第35話
和歌を逃がしてやりたい思いは本心だった。二人で抜け出し、その後はきっと若く美しいこの娘に見限られ捨てられると思っていた。
それでも良い、それで良いと思っていた。この娘が幸せになれるなら、と。
「珠子さんは生前、とてもあなたを大切にされていた。一人娘のあなたをいつも自慢して話していたんです。
あの方を救えなかったせめてもの代わりに、私はあなたをそばに置き見守る決意をしました。芸者として客を取ることもさせずに常に見張りを置き、あなたの無事を守ることを第一に考えて来ました。それなのに、あなたは私のそばから消えようとした。これを許せと? あなた達はそう言うんですね」
「そんなの、あなたの勝手だわ! 守ってくれていたことには感謝するけど、私は母じゃない。私は戸倉和歌と言う一人の人間よ。
だったら。そばに置き続けてその後はどうするの? 私はただ囲われたまま、何も知らずに死んでいかなきゃならないの? そんなの嫌!
そんなこと、母が望んでいるはずないもの。そうでしょう?」
辰巳は姿勢を崩すことなく、視線だけを和歌に向けた。その眼差しは暗く冷たい沼の底のように澱み、その身にまとわりつかせていた。
「本当に逃げられるとでも思っていたんですか? ここは花街。売られた女が住む場所です。逃がすはずがありません。どうやら、私の名があなたを守りすぎたようですね。生ぬるい田舎の花街にも掟はあるんです。
それを破ればどうなるか。それくらいわかっているでしょうに」
「そ、そんなの聞いてないわ。借金を返さないで逃げ出すのは悪いことだってわかるけど」
「そうですね。結局逃げてはいませんから、それは良いでしょう。
問題は、金も貰わずに体を売ることです。あなた達の身体は商品なんですから、金に変えなければ価値が無い。それなのに、無料で自ら差し出すなんてもってのほか。そして、金を払わずに芸者を抱く男も言語道断です。
店によって罰はそれぞれでしょうが、幸い店にはバレていませんからね。
若松は私のものです。ここに彼女を抱いた料金、耳を揃えて差し出せば許して差し上げますよ。いかがです?」
辰巳は意地悪気に小太郎に問いかける。その日暮らしの流れのヤクザ者に金などあるはずがないことを知ってのことだ。
「金なんかあるはずがねえ。あったとしても、ビタ一文払うつもりはねえよ。
俺はこいつを金で買ったりしねえ。こいつは、和歌は金で買っていい女じゃねえんだ。お前だってそう思ってるから、今まで客をとらせなかったんだろう?
違うのか?」
小太郎の問いかけに辰巳は冷静に答えた。
「違います。ああ、本当に頭の悪い人間と話すのは疲れる。
私が彼女に客を取らせなかったのは、珠子さんのためです。可愛がっていた娘が金で客に買われるなんて知ったら、さぞ心を痛めると思えばこそ、です。
ですから、今後彼女は私が身請けをし、この屋敷に住んでもらいます。
今までのように外に出る自由は与えられませんが、代わりにここでは好きな事を存分にして過ごしていただきます。
生前の珠子さんがそうであったように、お茶にお華、お好きなら楽器や日舞なども良いでしょう。最高の師範を用意しますので、お好きなだけ時間を使われると良い。どうです? 素晴らしいでしょう?」
辰巳の目はどこか宙を見ているようだった。まるで、かつて想い焦がれた女性の姿を想像しているかのように。
恍惚としたその表情は、どこか薄気味悪く不気味さを感じる。
「生きたまま死ねって言うのか?」
「はい? おかしなことをおっしゃいますね。生きたまま死ぬ?
ふっ。そんな芸当が人間にできるとでも?」
「狂ってやがる……」
「ははは! そうですか、私は狂っている風に見えますか?
そうですね、狂っているのかもしれません。その方がどんなに楽かわかりません。狂ったついでに、あなたの処分も済ませましょうか。
金を払えないなら身体で払ってもらうしかありませんね」
「上等だ! 好きなようにしろ。代わりに和歌を自由にしてやってくれ。
頼む、お願いだ。頼みます」
両手を後ろ手に縛られながらも、小太郎は痛む体を無理に起こし正座をしたまま頭を下げた。額を畳みに擦り付け、体重をかけるように尻を浮かせての土下座。惚れた女を守る為なら男の矜持など無い。そこにあるのは、ただ和歌を守りたいと言う一念だけだった。
顔を腫らし、体中に痣を作り痛々しい姿をしながらも、最後まで自分のことを口にする小太郎の姿を見て、和歌もまた覚悟を決めた。
「どうしても許せないなら、私と一緒に殺して。心中に見せかければあなたが罪に問われることはないわ。どうせ一緒にいられないなら、それでいい。
あなたの言う人生は私には何の意味もないもの。小太郎がいないなら何もいらない。だから彼と一緒に私も処分してちょうだい」
和歌は男に肩を押さえつけられたまま、辰巳に向かって怒鳴るように叫んだ。
一緒に死んでも良いとは本心からだったが、うまくいけば小太郎を助けてくれるかもしれないとの目論見もあった。
見つかり辰巳の前に連れてこられた時点で、一緒にいられないとはわかっていた。ふたりの未来がここで途切れるのなら、せめて生きて欲しい。
そんなに甘い世界だとは思っていない。それでも、自分の命と天秤にかけてでも救えるものは救いたい。
二度と会えなくても、どこかで生きてさえいてくれればいいと。
彼女もまた、惚れた男を思い賭けにでるのだった。
和歌の言葉を聞いた辰巳は驚き、一瞬眉を動かした。動揺を悟られないようにしながらも、心の内は穏やかではないのだろう。
和歌は言い出したら聞かぬ娘だとすでに承知している以上、実行に移しかねない怖さを秘めているのは確かだから。
この娘に興味などなくても、珠子との繋がりの唯一の存在だ。それをみすみす手放すほど辰巳は愚かではない。
「それは困りましたね。あなたに死なれるのは面白くありません。
そうですか、そこまで……。いいでしょう。見せしめに指の一本も貰って、この地から出て行ってもらいましょうかね。金輪際私たちの前には姿を見せぬこと。もし遠目にでも見つけることがあれば、その時は容赦はしません。
それでどうですか? 和歌さん」
辰巳は何故か笑みを浮かべている。作り笑顔なのは承知しているが、それでもその言葉を信じすがるより他はない。
「それでいいわ。小太郎を助けてくれるなら、それでいい、です」
和歌は小太郎に目を向ける。そこには、同じように自分を見つめる愛しい男の姿があった。二度と会えないと思えば、その一つ一つが愛おしい。
自分を見つめる瞳も、名を呼んでくれた唇も。
この手で撫でた固い髪も、抱かれたときの肌の熱さも腕の強さも。
全てが忘れたくなくて、瞬きをしたくないほどにその目に焼き付けたい。そう思うのに、和歌の瞳からは涙が溢れ小太郎を凝視することが叶わなかった。
「和歌」
最後に自分の名を呼んでくれたその声だけは、生涯忘れないでいようと固く誓い、和歌はひきずられるようにその場から引き離された。
その後、小太郎は辰巳の邸から痛めた体を無理矢理動かすように、何度も何度も振り向きながら後にした。
和歌は二階の一室に押し込められると、その窓から外を眺めていた。
小太郎がこの道を通って行ったのだと想像しながら、無事でいてくれと願いながら、いつまでもそこから離れることはなかった。
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