第36話


 一鶴楼で一通りの段取りを踏み、和歌は辰巳に身請けされることとなった。

 若松と言う芸者名を捨て、戸倉和歌に戻ることになる。



「和歌さんはこの店を去りますが、今後もどうぞよろしくお願いします」

「まあまあ、それはこちらの台詞ですわ。本当に素敵な方に身請けされて良かったわね、和歌さん」


 桔梗の心にもない言葉に、和歌は微かに笑みをこぼしただけで、返事をしない。何か気にいらないことでもしただろうかと気になり、「どうかした?」と問う桔梗に、なおも返事をしない和歌に代わって辰巳が口を開く。


「実は、和歌さんの腹に子が出来まして。いや、この歳でお恥ずかしくて黙っているつもりだったのですが。こういうことはいつか知れることですから」


 と、辰巳が嬉しそうに話し出した。その言葉に花見達は「それは目出度い」と大喜びだ。


「和歌さん、本当におめでとう。

芸者とは言え客を取るわけでもなく、ここに来て二年ほど。こんなにトントン拍子で幸せになれるなんて、この世界でも聞いたことがないお話しよ。

 これから迎える娘たちにも、あなたのことは語り次いでいきたいわ。

私は残念ながら子を持つことが叶わなかってけれど、代わりにあなた達は私の子だと思っているのよ。

 頼る身がなくとも、これからは辰巳様があなたを支えてくださるわ。こんなにあなたを愛してくださっているのですもの、本当によかったわね。

 何かあれば私達を親だと思って、いつでも頼ってちょうだい」


 花見も桔梗も、何も知らない。だからこそ笑って祝おうとしてくれている。

 その腹の中に、これからも富を得ようとする算盤をはじいていたとしても。

 それでも祝ってくれる気持ちに嘘はないのだろう。


「実は、腹の子は女の子だと。そんな気がするのですよ。まだ産まれてもいないうちから、親馬鹿と言われてもしかたありませんね。お恥ずかしい」

「いや、そういう勘は当たるといいますからね。どちらに似てもかわいいお子が産まれるでしょうし」

「ええ、どちらに似ても見目の良い子になるでしょうね。楽しみですわねぇ。

 もう、名前も考えていらっしゃいますの?」


「はい、実は。女の子なら『珠子』と名付けようと……」


 和歌は初めて聞く話に驚いて声も出なかった。あまりの衝撃に身を固くさせ、首を動かし隣にいる辰巳を見ることもできなかった。

 『珠子』? 今、確かにそう言った。珠子と名付けると。

 何を考えているかわからない男の言葉が、彼女の頭の中をこだまする。


「まあ、可愛らしい名前。きっと目に入れても痛くないほどに可愛がられるのでしょうね。楽しみですわねぇ」


 桔梗は大げさに喜び、その姿を見て辰巳も満足そうに微笑んでいる。

 普段、営業用の笑みを浮かべることはあっても、こんなに素の笑みを浮かべることなど滅多にないことを和歌は知っている。それほどまでに和歌の懐妊を喜んでいるのだろう。


 自分の子でもないのに……。



 花見と桔梗に見送られ、和歌たちは帰路についた。

 小太郎と別れたあの邸に和歌の私室はある。奥の母屋に行くことは許されていない。邸の中には常に使用人がおり、自由にすることを許可されているとはいえ、常に監視の目は光っていた。

 庭には花々が咲き誇り、和歌の目を楽しませてくれた。しかし、母屋のある裏庭には近づくことを許されず、和歌が動き回れるのは邸の中と表庭だけ。

 その私室でさえ、使用人が掃除と言う名目で隅々まで目を光らせるために、和歌の自由になる居場所はここにはない。

 唯一、誰にも邪魔されず自由にできるのは、自分の思考の中だけ。

 いつでも、どこでも、彼女は楽しかった頃を思い出す。

 子供の頃の幸せだった頃。まだ両親が健在で、家の財も傾くことがなかったあの頃、和歌も両親も常に笑顔で過ごしていた。

 そして、父の事業の失敗から家族がバラバラになってしまい、母とも離され単身一河に売られながらも、そこで小太郎に出会った。

 たった数日過ごしただけで、こんなにも心を奪われるとは彼女自身思ってもいなかった。自暴自棄になった自分を無下にせず、一人の女として扱ってくれた人。狭い世界の中で知り合った唯一の異性の優しさに絆されただけなのだと。

 そう言って笑う者もいるかもしれない。

 それでも和歌にとってはそれだけが現実であり、救いだった。だから彼を忘れられず、すがるように求めたのだろう。


 まだ膨らまぬ自分の腹に手を当て、その父親を想う。


「小太郎」


 彼の名を呼んでは涙が込み上げてくる。

 せめてどこかで元気でいて欲しい。二度と会えないとわかっている。迎えに来てくれるかもしれないなどと、夢にも思わない。

 それでも彼の消息を知りたいと願うのは、仕方のない事だと思う。

 あれだけの怪我をして追い出されたのだ、どこかで行き倒れていないだろうか? 誰か良い人に拾われ、介抱してもらえていることを心の底から願うことしか和歌には出来なかった。


 和歌の懐妊がわかった時、辰巳は「そうですか」と言ったきり何も言わなかった。下ろせと言われると思っていた和歌にとって、何も言われず放っておかれるのはむしろ有難かった。

 心から惚れた男の子だ。産みたいと切に願っていたのだから。

 産んだ後、見たくもないとすぐに里子に出されたとしても、小太郎と同じようにどこかで、同じ空の下の見えないどこかで生きていてくれるならそれでいいと思っていた。だから花見達の前で嬉しそうに話す辰巳が信じられず、しかも「珠子」と名付けると聞いた時の衝撃はとてつもなく大きかった。

 しかし、それで合点もいった。


 ああ、この子は母の産まれ代わりなのだと。


 女の子が無事に産まれた後は、自分はお払い箱になると思っている。

 きっと、生かさず、殺さず。そのまま朽ちた人生を送るのだろうと。

 それでも良い、それが自分の人生に相応しい気がする。

 どんな環境だろうとそれを受け入れ、命ある限り生きてやる。と、和歌は腹に手を当て思うのだった。


 かつてこの血を呪い、自分でこの血を絶やそうと思ったこともあった。

 だが、惚れた男の子を宿せばそれも忘れてしまう。女にとってそれは切なく、苦しくも尊い選択だった。




 高貴な血筋の産まれと武家の嫁と言う矜持。己の身体を、家名を汚されることを許さず、自らの命に代えても守り抜く。そんな強く激しい思いが珠子の中にはあった。

 

 どのような血筋であろうとも、どれだけの家名であろうとも、生き抜く強かさに勝るものは無い。「生」を手放さぬ、熱い激情が和歌の中にはあった。



 どちらが良いも悪いもない。

 それぞれ己の矜持を信じた故の、二人の女の結末だった。

 




 

 それからしばらくして、初雪が降り始める頃。一河から離れた河口付近で、一体の土座衛門が上がった。

 水を含み膨れ上がった体は生前の面影を残してはいないが、その様子から男とわかった。岩で傷つけられたのか体中に擦り傷を作り、それとは別に殴られたような痣も出来ていた。顔を割られその身元の判別は出来なかったが、何故か右手親指が無かったと言う。


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