第42話


 年の瀬を迎え、見世も正月準備で慌ただしくなる。

 思い返せば正月明けに、ユキは水揚げを迎えていたのだ。

 随分遠い昔のように思えるが、実際はほんの三年ほど前に過ぎない。

 当時十五歳だった少女が初見の男に身体を開き、受け入れ男を知った。

 毎晩代わる代わる男達と肌を重ねたその体には、欲や金、そして涙も吸いつくしてきた。彼女の身体に滲みついたその闇は、もはやその身体から消えることは無い。


 新年の準備で忙しい佐平だが、ユキとともに眠ることだけは止めようとはしなかった。そして、どんなに遅く戻ろうとも、ユキは「お帰りなさい」と笑顔で佐平を迎え、その背を彼の胸に預けるのだった。


 年が明けたところで二人の日々が変わることはない。

 いつものように朝目覚め、佐平は仕事に向かう。時間になれば食事を運んでくれる。そして時折様子を見に来る佐平に笑顔で答え、夜になれば同じ布団で眠るだけ。

 ここ最近めっきり寒くなり、ユキの咳もひどくなってきた。微熱も中々下がらない。佐平は心配するが、ユキは大丈夫としか答えない。

 今日もユキは佐平の胸で夜を迎えた、ある日。


「佐平さん。うち、佐平さんに出会えて幸せ者だと思う」


 自分の腕の中で小さく丸まるユキの言葉に、少しだけ訝しく思った佐平は、

「どうした? 何かあったのか?」と、聞き返した。


「ううん。なんでもないけど、いつも思ってたから。ここでは佐平さんだけがうちの心のお守りだった。佐平さんがいたから頑張れたんよ。

 だから、嬉しくて。ありがとう」

「俺もユキに会えて幸せ者だ。こうして一緒にいられるだけで、嬉しいんだ。

 本当だぞ。ありがとうな」


 ユキは今まで心の内を話して聞かせたことが無かったと思い、これからは気持ちを伝えることにしようと決めたのだった。

 それから毎晩、ユキは佐平の腕の中で思いを語った。

 時に感謝を、時に愛を。


「佐平さんは優しいから、頼りにしてます」

「佐平さんにくっついて眠ると、よく眠れるんだ」

「いつもありがとう。あんまり無理しないでね」

「こうしてそばにいられだけで、うちは嬉しい」


「佐平さん。うち、佐平さんのことが好き」


 佐平はユキの言葉に驚き、そして胸を高鳴らせた。互いの気持ちは知っているつもりだが、ユキは遠慮をして自分の気持ちを話すことをあまりしなかったから。そんな彼女の口からこぼれる想いに、佐平は言いようのない喜びをかみしめていた。


「俺もユキが好きだ」


「ありがとう。うちを好きになってくれて。佐平さん、ありがとう」


 堪える涙はユキの肩を揺らしてしまう。腕の中で愛しい人の肩が揺れ、佐平は強く抱きしめる。決して離れぬように。

 たとえ短い時間でも、二人の永遠になるように願いながら……。








 睦月も終わり、如月を迎えた頃。



「ユキ。二月になった。十八だな、おめでとう」


 佐平の腕の中でぼんやりとその声を聞きながら、おぼろな声で答える。


「じゅうはち?」

「ああ。生まれた日にちはわからんけど、二月の頭に生まれたんだろう?

 だから、もう十八歳だ。立派な大人だ、おめでとう」


「そっか、うち十八になったんだ」

「うん、おめでとう。大した物はやれないけど、これ」


 そう言って懐から出した物を、ユキの目の前に差し出した。

 それは、赤いちりめん生地に金糸で花の刺繍が入れられた、柘植の櫛入れだった。佐平の給金では高価な物は手に入れられない。それでも、せめてもと自分で選び準備をしていた物だ。

 それをユキの手に持たせると「きれい。すごく嬉しい。佐平さんありがとう」と、笑みをこぼしていた。

 「入れてみな」そう言われてユキは胸元から櫛を取り出し、入れ物にしまう。

 何度も、何度も出し入れしながら手を伸ばし眺めている。


「佐平さん、ありがとう。うち、誰かに誕生日の祝いなんてしてもらったことないから、本当に嬉しい。これ、うちの宝物だ。ありがとう」

「ほんと、大した物じゃなくて悪いけど。喜んでもらえて良かった」


 佐平は喜んでくれるユキの姿を見て、ほっと安堵した。

「うちの大事な宝物」と両手で握りしめ胸に抱く様子に、佐平は少しだけ目を潤ませる。

 貧しい暮らし故、暦などあるはずもなく、生まれた正確な日にちすら親にも覚えてもらえていない。里を離れるまでの十四年間、誰にも祝われることのないまま過ごしてきたのだと改めて知り、もっと早くに祝ってやりたかったと後悔をする。

 何もユキだけ特別な訳じゃない。ここに連れて来られる娘たちの境遇はどれも似たり寄ったりだ。佐平自身だって大して変わらない。

 それでも、自分が惚れた女には幸せでいて欲しかったと願ってしまう。


「ユキ。これからは毎年一緒に祝おうな。俺の生まれは春だから、そうしたら俺のことも祝ってくれるか?」

「うん。うち、佐平さんの誕生日にはお祝い、いっぱい言いたい。おめでとうって。生まれてきてくれてありがとう。うちと出会ってくれてありがとう。うちのこと好きになってくれてありがとう」


 ユキは佐平に身体を預けながら、ゆっくりと彼の顔を見上げる。いつのまにか二人の瞳は濡れていて、それを見合いながら「ふふ」と笑った。

 そんな普通のことが、ふたりにはとても幸せだった。

 何もいらない。高価な贈り物も、豪華な食事も。ただ、普通の生活を送りながら、そばにいてくれるだけで、それだけで幸せだと思えるのに。

 


 それすらの幸せも掴めないほどの、小さな手だったのだろうか……。




~・~・~




 雪がちらつく静かな夜のことだった。



 ユキは佐平の腕の中で、眠りながら儚くなった。



 あれから毎日、互いの想いを口にし続けていたふたり。

 すでに自力で起き上がることもできず、食事もほとんど喉を通らなくなってもなお、ユキは佐平への想いを語り続けていた。


 その日、ユキは佐平の未来を口にした。


「佐平さん。佐平さんは幸せになってね。うち、佐平さんが幸せになるようにお祈りしてるから」


 微かな声で、途切れがちに言葉を選び口にする。

 それが覚悟の言葉だと悟った佐平は、「ありがとう」とだけ答えた。

 もっと気の利いた言葉のひとつも思いつけばいいのにと思いながら、泣くまいとそれだけを思い、ユキの髪に唇を落とす。

 これが最後の夜になると知った佐平は、朝までその温もりを忘れぬようにと強く抱きしめた。

 

「ユキ。ありがとう」

「ユキ。その笑顔が大好きだった」

「ユキ。おめえに出会えて幸せだった」

「ユキ。次は必ず一緒になろう。待っててくれ」


「ユキ。幸せにしてやれなくて、ごめん」


 佐平はユキを抱きしめながら、ひとり声を上げて泣いた。

 華やかで賑やかな見世から離れた小部屋。

 男泣きする佐平の声は届かない。

 窓の外にはちらちらと舞い降りる白い雪。



 雪の降りしきる日に生まれた少女は、雪が舞い散る夜にその生に幕を閉じた。

 まるで雪が消えゆくように、ゆっくりと溶けて消えていった。

 


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