第2話 雪女の悲しみ。
それからというもの、雪さんは、ウチのことをやってくれた。
おかげで、俺の出番はなくなった。弟は、高校に進学しても塾通いは続いて
夜は遅いし、俺は、ウチで受験勉強をする時間が増えた。
でも、なんだか、それが寂しくもあった。
俺は、高校では、吹奏楽部に所属していたが、三年生の夏に引退した。
本格的に受験勉強をするためだ。とはいうものの、俺が行ける大学なんて限られている。
東京六大学なんてところは、最初から無理。三流大学しかない。
弟と違って、医者になるつもりはないし、そんな頭もない。
だから、平凡な大学に入れたらいいなと、それくらいにしか考えてない。
雪さんがウチに来てから数か月たった。
もう、ウチにいて、当たり前の存在になった。弟も、懐いているし
親父は、すっかり頼り切っている。安心して、家を留守にできるわけだ。
そんなわけで、雪さんと顔を合わせる時間が一番多いのは、俺だった。
「ただいま」
「お帰りなさい、隆志さん」
雪さんは、洗濯ものを取り込んでいた。こんな美人に、下着を見られるのは
ちょっと恥ずかしいけど、相手は、雪女で妖怪だから、それも慣れた。
「今夜は、隆志さんの好きな、ハンバーグですよ」
そう言って、畳んだ服をタンスにしまってくれた。
こうしてみると、雪さんは、すごく美人だ。普通にみると、とても妖怪には見えない。それに、ウチに来てから、表情も豊かになった気がする。
最初のころは、無表情で、冷たい感じがしたけど、最近は、人間の世界にも慣れたのか笑ったり、話もできるようになった。相変わらず、冷たい感じはするけど、
それは、雪女だから仕方がない。それでも、俺は、普通に会話もできるようになったし、雪さんもよく話すようになった。
「私は、あの時は、まだまだ子供だったんですよ」
雪さんは、冷たいお茶を飲みながら言った。家事の一休みのようだ。
俺にもお茶を入れてもらって、差し向かいで話を聞いた。
「人間の世界には、雪女伝説というのが今もあるんです。だから、人間界には、行ってはいけない。人間を好きになってはいけないと、言われていたんですけど、あの時は、どうしても、人間が見たくなったんです」
雪女にだって、感情はある。興味もある。特に、自分たちとは違う人種に興味を持つのは当然だ。
「ウサギになれば、大丈夫だろうと思ったのが、いけなかったんですね。あの時、隆志さんに助けてもらわなかったら、どうなっていたか・・・」
「その話は、もう、無しにしようよ」
俺は、照れ臭くなって、そう言った。
「いいえ、この話は、恩返しが済むまで、何度でも言わせてください。だって、私は、隆志さんにはホントに感謝してるんです」
「まぁ、そうかもしれないけど、雪さんがウチに来てくれて、俺も感謝してるから」
それは、ホントのことだった。雪さんがウチに来てから、なんだか明るくなった気がする。
「だけどさ、これから夏だよ。熱くなるけど、大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。これでも、雪女ですから、熱かったら、涼しくすればいいんです」
それはそうだけど、日本の夏は、最近、特に暑い。溶けたりしないんだろうか?
でも、考えてみれば、もうすぐ夏休みで、どこの家庭もエアコンをつけるようになった。
なのに、ウチは、いまだにエアコンを付けていない。冷房を付けてないのだ。
もしかしたら、それは、ウチに、雪さんが居るからなんじゃないか?
てことは、ウチは、涼しんだ。ひょっとしたら、ウチは、今年の夏は、冷房いらずなのかもしれない。電気代が助かるなと、そんなことを思った。
「隆志さん、これから、夕飯のお買い物に行くけど、いっしょに行きませんか?」
思わぬ誘いだった。もちろん、断る理由はない。だから、いっしょに行くことにした。と言っても、近所のスーパーに行くだけだ。
俺は、短パンにTシャツで、雪さんは、いつものように、白い着物だ。
しかも、裾が短くて、膝上10センチ以上はある、ミニスカートみたいだった。
そんな短い、ミニ着物から延びる白くて細い脚は、魅力的だ。
俺は、サンダル。雪さんは、小さな可愛い下駄を履いて、玄関を出た。
歩くと、カラコロと気持ちいい音がする。最近は、下駄を履く人も減ったので、
着物で下駄を履いていると、みんなが注目する。特に、雪さんは、美人だから目立つ。いっしょに歩くと、俺まで注目されるので、ちょっと恥ずかしい。
夕暮れ時の街は、買い物をする主婦たちや帰りを急ぐ会社員で、賑わっている。
店先で声をかける店員さんたちの声が聞こえてくる。
オレンジ色に染まる夕日をバックに、二人で歩いていても、なんだか緊張する。
これじゃ、まるでデートしているみたいじゃないか。ただの買い物だけど・・・
風が雪さんの髪をなびかせる。白い髪がとても似合って見えた。
雪さんは、わざと、俺に向けて息を吹きかける。その息が、とても心地よかった。
だけど、ちょっと歩くと、額にうっすら汗がにじんでくる。
雪さんは、大丈夫なんだろうか?
「雪さん、暑くない、大丈夫?」
「平気ですよ。隆志さんは、暑いですか?」
「暑いよ。もう、汗だくだよ」
そう言って、ハンカチで額の汗を拭く。見ると、雪さんは、ちっとも汗をかいていない。不思議だなと思った。雪女は、暑さに弱いんだから、汗くらいかいても不思議じゃない。すると、雪さんは、俺に向けて、軽く息を吹きかけた。
「うわっ、なに、涼しいんだけど」
「私の息は、涼しいんですよ」
なるほど、雪さんが呼吸をするたびに吐く息のおかげで、暑くないんだ。
「どうですか?」
「うん、気持ちいいよ」
そう言うと、雪さんは、にっこり笑った。雪さんのその笑顔は、とても可愛かった。女性に年を聞くのは失礼だけど、いったい、いくつなんだろう?
やっぱり、雪女だから、俺よりずっと年上なんだろうな。
妖怪って、死なないっていうし、若く見えて、実は、100歳とかだったりするのかも?
もっとも、これでも、俺も男なので、そんなことは聞けない。
商店街のスーパーに行った。中に入ると、雪さんの息を拭いてもらわなくても、涼しかった。
「ここは、いつ来ても、涼しいですね」
「でも、雪さんの国のが、涼しいんじゃない」
「そうですよ。一年中、雪と氷に囲まれていますからね」
それは、もう、涼しいを通り越して、寒いんじゃないかと思う。
雪さんは、慣れた手つきで、ハンバーグの材料を買う。
俺が荷物係で、カゴに買ったものを入れていく。
「何か、他に食べたいものはありますか?」
そう聞かれて、俺は、何も考えずに言った。
「暑いんだから、かき氷とか、アイスとか買おうよ」
「それなら、私が作りますよ」
「そんなこと、できるの?」
「私は、雪女ですよ」
そうだった。すっかり忘れていた。こうして二人で歩いていると、雪さんが雪女だってことを忘れるときがある。だって、どっからどう見ても、普通のきれいなお姉さんにしか見えないから。
雪さんがもし、生身の人間の女性だったらと思うと、きっと、好きになっていただろう。
こんなに美人な女性が、ウチに住んでいるなんて、夢みたいだ。
男だったら、好きにならないわけがない。事実、すれ違う人たちは、みんな一度は、雪さんを見ていく。隣に歩いている俺は、ちょっと、優越感を感じる。
買い物を済ませて、二人で並んで帰る。
「隆志さんは、私のこと、どう思ってますか?」
「えっ!」
急な話を振られて、俺は、答えに困った。
「どうって・・・」
「これからも、ウチにいてもいいですか? 私のこと、好きですか、嫌いですか?」
そういうことか。そんなの、言うまでもない話だ。だけど、口にするのは、ちょっと恥ずかしい。
「もちろん、いてもいいよ。出来れば、ずっとね」
「私のことは?」
「好きだよ・・・」
ちょっと、声が小さくなった。カランコロンと下駄の音に消されそうだ。
「うれしい。私が初めて好きになった人間は、隆志さんなんです」
雪さんを見ると、白くて透明な顔が、いくらかピンク色になったように見えた。
雪女にも、好きとか嫌いとか、感情はあるんだ。妖怪にだって、感情はあるだろう。
「それじゃ、俺が、初恋ってこと?」
「そうです」
そんなこと言われるとは思わなかった。なんだか知らないけど、心臓がドキドキしてきた。
これは、どういうことなんだろう? こんな気持ちは、初めてのことだ。
もしかして、これが、異性に恋をするということなのか?
それじゃ、俺は、雪さんを好きになったのか?
そんなバカな。いくら美人で可愛いと言っても、相手は、雪女だ。人間じゃないんだぞ。好きになるわけがない。俺は、そう思っていた。
「私は、隆志さんが好きです。でも、私は、雪女だから、好きになってはいけないんです」
「イヤイヤ、そんなことないよ。雪女だって、人間だって、好きなもんは好きと思っていいんじゃない」
「でも、隆志さんは、人間ですよ。雪女を好きになるなんて、あり得ません」
「そうかな・・・そんなことないんじゃないかな。妖怪だって、雪女だって、好きになったら関係ないんじゃない」
「隆志さんは、とても、強いんですね」
「強い?」
「意志が強いという意味です。私は、もっと、隆志さんに好きになってもらえるように、がんばります」
なんか、意味が分からないけど、俺を好きになってくれるなら、それのがいいと思った。
「あーっ、お姉ちゃん、兄ちゃんとデートしてる。ずるいぞ。ぼくとも、デートしようよ」
突然後ろから声をかけられた。振り向くと、塾帰りの弟がいた。
「裕司くん、今、帰り?」
「うん。二人で何してんの。デートしてるの?」
「違うわよ。お買い物よ」
「なんだ。それじゃ、いっしょに帰ろう」
弟は、俺と雪さんの間に割って入った。俺は、ちょっとホッとしたのは、なぜなんだろう。俺よりちょっと背が低い弟は、雪さんと並ぶと、頭一つ小さい。
これでは、姉と弟にしか見えない。なんとなく、微笑ましい。
「今夜は、ハンバーグよ」
「やった。ぼくもお手伝いするよ」
「裕司くんは、料理も得意なのね」
「だって、お姉ちゃんが来る前は、毎日、兄ちゃんと作ってたもん」
二人の会話を聞いていると、すごく平和を感じる。
「お姉ちゃんの手って、冷たいね」
弟は、雪さんと手を繋ごうとしたのか、触ってすぐに手を引っ込めた。
「そうよ。だって、私は、雪女だからね」
「お姉ちゃんと、手を繋ぎたかったなぁ」
「でも、冷たいから、それは無理よ」
雪さんは、ちょっと寂しそうな顔で言った。もしかして、雪さんも手を繋ぎたいのかもしれない。
「でも、手袋すれば、できるかもね」
「そうね」
「でも、やっぱり、手を繋ぐなら、手袋しちゃダメだよね」
弟は、そう言って、笑った。こんな素直な感情を出せるのが、弟のいいところだ。
三人で歩いて帰宅すると、早速、夕食づくりだ。
雪さんと弟が、肉をこねたりしている。俺は、付け合わせの野菜を切ったり、米を研いだりする。
ウチに来てから、雪さんは、すごく勉強した。料理から掃除、洗濯など、基本的なことを
すごく学んだ。今じゃ、主婦と言ってもいい。
どこで習ったのか、わからないけど、ハンバーグなどは、得意料理の一つだ。
主に話をするのは、弟だった。学校のこと、塾のこと、友達のこと、
雪さんにいろいろ話している。それを楽しそうに聞いている雪さんを見ていると
なんだか胸の奥が熱くなってきた。この思いは、なんだろう?
今夜も親父は帰ってこなかった。なので、今夜は、三人で食事をする。
「おいしいね」
「裕司くんが手伝ってくれたからよ」
「兄ちゃんも何とか言いなよ」
「えっ、うまいよ。すごくおいしい」
「よかった」
雪さんが安心してくれてよかった。実際、おいしいんだから、それ以外に言うことはない。
相変わらず、湯気が立ってる熱々のハンバーグを切り分けて、冷たい息でフゥフゥしてカチコチに凍らせてから食べている雪さんだった。
そんな食事風景にも、俺は、慣れてしまっていた。
ちなみに、お風呂は、雪さんがいつも最後に入る。なぜなら、暑くて湯舟に入れないからだ。
雪さんは、自分の息でお湯を凍らせてから入る。つまり、氷風呂だ。
だから、いつも最後だった。雪女もお風呂は好きなんだな。
食事を終えて、片付けも終わり、三人でテレビを見ていると、玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に親父が帰ってきたのかと思って、俺が玄関に向かった。
「ハイ」
返事をしながら、鍵を開けると、そこには、雪さんと同じ格好の美人の女性が立っていた。
「こちらに、妹は、いますか?」
「妹?」
「私は、雪姫の姉です」
「えーっ!」
「雪、出てきなさい、雪」
雪さんより少し大人の感じのその女性は、雪さんを呼んだ。
すぐに、雪さんと弟が出てきた。
「お姉様!」
「雪、いつまで下界にいるの。早く、帰ってらっしゃい」
「えーと、こちらは、どなたですか?」
「私の姉です」
「お姉さん? お姉ちゃんの、お姉さんなの?」
弟がややこしい言い方をするので、後ろに下がらせた。
とにかく、今は、親父がいないので、俺が何とかしないといけない。
「中に上がってください。ここじゃ、話にならないでしょ」
「そうね。失礼するわ」
そう言って、雪さんのお姉さんは、同じような下駄を脱いで中に入った。
雪女が二人いるので、なんだか少し涼しくなった気がした。
俺は、冷たいお茶を出して、椅子に座ってもらった。
「いつになったら、帰ってくるの?」
「それは・・・」
「そうね。雪女家の掟よね。まだ、恩は返してないのね」
「ハイ」
「それなら、仕方がないな」
そう言って、お姉さんは、お茶を一口飲んだ。
「おいしいお茶ね」
お姉さんは、俺を見て言った。なんだか、睨まれている気がして、緊張する。
見た目は、雪さんと同じ服で、顔も白くて透き通ってとてもきれいな美人だった。
でも、顔つきが、雪さんより、大人な感じがする。大人の雪女なのだろう。
「あの、お姉さんは、どうして、ここに・・・」
「雪を探していたのよ」
お姉さんは、そう言って、お茶を飲み干すと、まっすぐ俺を見た。
「あなたね。妹を助けてくれた人間というのは」
「助けたというのは、ちょっと大袈裟な気もするけど・・・」
「いいえ、隆志さんと裕司くんは、私の命の恩人なんです」
俺の言葉を遮るように、雪さんが強い調子で言った。
しかし、お姉さんは、表情変えずに、雪さんを見詰めているだけだった。
「確かに、それにウソはないわ。それについては、私も感謝している。人間、妹を救ってくれて、ありがとう」
そう言って、お姉さんは、静かに頭を下げた。反射的に、俺と弟も頭を下げる。
「まぁいい。雪が何事もなく暮らしているなら、安心した。早く恩を返して、帰って来い」
「わかってます」
「そこの人間。雪を頼むわよ」
そう言うと、お姉さんは、立ち上がって、帰ろうとする。
「待ってください」
俺は、思わず声をかけていた。
「なんだ?」
「お姉さんは、雪さんが心配なんですよね。だから、様子を見に来たんですよね」
「・・・」
「安心してください。恩を返したら、氷の国に雪さんは、きちんと帰します。
何なら、今すぐ、連れて帰っても構いません」
「それは・・・」
雪さんが止めに入るのを遮って、俺は続けた。
「お姉さんなら、妹のことを心配するのは、人間も雪女も同じです。心配なら、連れて行ってください」
なんでこんなことを言うのか、自分でもわからなかった。
「お前は、とてもやさしい人間なのね。雪を助けたのが、お前でよかった。私は、安心したぞ。もう少し、ここに居させてやってくれ。しかし、一つだけ、条件がある」
俺は、グッと、唾を飲み込んだ。
「雪を好きになってはいけない。いいか、人間。雪女と人間が好きになっても、不幸になるだけだ。だから、決して、好きにはなってはいけない。それだけだ」
「どういう意味ですか? なんで、好きになってはいけないんですか」
俺は、食い下がった。なんで、こんなことを言うのか、自分でもわからなかった。
「それは・・・ 雪を不幸にさせないためだ」
「どういうことですか?」
「とにかく、雪のことを好きになるようなら、妹は、すぐに連れて帰る。それだけは、覚えておけ」
そう言うと、お姉さんは、玄関のドアを静かに開けて、吹雪とともに消えてしまった。
最初は、今、起きたことは、夢か幻かと思った。
お姉さんが帰った後は、何事もなかったかのように、静かになった。
アレほどの吹雪もウソのように消えていた。その時、俺の後ろに隠れていた弟が
シャツの裾を引っ張った。
「兄ちゃん、あの人、ホントにお姉ちゃんのお姉さんなの?」
「どうやら、そうらしいな」
「どうすんの? お姉ちゃん、帰っちゃうの?」
怖くて隠れていた弟は、おびえた顔をして、俺を見た。
「大丈夫よ。私は、まだ、ここに居るから、安心して」
雪さんは、その場にかがんで、弟の頭を優しく撫でながら言った。
「ホント?」
「ホントよ」
「よかった」
その言葉を聞いて、やっと安心したのか、弟は、俺のシャツの裾を放した。
とにかく、雪さんから、詳しい話を聞いてみたい。そう思った俺は、リビングに戻った。
「裕司、先に、風呂に入って来い」
「わかった」
弟には、聞かせたくない話かもしれないので、先に風呂に行かせた。
改めて二人きりになって、向かい合う俺と雪さん。しかし、何をどうやって、どこから聞いたらいいのかわからなくて、しばらく無言の時間が続いた。
「あの、さっきお姉さんが言ったことって、どこまでホントなんですか?」
やっとのことで、言葉にできたのは、そんな一言だった。
雪さんは、俯いたまま、顔を上げない。
「なんで、雪女と人間が好きになったらいけないのか、その理由が知りたいんだ。
そりゃ、人間と妖怪とは違うかもしれないけど、俺は、それは、理由にならないと思う。雪さんは、どう思うの?」
一度、口を開くと、勢いに任せて、思ってもいない言葉がどんどん口から出てきた。
「隆志さん、聞いてください。それには、訳があるんです」
やっと、雪さんは、口を開いた。俺の方をしっかり見て、真面目な顔で話し始めた。
「姉は、ずっと昔、私と同じことをしたんです」
雪さんは、ポツポツと語り始めた。それは、とても悲しい話だった。
「姉は、私と同じように、人間の世界に降りてきました。そこで、姉は、一人の人間と知り合いました。そして、その人と恋に落ちたのです」
「えっ! お姉さんは、人間の男を好きになったんですか? それなら、なんで、あんなことを・・・」
「姉は、その人間を本気で愛してしまったんです。もちろん、その人も姉のことを愛するようになりました。でも、人間と雪女は、決して、結ばれることは、できないのです」
「どうして?」
俺は、その理由が聞きたかった。
「それは、雪女の世界の掟です。それに、雪と氷に閉ざされた世界では、生身の人間は、生きていくことはできません」
「だけど、他に、何か方法があるかもしれないじゃないか」
「もちろん、それは、考えました。でも、無理だったんです。だから、姉は、その人と別れる決心をしました」
「そんな・・・」
俺は、自分の声が震えているのが自分でもわかった。
「それでも、その人は、姉のことが忘れられませんでした。姉を追って、氷の国にやってきたんです」
俺は、言葉もなく、雪さんを見詰めるしかできなかった。
「姉は、その人と別れることを言いました。でも、その人は、いつまでも姉といっしょにいたいと本気で姉を愛してしまったんです。そして・・・」
雪さんは、そこで、一度話を区切ると、すごく悲しそうな顔をした。
「その人は、永遠に姉といる道を選んだんです」
「いいじゃないか。それって、すごく素敵なことだと思うよ」
そこまで、雪女を愛した人間て、心から尊敬できると思った。
「隆志さん、それって、どういうことか、わかりますか?」
「・・・」
ぼくは、返事ができなくて、無言だった。
「その人は、自ら、生きたまま氷漬けになって、永遠に姉のそばにいるということなんです」
衝撃的な一言だった。俺は、もう、言葉が出なかった。心臓が、ドキドキしている。頭の中は、真っ白になった。
「今でも、その人は、雪女の世界で、生きたまま氷に閉ざされたままなんです。
姉は、いつもその人のことを思い、傍から離れようとしません。その人を見て、泣いているんです。人間の世界に降りたりしなければ。その人を好きにならなければ。人間を愛したりしなければその人は、死なずに済んだかもしれない。姉は、今でも、後悔してるんです」
なんて悲しい話だ。俺は、椅子から転げ落ちそうになった。
膝に置いた両手をグッと握って、俺は、涙をこらえた。
「それから、姉は、雪女の姫の座を降りて、一人静かに、氷に閉ざされたその人と、
今でも、一人雪の中にいるんです。だから、妹の私に、同じことをさせないように
隆志さんに忠告したんです」
そうだったのか・・・ 余りにも悲しすぎる話に、俺は、言葉も出ない。
雪さんのお姉さんも、お姉さんを愛した人間も、悲しくて、とても不幸だ。
「だから、隆志さんも、私を好きにはならないでください。隆志さんを、同じ目には合わせたくありません」
雪さんの切実な訴えだった。それは、俺の胸にも深く突き刺さった。
「話は、わかった。俺は、雪さんを好きにはならない。やっぱり、人間と雪女とでは、わかりあえないからね。だけど、人間の世界には、もう一つ、雪さんに言いたいことがある」
俺は、雪さんの目を見て真剣に言った。
「俺は、雪さんのことは好きにならない。でも、嫌いにもならない。それって、どういう意味かわかる?」
雪さんは、ゆっくり頭を左右に振った。
「それはね、雪さんのことを嫌いじゃないって意味だよ」
「それじゃ、好きなんですか?」
「それも違うな。俺は、雪さんのことは、嫌いではないっていうだけの話さ」
なんだか、意味不明な話だけど、俺には、そう言うしかなかった。
決して、好きにはなってはいけない。だからと言って、嫌いではないんだ。
嫌いじゃないなら、好きかと言えば、そう言うことでもない。
俺は、今まで、好きになった女の子はいたけど、愛するまでは思わなかった。
好きと愛するとは、違うんだ。正直に言えば、俺は、雪さんのことが好きだ。
正確に言えば、好きになりつつある。好きになっていく、自覚がある。
なのに、好きになるなと言われて、嫌いになれるわけがない。
「雪さんは、俺のことは、好きじゃないの?」
「それは・・・」
「嫌いだったら、今すぐ、ここから出て言って、自分の国に帰っていいよ」
「そんな・・・それは、できません。だって、まだ、恩返しが・・・」
「そんなこと、関係ない。このまま、ここに居て、俺のことが好きになっていくようなら、いずれ、お姉さんみたいに、俺を愛してしまうかもしれないだろ。そうしたら、俺だって、雪さんを・・・だから、そうなる前に、雪さんは、帰った方がいいんだ」
俺は、それが、一番いいことだと思った。このままだと、俺は、雪さんを好きになるだろう。
愛してしまうかもしれない。そうなったら、俺も雪さんも不幸だ。
「裕司と親父には、俺からうまく言っておくから、裕司が風呂から出る前に、ここから出て行ってくれ」
俺は、感情的にならないように言った。棒読みのセリフみたいだった。
しかし、雪さんは、席を立とうとしなかった。出ていく素振りも見せない。
「雪さん」
俺が、少し強めに言ったところで、弟が風呂から出てきた。
「兄ちゃん、風呂が開いたよ。冷めないうちに、早く入ったほうがいいよ」
俺は、そんな弟を見て、何も言えなかった。それは、雪さんも同じだった。
「どうしたの、二人とも? 兄ちゃん、お姉ちゃんとケンカしたの? お姉ちゃんを泣かせたら、ぼくが承知しないから」
すると、雪さんは、突然立ち上がると、弟を抱きしめた。
「大丈夫よ。私と隆志さんは、ケンカなんてしてないから」
「それなら、どうして、お姉ちゃん、泣いてるの?」
雪さんは、弟を抱きしめたまま、静かに泣いていた。その涙が、頬を伝うと、氷の小さな欠片のようになって、床に音を立てて落ちた。
それも、いくつも、いくつも・・・
「お姉ちゃん、どうしたの。悲しいことがあったの。泣かないでよ。ぼくまで、泣きたくなるじゃないか」
「そうだね。ごめんね、裕司くん」
彼女は、そう言うと、涙を拭いて、しっかり俺の目を見て言った。
「私は、ここから、出ていきません。恩を返すまでは、絶対に出ていきません。それと、私は、隆志さんが好きになりました」
雪さんは、ハッキリと言った。ここから出て行かないと。
そして、もう一つ、俺のことを好きになったと。
「やったじゃん、兄ちゃん。お姉ちゃんが、兄ちゃんの彼女になってくれたら、ぼくは、うれしいよ」
「ありがとう、裕司くん」
雪さんは、にっこり笑った。
「兄ちゃん、なに、黙ってんだよ。なんか言えよ」
弟に言われて、俺は、やっと現実に戻った。
「ありがとう、雪さん。これからも、よろしく」
「兄ちゃん、それだけかよ。もっと、他に言うことあるだろ」
「いいのよ、裕司くん。私には、それだけで十分よ」
雪さんは、そう言うと、弟を誘って、リビングに行った。
「待ってくれ、雪さん」
俺は、雪さんの背中に言った。雪さんが女性として、ちゃんと言葉にしてくれたのに、人間の俺も、ちゃんと言わなきゃいけない言葉があった。
「俺も雪さんのこと好きだよ。だけど、雪さんのお姉さんのようなことは、絶対しない。雪さんも俺も、あんなことは、二度としちゃいけないんだ。だけど、俺は、雪さんが好きだから、それだけは、変わらないから。だから、雪さんも、もっと、俺を信じてほしい」
「ハイ。隆志さんのことは、信じてます」
「お姉ちゃん、ぼくは?」
「もちろん、好きですよ。裕司くんのことも、信じてますよ」
「やった! お姉ちゃん、昨日の続きをしようよ」
そう言って、喜ぶ弟は、雪さんをリビングに連れて行った。
最近、ハマっているのが、トランプだった。昨夜も、三人でババ抜きをやった。
だけど、雪さんは、トランプが弱い。いつも負けてばかりだった。
そんな二人を見ながら、俺は、風呂場に向かった。
熱い風呂に入って、お湯で顔を洗って、さっきのことを思い出していた。
なんだか、顔だけでなく、体の中から熱くなってきた。それは、風呂が熱いからだけじゃない。
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