第41話


 見世が開き賑やかさを取り戻す中、お高が一人ユキの元へと向かった。

 人目を避けるようにこっそりと近づくその顔は、表情を無くした能面のようだった。

 薄暗い廊下を通り、掃除も行き届かない暗く陰気な空間。お高は襖に向かい静かに声をかけた。


「ユキ」


 中から返事は無かった。眠っているのだろうと思い、静かに襖を開け様子を見ると、やはりユキは眠っていた。お高は静かに部屋に入ると辺りを見渡す。

 最後にこの部屋に来たのは、たぶんユキをこの部屋に連れて来た時だったかと思い出す。襖越しに様子を見ることはあっても、中にまで入ることは無かった。

 全てを佐平に押し付け、見ないふりをしてしまっていた。

 今までにも多くの遊女が病気になり、その度にお高が面倒を見て来たというのに。今回は楽をさせてもらっていると、密かに苦笑する。


 ウトウトすることが多くなったと佐平から報告は受けている。

 もう長くないであろうことも、経験から感じていた。

 桔梗からは思い出したように「まだか?」と聞かれる。

 人の命の揺らめきなど、医者でもないお高にわかるはずなどないのに。


 お高は眠っているユキの額に手を当てた。少しだけ熱い。微熱があるのだろう。熱が下がらないと佐平がぼやいていたように、これが日常になっていればさぞ苦しいだろうにと、憂う。



「楽になりたいか?」


 囁くように声をかければ、薄っすらと瞼が動き、ユキがわずかに目を開けた。


「だれ?」


 ユキの問いにお高は慌てることなく返事を返す。


「私だよ、お高だ」

「お高さん。すみません、眠っていて」


 お高の声に眠気も飛んだのだろう、ユキは目を開け起き上がろうとする。それをお高は両手で制し、「病人は寝るのが仕事だよ。心配しなくて良いから」そう言って、ユキの布団を肩までかけ直した。


「ユキ、体調はどうだい?」

「はい。皆さんのおかげで、悪くはありません」


 無理に笑おうとするユキの顔を見ながら、悪くないはずが無いのにと思いながら、お高は黙って頷いた。


「欲しい物はあるかい? 何か食べられるようなら持ってくるよ」

「いえ。お粥もあるし、大丈夫です」


「そうかい。ちょっと様子を見に来ただけだからね。顔を見られて良かった」 


「佐平のためにも早くよくなるんだよ」と、一言を言い残し、お高は部屋を後にしようとする。それをユキが名を呼び止めた。


「お高さん」


 襖に手をかけていたお高は振り返り「なんだい? 何か欲しい物でも?」と返した。


「うち、豊川姉さんから聞いて知ってます」


 優しくほほ笑み振り向いたはずのお高の顔に、わずかな綻びが見えてしまった。常に感情を抑え、若い娘たちが余計な心配をしないようにと気を遣い生きて来たのに。


「何を? なにを聞いてるんだい? どうせ大したことじゃないだろうけどね。

 豊川は残念だったが、あんたもよくしてくれた。ありがとう」

「豊川姉さんも飲んだんですか? なら、うちにもください」


「ふふ。何のことだかね。豊川は『薬』以外は飲んでいないよ」

「うち、自分がもう長くないのはわかっています。佐平さんも、お高さんや皆も知っているんですよね。

 もう、解放してあげたいんです。佐平さんを自由にしてあげたい。

 だから、だから『薬』をください。うちに『薬』を飲ませてください」


 左手を付き体を起こそうとするが、その体を自分で支えることも出来ないほどに弱ったユキは、床に起き上がることも出来ずに布団の中からお高に訴える。


「豊川に何を聞かされたか知らないが、病人の戯言さ。忘れておしまい」



 かつてまだ見習いで会った頃、病に蝕まれた豊川の面倒を見ていたユキ。

 その時に、ユキは豊川よりあらゆることを教えてもらっていた。

 遊女としての嗜みを始め、この店でのしきたりや動き。年季が明けた後の現実なども、噂話としての内容だが聞かされていた。

 その中に病気になった遊女の身の上話もあった。実際に病気になってしまった豊川にしてみたら、噂は本当だったと思うところもあったのだろう。

 それらを聞いてもなお、それを信じ処理するだけの力が当時のユキには無かったが、今なら理解できる。

 遊女として数多の客を取り続けてきたユキなら、豊川の話しの現実味が身に染みてわかるのだ。



「客を取らない遊女はお荷物です。金を産まない、金食い虫に生きる価値はありません。だから『薬』が必要だって。

 うち……、お荷物にはなりたくありません。

 佐平さんに嫌われたくない。だから、今のうちに……」


 痩せ衰えた今のユキに声を張り上げるだけの体力はない。一生懸命話す声は思った以上に小さく、お高はそれを真剣に聞き受け止めた。


「豊川は飲んでいないよ。だからあんたも飲むんじゃない。

 佐平は好きで面倒を見てるんだ。勝手にやらせておけばいいよ。

 それより少しでも長く、一日でも一緒にいることの方をあの子は望んでる。

 だから、がんばっておやり。佐平のためにもね」


 お高はユキと視線を合わせ、小さく頷くと部屋を出て行った。

 薄暗く陰気な廊下を抜け、明るい見世の光が見えるとお高は、「ほぉ」と小さく息を吐いた。

 お高は右手に握りしめていた小さな紙の包みを帯の間にしまうと、小さく伸びをした。

 さあ、まだ夜はこれからだ。娘たちを気張らせようと、自分の気持ちに喝を入れ華やかな世界に戻っていくのだった。

 


 一人残されたユキは自分の置かれた状況を考える。

 佐平との未来を夢みながらも、それが叶うとは思ってもいない。

 きっと自分はもう長くない。だからせめてそれまでは……、と思うと同時に、だからこそ早く彼を解放して自由になって欲しいとも思う。

 それは我儘だと思う。それが許されるのなら、死にゆく自分への最後の褒美だとも思う。

 お高は薬を置いては行かなかった。それでも、そろそろという頃合いなのかもしれないと感じていた。

 

「佐平さん」


 愛する人の名を呼べば少しは心が晴れるかと思ったのに、むしろ切なくて苦しさで溢れてしまった。

 彼のために今の自分に何ができるだろうかと考えて、何もないことに改めて驚いてしまう。

 自分の稼ぎで買った着物や簪を売り、それを借金返済と食費にあてがわれている。今のユキにあるのは、里を出る時に買ってもらった柘植の櫛くらい。

 彫りも飾りもない、何の変哲もない櫛は、それだけでは少しの価値もない。

 せめて金に換えられるものをと考えても、何も持ち合わせていないのだ。

 ただのお荷物でしかない自分が情けなく思えてしまう。

 

 それでも、せめて最後は笑って散りたいと願い、佐平の姿を想い、そっと目を閉じた。

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