第9話 互いの苦労を知る

 小林と美羽が局の駐車場に降りたところで、小林が急いで車を取りに走って行った。

 美羽はその間、駐車場の出口で待っていたが、たまたまその姿を送迎車の前で見ていたマネージャーの松島がいぶかし気な顔で声を掛けた。


「おい、裕星! 何してる。こっちだぞ!」


 しかし、ちょうどその時、小林の車が松島の車の前をさえぎって裕星の前で止まったため、松島の声は届くことはなかった。





 松島は裕星の行動を不審に思ってみていると、裕星は見知らぬ女の運転する車の助手席に乗り込もうとしている。それどころか、いつも仏頂面ぶっちょうづらでクールな裕星が、まるで人が変わったようにニコニコと笑顔を見せているのが奇妙だった。



「なんだ、あれは。裕星はいったいどこに行くつもりだ? 送り迎えしてる俺に一言も断らずに勝手に女とどっかに行くとは!」

 松島は遠ざかる小林の車を見送りながら首を傾げていた。









 レストランに着いたのは、まだ日が傾きかけ始めたころだった。


 小林はレストランの駐車場に車を停めて、裕星を中に誘導していった。


「こっちです。あ、もし気を悪くしなかったら、『裕星』って呼び捨てでもいいですか? 妹には裕星さんは私の友人だって言っちゃってるんで」



 美羽は仕方なく承知した。しかし、これが後々まさか大きな失態につながるとはこの時は全く予想だにしていなかった。







 ***孤児院(美羽の姿の裕星)***




 午前の礼拝を無事に終え、裕星は昼食を済ませると、美羽に言われた通り孤児院に来ていた。


 孤児院で美羽はどんな風に子供たちの世話をしていたのか漠然ばくぜんとしか聞いていない。

 しかし、決まりはないというので、裕星らしく、いや、美羽らしく子供たちに体当たりで接しようと考えていた。



「美羽お姉ちゃん、なんだか今日は顔が怖いね!」

 さっそく勘のいい子供に指摘されてしまった。



「そ、そんなことないわよ。ほら、いつもの可愛い美羽さんでしょ?」

 両方の人差し指を頬に当てニッコリ作り笑いをして見せたが、子供たちは眉をひそめ納得がいっていないようだ。

「なんか変」と一蹴いっしゅうされてしまった。



「ごめんね。わたし、最近ちょっと不調なの。たまには変な美羽さんもいいでしょ?」

 なんとかごまかそうとした。


 すると後ろから美羽のセーターをツンツン引っ張っている子供がいる。


「どうしたの?」

 裕星が訊くと、「おしっこ」まだ3歳くらいの小さな女の子が指をくわえながら裕星を見つめている。



「お、おしっこぉ? ちょ、ちょっと待って! えーと、トイレ、トイレ」

 裕星は女の子をひょいと抱き上げると、園内のトイレを探して走り回った。


 なんとか間に合って幼児用トイレに座らせると、ふうーとため息をついた。


「こりゃあ、最初から大変だな」

 独り言を言いながら、子供のトイレを済ませてやると、今度は別の子供が美羽を呼びに来た。



「美羽お姉ちゃん、お庭で美香ちゃんが泣いてるよ! ブランコから落ちちゃったんだって」



「ええっ? 分かった、今行くから待ってて」

 裕星は慌てて園庭に降りて行った。


 すると、園庭の端にあるブランコの前で座り込んだまま大きな声で泣いている女の子の姿が見えてきた。



「おい、大丈夫か? どうしたんだ、ブランコから落ちちゃったか? どこか怪我したのか?」

 美羽の声で男のような話し方をする裕星を、周りの園児たちが恐々きょうきょうとして見ている。



「お姉ちゃん、なんか変。男の人みたいな話し方」

 その中の一人がついに本音を言った。



「お、お姉ちゃんは男じゃないよ。ほら、可愛い女の人でしょ?」

 ニンマリ笑って見せたが、それがまた奇妙だったらしく、園児たちが気味悪がってじりじりと後ずさりしたのだった。



「はあ~、子供の世話なんて楽勝だと思っていたのに、これが初日じゃ先が思いやられるよ」

 裕星は腰に手を当てて伸ばしながら呟いた。

「しかし、美羽はこんなことを毎日やってるんだな。俺のハードな仕事の方がまだましに思えてきた」





 裕星がふらふらになりながら子供たちと追いかけっこをしていると、園長がこちらにやってくるのが見えた。



「おお美羽、ここにいましたか。探しても見つからなくてさっきメールしたんだが、これから急ぎで出張に行かなくてはいけなくなったんだ。隣町だから夜には帰れるけど、それまで子供たちの面倒を見ていてくれないかな? 悪いね、いつも遅くまで働いてくれてるのに、更に時間をオーバーさせてしまうけど、なんとかお願いできるかな?」


 園長の困った顔を見て、裕星は断れなくなった。美羽ならきっと快諾するところだ。

「いいですよ。この後子供たちを部屋に戻して昼寝させて、6時には夕飯を食べさせればいいんですよね?」

 美羽に教えられた手順を確かめるように言った。



「ああ、それでいい。悪いね。何かあったらすぐに電話をしてくれ。スタッフさんの半分は定時で帰ってしまうから、夕方からは手薄になってしまうけど大丈夫かい?」



「はい。お任せください!」

 裕星は元気よく答えたが、多少の不安がないわけではなかった。扱ったことのない子供たちに昼寝をさせ、起きたら夕飯を用意して、6時には食べさせ、園長が帰らなければ8時には風呂に入れて寝かせなければなければならない。美羽が普段していることが、裕星にはまるで大仕事のように思えた。





 園長が出て行ってから、残りのスタッフたちと一緒に子供たちをやっとのこと寝かしつけた後、ようやく自分の時間ができてお茶を入れていた。

 裕星はマグカップにお茶を注ぎながら、ふと自分の手を見ると、美羽の小さな手が赤くなっていることに気付いた。


 ――美羽の手がこんなに荒れている。こんなに忙しくちゃ、自分のことなど構っていられないし、真冬でも水仕事だってある。こんな痛々しい手だったなんて初めて知ったよ



 裕星はしみじみと自分の、いや、美羽の手を見つめながら、美羽の苦労に思いを馳せていたのだった。







 もうすぐ子供たちが起きようとしているころ、エントランスの方が何やら騒がしかった。


 誰かが叫んでいるような声がしている。きっと宅急便か何かだろうと裕星はエントランスに向かった。


 裕星がエントランスに着くと、そこには女性スタッフの一人を羽交はがめにして刃物を向け何やら叫んでいる中年男の姿があった。

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