女たちに叫んで抗議した。しかし、雪女たちは、何も言わない。
「雪さんを元に戻せよ。妖怪は、死なないんだろ。だったら、雪さんを生き返らせてくれ」
「人間。妖怪は死なない。しかし、不死身なわけではない。あたしたちでも、どうすることもできない」
「なんだよ。そんなのありかよ。ふざけんなよ」
「その雪女は、お前のために溶けたのではない」
「それじゃ、何のために・・・」
「雪女の意地だ。雪女のことは、忘れろ」
「忘れるわけないだろ」
俺は、雪女たちに抗議した。こんなに声を張り上げて、我を忘れて、泣きながら叫んだは、きっと、これが、生まれて初めてかもしれなかった。感情の赴くままに、自分に素直になった。
「人間。お前のこと、忘れないぞ」
そう言うと、雪女たちは、風とともに消えてしまった。
俺は、広い校庭に一人たたずんで、雪さんの溶けた黒い土を握りしめていた。
その後、俺は、どうやって帰ったのかわからない。
泣きながら、家に帰ると、すでに夜になっていた。
「お帰り、兄ちゃん。どこに行ってたの?」
俺は、全身に力が入らず、夢遊病者のようにして、玄関に入った。
弟に声をかけられても、まるで聞いていない。
「どうしたの、兄ちゃん? それより、お姉ちゃんはどこなの?」
俺は、ボーっとしながら弟の前を通り過ぎた。
「兄ちゃん、どうしたんだよ? お姉ちゃんがいないんだよ。お姉ちゃん、どこに行ったの?」
「裕司、雪さんは、もういないよ」
「いないって、どういうことだよ?」
弟は、俺の体を掴んで、激しく揺すった。
「雪さんは、溶けてなくなったんだ」
「何を言ってんだよ。お姉ちゃんがなくなったなんて・・・」
俺は、そのまま膝から崩れ落ちた。涙が後から後から溢れて、止めようがない。
「ごめん、裕司。お姉ちゃんを守ってやれなくて・・・」
「兄ちゃん・・・」
俺は、声を殺して嗚咽した。人は、ホントに悲しいときは、声が出ないことに初めて気が付いた。
「兄ちゃん、しっかりしろよ。お姉ちゃんのこと、好きなんだろ」
俺は、弟の声を聞いて、小さく頷くことしかできない。
「溶けたんなら、もう一度、凍らせれば、元に戻るんじゃないの。だって、お姉ちゃんは、雪女なんだろ」
俺は、弟の一言を聞いて、顔を上げた。
「今、なんて言った?」
「だから、溶けたなら、もう一度、凍らせればいいじゃん」
そうか、雪さんは雪女なんだ。溶けたなら、凍らせれば、もしかしたら、元に戻るかもしれない。
何の確信もない。何の証拠もない。だけど、もし、それができれば、奇跡が起きるかもしれない。
よし、泣いてる場合じゃない。俺は、涙を拭いて、立ち上がった。
「裕司、付いてこい」
「どこに行くんだよ?」
「どこでもいい。お姉ちゃんを助けたかったら、黙って付いてこい」
俺は、弟の返事を待たずに、靴を履くのももどかしく、玄関から飛び出した。
「待ってよ、兄ちゃん」
弟が後から走ってきた。
「どこに行くの?」
「学校だ」
俺は、それだけ言って、全速力で走った。体育の授業だって、こんなに走ったことはない。
例え、俺の心臓が破裂しても、俺の足が折れても、雪さんを助けるためなら、何でもする。俺は、全力で、夜の道を走った。そして、学校について、しまっている校門を潜って、校庭に行った。
大丈夫、間に合った。まだ、雪さんの溶けた身体が、黒く土を湿らせている。
「裕司、そこの水道場から、バケツを持ってこい」
「バケツなんか、なにするの?」
「いいから、持って来い。早くしろ」
弟が、駆け出した。俺は、ズボンが汚れるのも構わず、跪いて素手で黒く濡れた土をかき集めた。
「兄ちゃん、持ってきたよ」
「ここの、濡れてる土をバケツに集めろ」
「まさか、これが、お姉ちゃんなの?」
俺は、弟の疑問に、答えられなかった。そんな事実は、弟にとって、余りにも残酷だからだ。
しかし、弟は、何も言わずに、必死に濡れた土をかき集めてバケツに入れた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん・・・」
弟は、泣きながら濡れた土をバケツに集めた。
「裕司、泣くな。お姉ちゃんに笑われるぞ」
「うん」
弟は、涙を汚れた手で拭いて、必死に雪さんの濡れた土をかき集めた。
それでも、バケツに半分くらいにしかならなかった。
「よし、急いで帰るぞ」
俺は、バケツを持って、弟と家に急いだ。
家に着くと、冷凍庫の中の物をすべて取り出して、バケツを入れた。
「ダメだよ、このままじゃ、凍らないよ」
弟の一言で、あることに気が付いた。
「水だ。水を入れろ」
弟は、鍋に水を入れて持ってきた。
俺は、その水をバケツに注いだ。
「もっとだ」
俺たちは、何度か水を汲んで、バケツ一杯に水を張った。冷凍庫の扉を閉める。
「お姉ちゃん、元に戻るかな」
「わからない。でも、きっと、戻るさ」
「そうだよね。お姉ちゃんは、雪女だもんね」
弟も俺も、泥まみれだった。俺は、奇跡を信じる。今なら、神だって、仏様だって信じる。奇跡を起こしてくれるなら、何でも信じてみようと心に誓った。
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