第33話


 一鶴楼でも冬の支度をし始めた頃、芸者置屋では見受け話が上がっていた。

 若松という芸名を持つ娘だ。


「辰巳さん。これはまた、突然ではありますが。そうですか、若松を。

 辰巳さんのおかげで若松も大分稼がせてはもらいましたが、それでもまだ年季は残っておりますけれども」

「ええ、それはもちろん。耳を揃えてすぐにでも」


「ああ、さすが辰巳様だ。よかったなあ、梅岡。おめでとう。

 で、見受けした後はどのように? 辰巳様は独り身ですし、妾ということもないでしょうし」

「私は生涯妻を娶るつもりはありませんので、そうですねえ。今時で言うなら『恋人』とでも言うんでしょうか?」

「まあ、恋人ですか? 素敵ですわ。本当に良かったわ。ねえ、若松」



 若松と呼ばれる和歌の気持ちなど、誰もかれもお構いなしに話を進める。

 それが芸者の身としての行く末だと知っても、それでも和歌は面白くはない。

 しかし、それを飲まなければならない理由があるのだ。

 元々、屈託なく笑うような娘ではないけれど、今の彼女はいつにも増して頑なに心を閉ざしていた。

 一通りの筋を通し、和歌は辰巳とともに一鶴楼を後にした。

 花見や桔梗に笑顔で見送られ、後ろ髪を引かれることなく芸者の道を抜け、辰巳のものになるのだった。


 ひとつだけ心残りがあるとすれば、かつて肩を並べこの店に入った、自分よりも少し若い少女のことだけだった。



「 ユキ 」




~・~・~



 和歌と小太郎が数年ぶりの顔を合わせた後、ふたりは度々に渡り逢瀬を重ねていた。誰にも気づかれぬよう日を変え、時間を変え、ふたりは互いの想いを積み重ねていった。

 互いを忘れていた時もあった。それでも和歌は初めての肌のぬくもりを忘れることはできなかったし、小太郎も初めて二度、三度と求めた相手だった。


 小太郎は流れ者として定住することもなく、その日暮らしの生活をしていた。

 女衒も頼まれれば仲介をするだけで、それを生業としているわけではなかった。だから、ここ一河に足を踏み入れるのはそこまで多くない。

 そこここに住まわせてくれる女がおり、ふらりと現れては一時面倒をみてもらい、その見返りに彼は自身を差し出し相手を喜ばせる。

 その身を差し出し金に換えるのは、何も女だけではない。男もまた同じようにして金を生み出す。

 彼の場合、そこに矜持はなかった。生きるために、生き抜くための手段がそれであっただけで、彼にとっては特段難しいことではなかった。

 ただ一つ違うのは、遊女として身を落とした者のように、逃げられないわけではないということだ。

 仕事が入れば。飽きれば。面倒になればそのまま、またふらりと姿を消せる。責任のない風のような男だった。

 だが、和歌に出会い、忘れたつもりでも何かのひょうしに思い出してしまう。

 もう一度会いたいと、そんな風に心を惑わされたことなどなかったのに。

 なぜか、和歌は思いだされてしまう。忘れようとしたわけではないが、記憶の隅においやったはずの人間が再び目の前に現れてしまう。


 和歌と小太郎が会うのはたいがい朝早い時間。

 言葉を重ね、情を重ね続けた。まだ薄寒い時期でも朝露は冷たく身に染みる。

連れ込み宿を借りては面倒なことになるし、船に乗り川を渡れぬ和歌のため、毎回小太郎が一河に足を運んでいた


「いつもごめんなさい。あなたばかりに無理をさせてしまって」

「そんなこと心配しなくていい。俺がしたくて、来たくてやってることだ。

 それより、おめえは大丈夫か? 店にばれたらえらいことになるだろう?」


「ええ、大丈夫よ。隣と違って私達には比較的自由が許されているから」

「そうか、ならいい。寒くないか? そろそろ外でこうしているのは無理がある。風邪をひかせちまう」


「いやよ。会えなくなるのは嫌。寒くても良いの。私は平気よ、かまわないわ」

「そうか、そうだな。もう少し、少しだけ我慢して会おう、な」

「ええ、ありがとう」


 大きな岩山の陰でふたりは暖を取るように抱き合い、互いの想いを確かめ合う。すっかり息も白くなり手もかじかみ始めたが、両腕を互いの背に回せば、寒いことを忘れてしまうようだった。




 ふたりが人目を忍び合うようになって何度目のことだろう? 

 冬の足音が聞こえ始め、いい加減外での逢瀬は無理だと感じ始めていた小太郎は、しばらく顔を合わせるだけにしようと思っていた。

 外での蜜時は危険を伴う。今は寒くなり人の動きが鈍くなっているために上手くいっているだけで、いつか見つかってしまう。そのときに、和歌の立場を危ういものにしてしまうことだけは避けたかったから。


「おまえを抱くのはしばらく我慢する。このままじゃ風邪をひかせちまう。

 春になるまでは顔を会わせるだけで我慢しようや。寂しい思いをさせちまうが、耐えてくれ」

「私が嫌になったの?!」


「そんなわけねえだろう。これからも会いに来る。ただ、こんな寒空の下でおめえを抱くわけには行かねえよ。もっとちゃんとした所で、存分に可愛がってやりてえけど、そういうわけにもいかねえから。俺もつれえ。だからお前も我慢してくれ」

「私を離さないなら耐えるわ。会いに来てくれるんでしょう? 絶対よ」

「わかってる、当たり前だろう。離してくれって頼まれても離してやれねえよ」


 小太郎の胸に身体を預けるように抱き着く和歌。無言のまま彼の背に回した腕に力を込めた。寒さを紛らわせるでもなく、逃げられなくするためでもなく、黙ったまま自分を抱きしめてくれと強請るように。


「和歌?」


 いつもと違う様子に小太郎が問いかける。


「私を連れて逃げて。誰でもない。あなたの、あなただけのものになりたい」


 ポツリと呟いた言葉に小太郎は一瞬躊躇するも、すぐに気を取り直し

「俺について来てくれるか?」と問うた。

「ええ、どこまでも」

「苦労させるぞ。今みたいな暮らしはさせられない。お嬢様育ちのおまえには耐えられないだろう。それでも?」

「やってみなくちゃわからないでしょ。武家の娘は気だけは強いのよ。惚れた男を人にくれるほど優しくはないの」

「はは。それでこそ、俺が惚れた女だ」


 小太郎は和歌の唇に舌を這わせ、しゃぶるように接吻をする。

 和歌の着物を着崩さないように、上手に手を滑り込ませ和歌を悦ばせた。

 しばらくは肌を合わせられないとその熱さを体に刻み付けるように、何度も何度も求めあい、ふたりは果てるまで求めあった。


 女はその躰を男に預け、肩で息をしながらそれでも笑みを浮かべ、最後の最後まで肌を合わせ続けていた。

 つうぅと内またをつたう物を気にもせず、女は男に接吻を強請った。

 男の手が女の頭を押さえつけ、女は男の首にしがみつくように力を込める。

 二度と離れぬように、逃げぬようにと女は男に体を擦り付けた。


「そろそろ、俺もまた我慢がならなくなる。このくらいにしようや。

 路銀と舟の用意が出来たらすぐに迎えに来る。それまでの辛抱だ」

「小太郎。すぐ迎えに来てね。約束よ」


「わかってる。俺だって辛れえんだ。わかってくれるな、和歌」

「ええ、小太郎」



 体を離した正太郎、はいつものように和歌を先に帰した。最後まで手をふり、振り返る和歌に応えながら、その目に焼き付けるように見送る小太郎。

 すぐに迎えに来る。それまでの辛抱だ。手と手を取り、二人でこの地から抜け出そう。そう決めてしまえば不思議と心が軽くなるようだった。

和歌は名残惜しそうにしながらも、表通りに出ては消えて行った。


 すると、和歌の姿が消えるとすぐに「きゃ!」と言う微かな声が聞こえ、小太郎は慌てて表通りに飛び出した。

 そこには大きな用心棒のような男に押さえつけられ、抱え込まれている和歌の姿があった。


「てめえら、何してる!!」


 小太郎の声に和歌は振り返り、もごもごと口を動かすが、手で口元を抑えられている彼女は声を出すことができない。


「その娘から手を離せ。その娘は芸者だ、てめえらみたいな奴らがかどわかして良いような娘じゃねえ。わかったら、さっさと手を離せ」


 和歌のそばで立っていた男が小太郎に向かって話しかけた。


「これは、これは。ご挨拶が遅れました、私たちは辰巳様より命を受け、この若松様をお連れするように言われております者。

 あなた様もご一緒にと言うことでございましたので、できれば穏便にしていただけると、こちらも無駄な労力をかけずに済むのですが」

「はっ! 何言ってんだ、誰が付いていくもんか。良いから早くその娘を離せ」

「そうですか、残念ではありますが。では」


 そう言うと男はもう一人の男に目配せをし、小太郎に向かって歩く。

 闇の仕事をすることもある小太郎はいざという時のために、喧嘩の腕も悪くない。だが、それ以上の手腕の男に小太郎はあっという間に伸されてしまった。


「……!」


 口を押えられた和歌は、地面に横たわる小太郎を気遣うように声を上げるが上手く聞き取れない。


「ご心配ですか? なあに、少し気をなくしているだけです。心配はいりません。安心してください」


 小太郎を伸した男は軽々と彼を肩に抱え上げた。


「辰巳様の指示とはいえ、あなた様も暴れられるようですと、この彼と同じようになってしまいますが、いかがされますか? ご自身のおみ足で歩くことも可能ですが」


 和歌は男達を睨みつけながら、後者を選んだ。


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