第34話
和歌は眠り続ける小太郎を前に、辰巳の隣に座らされていた。
未だ目を覚まさぬ小太郎は、手を後ろで縛られている。
二人の前に現れた男は湯のみの水を小太郎の顔に叩きつけるようにかけた。
小太郎は「うぅ……」と唸り声をあげ、顔を引きつらせるように動かすと、わずかに目を開けた。身体を少しくねらすように動かすと「んん?」声を出す。
「小太郎!」
小太郎が目覚めたことに気が付いた和歌が立ち上がろうとするが、後ろに控えていた男に肩を押さえつけられ近寄ることを許されない。
和歌が自分の名を呼ぶ声で正気に戻った小太郎は、手を後ろで縛られながらも上手に身を起こし、その場で胡坐をかいて座り直した。
「おめえか? 俺たちを呼んだのは」
小太郎は和歌の隣に座る辰巳を射貫くように睨みつけた。
まだ若いチンピラ風情の男が太刀打ち出来ない相手だということは、一目見てすぐにわかった。それでも、どうしても引き下がれない時が男にはあるのだと、小太郎は観念する。
今まで逃げ続けの人生だった。風に乗り流れ者のように身をまかせていた人生だったが、和歌に出会って心持ちを変えることが出来たのだ。
小太郎はどんな結末になろうとも、受け入れる覚悟を持って無理に笑って見せた。きっと引き攣り強張っているかもしれない。それでもかまわないと思えた。
「あなたが若松と恋仲の相手ですか?」
辰巳の低く冷静な声が座敷に響く。
ここは辰巳の邸宅。和歌も初めて訪れた場所だ。
辰巳から芸者としての支援を続けながらも、私生活には一切触れることを許されなかった。
邸宅と言ってもここは来客者をもてなす邸で、本来の自宅はその奥にある母屋だ。そこには辰巳と、極一握りの人間しか寄り付かせない。
客用の家は大きく立派な作りの邸。豪華な装飾品で飾り立てられた、成金を絵に描いたような家だった。
「あんたが和歌の旦那様ですかい? 恋仲と認めてもらえるならありがたい。
はい、そうです。と言ったら、和歌をくれるんですか?」
したり顔で答える小太郎の腹に「こいつ!」と、護衛の男達が腹に蹴りを入れる。「ぐふっ」と身をよじると、再び畳に横になり悶絶し始める。
「小太郎!」
和歌の声に「こいつは効いたな」と、小太郎は空笑いを浮かべる。
「私も随分と舐められたものですね。いつからですか?」
辰巳の声は低く腹に響き渡るようだった。口調は普段と変わらないのに、怒声の混じったその声色は、聞いた者の身を凍らせるようだ。
「へっ! 今まで気が付かなかったなんて、大したことねえな。
俺と和歌は最初からだ。おめえと知り合う前からずっとだよ。わかったか!」
小太郎の啖呵に男達は、よってたかって小太郎を蹴り始めた。
後ろ手に縛られた彼は反抗することができない。無抵抗のまま蹴られ続ける小太郎の顔は晴れ上がり、「ごぼっ」と血反吐を吐いた。
「やめて!! お願い止めて。それ以上その人に手を出さないで!」
和歌は立ち膝で身をずらし、辰巳の胸を掴み懇願した。
「あの人の言う通りよ。最初から、初めて会った時に通じたわ。
身売りされて一鶴楼に向かう道中、私から彼に頼んだの。一家離散にした父や何もできない母を恨んで、あの人たちが一番嫌いなヤクザ者に身を差し出そうと思ったの。それがあの人たちに対する復讐だと思ったから。
芸者になる予定では無くて、最初は遊女になるはずだった。だったら、誰とやっても同じことだと思ったのよ。生娘のままで客を取りたくなかった。
だから、彼は悪くないわ。誘ったのは私よ、私が嫌がる彼に頼み込んだの」
辰巳は己の胸元を掴む和歌の手を振り解くと、乱れた身なりを軽く整えた。
彼の手によって放り出された和歌は、畳に手を付き尻もちをつく。
辰巳の眼差しは冷たく氷のようだが、その瞳が和歌をとらえることは無かった。その視線は小太郎をじっと見たままだった。
「なるほど合点がいきました。監視の者の話しでは、ここに来てから接点はなかったようだ。あなた達が会い始めたのは、ここ最近の話しだと聞いていましたかから。なるほど、そういうことですか。
大方、あなたが小太郎と呼ぶその男が、金欲しさに近づいてきたと言ったところでしょうか?」
「違うわ! 違うの、そうじゃないわ。私が彼を見つけたの。
新しい子を連れに一鶴楼に来た小太郎を私が見つけて、それで追いかけたの。
彼は本当に私を心配してくれて、旦那のいる身だからダメだって。でも、私が強請ったの。彼は私の言うことを聞いただけなの。本当よ」
「旦那とは私のことですね、それはまあ。心配していただき、お礼を言った方がよろしいのでしょうか?」
くすっと笑う辰巳に少しは許されたと思った和歌は、続けて口を開く。
「旦那と言ったって、表向きだけでしょう。
旦那のいる姉さん達だって、お座敷で誘われれば床を共にしているわ。
なら、私だけ我慢する道理はないはずよ。
それにあなたは私を愛してなんていない。あなたが愛してるのは私じゃない、別の人だわ。なら、私だけ義理を立てるなんておかしいじゃない」
「和歌、よせ!」
勢いに任せ、まくし立てるように話す和歌を制するように、小太郎が声をかける。
「旦那のいる身で他の男に身を預ける芸者は確かにおかしい。だが、そいつはまだ何も知らねえ小娘なんだ。芸者になってすぐに旦那がついて、それもこんな大物だ。周りも忖度して碌に慣習を教えてねえんだろう、大目に見てやってくれ」
蹴られた腹を庇うように身を縮めていた小太郎が辰巳に頼み込む。
先ほどとは違う様子にまずいと感じ、矛先を自分に向けようとする。
「俺がそうするように仕向けたんだ。何も知らねえ初心な生娘を従順に扱えるように躾けた。色を覚えた女が我慢できると思ってんのか?
おめえさん、まだこいつに手を出してないんだってな。こんなにいい女を前によく我慢できるな?」
小太郎の言葉にすかさず男達の蹴りが入る。ボコボコに蹴られた顔は腫れあがり顔からは血が流れている。
「やめて! 違うの、彼は私を庇っているだけなの。悪いのは私。
だからお願い止めて! お願い!!」
和歌は小太郎の元に駆け寄ろうとするも、男につかまり押さえつけられる。
それでも、もがき抜け出そうとするが、非力な力では叶うはずが無い。
「そうでしょうね。彼は本当にあなたを愛しているらしい。よかったですね、和歌さん。嬉しいですか?」
辰巳はこの日初めて和歌の顔を見た。その顔には薄っすらと笑みを浮かべている。それは嘲るような、憐れむような、そんな顔をしていた。
「私はあなたが誰と何をしていようと構いません。その男と密通するならそれでもいい。あなたに興味など、ひとかけらもありませんから。
私が愛するのは生涯ただ一人。珠子さんだけです」
「だったら! それなら放っておいてくれれば良いじゃない。私に興味がないなら、好きにさせてちょうだい」
「あなた達が密かに会っているのは知っていました。そのまま、上手く付き合っていればよかったものを、逃げようなどと考えるからいけないのですよ。
人間、欲のかきすぎはよくありません。あなたにもお仕置きが必要なようだ」
「逃げなければいいの? なら逃げないわ。どこにも行かない。ずっと芸者のまま、今のままで良いから。お願い小太郎を助けて」
「和歌!」
小太郎が男達に押さえつけられながらも、和歌の名を呼んだ。
「頼む、こいつを許してやってくれ。俺が誘ったんだ。俺が全部悪い。だから、こいつを自由にしてやってくれないか。こんな所に落ちるような人間じゃねえのは、お前だってわかってるはずだ。もっと明るい場所で笑ってていい娘なんだ。
だから、頼む。和歌を救ってやってくれ!」
「小太郎……」
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