第8話 近すぎるファン

 別室に通されると、そこには既にヘアメイクの若い女性が一人待っていた。裕星の姿を見るなり、パッと顔色を変えてにこやかに挨拶をすると、大きな鏡の前に誘導した。


 美羽が、お願いします、と椅子に着くと、ヘアメイクはさっそく裕星の柔らかい髪に触れながらブラシを掛けて鏡越しにこちらを見ている。


「あの……今回担当させていただきます小林映美こばやしえみといいます。よろしくお願いします。今日はどんな感じにしましょうか?」



「――どんな? え、っと、そうですね、それじゃ、大人しい感じで。これからトーク番組なので、少し落ち着いてる方がいいかなって」美羽が答えた。




「はい、分かりました」

 小林はニッコリとすると、ヘアアイロンを温めておく間、大きなボックスからスプレーやワックスを取り出して用意をしている。



 美羽は、ヘアメイクがつくことは、以前テレビ出演したときに経験したことだったが、裕星はこういう時、きっとこう言うに違いないと考えて答えたのだ。


 すると、小林が傍に来て、髪にスプレーを掛けアイロンを当てた。


「裕星さんの髪、とっても柔らかいですよね。いつも思っていました。艶があってサラサラしてるし、黒々としていい髪だなって思って」



「―—そ、そう。ありがとう」

 美羽は裕星を褒められて嬉しくなった。




「私、デビューしたときからの裕星さんのファンなんですよ。実は何度か前にもご一緒しました。局の廊下ですれ違ったこともあるわ」

 髪をいじりながら小林が恥ずかしそうに言った。



「そ、そうでしたか」

 美羽は少し困惑した顔で答えた。



「この仕事を選んだのは、もしかすると、いつか裕星さんに会えるかもって思って専門学校に入ったんです。そしたら、こんなに早く会えて、運命を感じていたんです。


 今までは先輩ヘアメイクの助手だったんですけど、今日初めて独り立ちさせてもらえたんです。だから今日は運命的チャンスだなって。私、時々裕星さんの車をチェックしてたんですよ、今日はいるかなって」

 小林はニコニコしながら、美羽に顔を近づけて自分のことを止まることなく話している。


 ――な、何か、変な展開になってきたわ。

 美羽は気が気ではなくなってきた。


「それと、小耳に挟んだんですけど……もしかして、お付き合いされてる方がいるんですか?」



 ――え? 


 美羽は驚いた。流石にこれ以上の会話はプライベートの範疇はんちゅうだ。



「噂になっていた方とまだお付き合いされているのかなって。あ、いいんですよ、別に答えてくれなくても。だって、そうですって言われたらショックだもの。それに、彼女がいてもいいの。そういう関係って芸能界はよくありますよね?


 実は、私、裕星さんと同じ事務所の方ともお付き合いしたことがあったんですよ! でも、その方とはお互い合わなくてお別れしちゃったんですけどね。


 あ、そうそう……番組終わるのって二時間後ですよね? もしよかったらこの後、青山に私の兄がやってるお店があるから一緒に食べに行きませんか?」




「―—え? あの……あなたと一緒に今日レストランに、ということですか?」


「ええ。もちろん食事だけですから、いいでしょ?」


 小林は持っているアイロンを危なかしそうにブンブンと振り回しながら、笑っている。



「え、でも……せっかくだけど、僕は仕事が終わってからはまっすぐ帰っているので、プライベートでは誰とも約束はしないことにしていますから」




「――実は、私の妹、病気なんです。それも不治の病というもので。ああ、すぐに死ぬわけじゃないけど、一度だけでいいから裕星さんに会いたいって言っていて……。妹も裕星さんのファンなの。願いを叶えてもらえたら嬉しいんですけど……」




「そ、そうなんですか。それはお気の毒に。でも、僕は……」



「もちろん来てくれるだけでオッケーです! 妹は裕星さんに会ったら元気になるどころか、病気も治っちゃうかもしれないですから!」



 美羽は小林の妹が不治の病と聞いて心がザワザワしていた。裕星だったらどうするだろうか。たとえどんなことを言われても断るに違いない。

 しかし、今の裕星は美羽なのだ。こんな話を聞かされて断るのは、心が引き裂かれるような思いがしたのだった。



 ――裕くんもきっと分かってくれるよね? ちょっと顔を出してあげれば、元気になってくれるファンがいるんだもの。


「ええ、少しの時間ならいいですよ」

 美羽は、きっと裕星も理解してくれるだろうと思って承諾した。





「わぁ、嬉しい! 裕星さんが私と一緒に来てくれるなんて!」

 小さく飛び跳ねて叫びながら、最後のヘアセットを仕上げたのだった。




 美羽は誘いを承諾した後、慌てて裕星のジャケットのポケットの中に手を入れてゴソゴソ探った。

 財布は持っているのだろうかと気になって出してみると、ブランド品ではあるが、だいぶ古いタイプの黒革の財布が出てきた。

 裕星が高価なものを何年も使い続ける性格であるため、ほとんどカードしか入っていないその財布は、物は良かったせいか使い古していても革が擦れたり破れてはしていなかったが、縁取りの辺りが少しくたびれて見えた。


 ――裕くん、ずっとこのお財布だったわね。でも、カード入れの仕切りがくたびれて使いにくそう……。




 裕星のことは何でも知っていると思っていた美羽だったが、本当に細かな部分までは何ひとつ分かっていなかったのだなと、改めて裕星の周りとの付き合い方や、持ち物、考え方まで、本当は裕星なりに至る所で気を使っていたことに気付いたのだった。







 トーク番組の収録では、大御所タレントで司会の宮城徹子みやぎてつこに、大まかに生い立ちからラ・メールブルーに入るまでのことを聞かれ、子供の頃の写真を交えて美羽なりに上手く答えることができてホッと安堵していた。



 番組が終わって控室に戻ると、ヘアメイクの小林がさっきとは打って変わって用意周到にドレスアップした私服で待っていたのだ。


「裕星さんが着替え終わるまで外で待ってますね! 今日は私の車で裕星さんを送っていくって私から裕星さんのマネージャーさんに伝えておきました」



 美羽はすっかりその言葉を信じて小林に任せることにした。


 私服に着替えて出てきた裕星の姿の美羽を見るなり小林はニコニコと近づいてきた。


「やっぱり裕星さんって私服もカッコいい! ああ、私の彼氏だったらなぁ」と呟いた。




 美羽は裕星のことをここまで好きでいてくれるファンに気分良くしていたが、それは、裕星が自分を愛しているという確信があったからだ。

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