第32話
ユキは独り言のようにつぶやきながら、話し始める。
「夢で子を産むの。この手に子を抱いて、嬉しくて幸せだと思うのに。
その子がだんだん大きくなっていって、手を引き歩いて、一緒に笑って。
でもね、その子がだんだん消えていくの。手を伸ばしても届かなくて、泣いて叫んでも触れることができなくて。
抱きしめられる時もあった。でも、その子は腕の中で砂になって零れ落ちた。
何度も、何度も、消えていくの。
どうして助けてくれないの? なんで迎えに来てくれないのって泣くの。
それなのに、うちのことをお母ちゃんとは呼んでくれないんだよ。
お母ちゃん助けてとは言わない。うちも、その子の名を呼ぶことがないの。だって、名前がないんだもん。
あの子はきっと、うちを恨んでるよね。助けてあげられなかったうちを、お母ちゃんとは呼んでくれないんだ……。
手を伸ばしたら、この手を取ってくれればいいのに……」
次第に途切れていきながら小さくなる声。ゆっくりと瞼を閉じ、ユキは眠りについていった。
佐平の手を固く握りしめたまま眠ったその手は、寝息とともに次第に力を無くしていく。その手を佐平はもう一度握りなおす。固く、きつく、二度と離れぬように。
目の前に眠るその子を抱きしめてあげたいけれど、ここは遊女屋。
女は遊女で、男は使用人。
男は女を商品として扱い守るのが務め。
女は客に足を開き金を稼ぐのが務め。
ただ、それだけのこと。
それだけのはずなのに……。
佐平はわからないほどに苦しくて、せつなくて、喉の熱さと握りつぶされるような息苦しさを感じ、大きく息を吸う。
「はあっ」と息を吐くと喉の熱さよりも、もっと熱いものが頬をつたう。
守ってやりたいと思っているのに、それができない悔しさと情けなさ。
務めを抜きして、ひとりの男としてそばに居てやりたいという思いが、佐平の胸を埋め尽くしていた。
「ユキ」
眠りについた目の前の彼女に呼びかけ、佐平は握りしめていた手をそっとにぎりなおした。
ユキが目覚めるまでそばにいてやりたいと思う。後で自分が怒られればすむ話だから。目覚めたときに一人でいたらまた泣くかもしれない。
もう、これ以上辛い思いはさせたくないと、佐平は男衆としての務めではなく、目の前の少女を愛する男として思った。
ユキの悪夢はそれからも続き、彼女の奇行は続いていった。
少しずつ蝕まれていく、その心に、体に。彼女は浸食されていく……。
ある時、佐平は花見に呼ばれ座敷に向かった。
そこには花見と桔梗が並び座っていて、佐平はその向かいに座った。
「梅岡はあれから変わりないか?」
「はい。未だに悪い夢を見るとかで、眠ることを怖がります。少しずつ痩せているのも心配です」
「そうか」
花見の声は少しだけ心配気な調子を浮かべていた。
もう少し改善させてやりたいと願う佐平は、話してみようかと思案していたとき、桔梗が口を開いた。
「このまま様子が変わらないようなら、格下の店に下げ渡そうかと思っているんだけどね」
佐平は口に出そうと思っていた言葉を飲み込んだ。もっと労わって欲しいとの願いはむしろ逆効果だ。
「下げ渡しは。でも梅岡は客の受けもいいですし、売り上げも悪くありません。
人がそばにいれば悪い夢を見ないそうで、だからなるべく客を泊まらせるようにしていますし。まだまだ稼げます」
佐平は必死にユキの価値を口にした。
「今はね。今はまだ大丈夫だと思うわ。だからこそよ。だからこそ、これから益々具合が悪くなって、奇行を客に見られでもしたら、その値が下がるもの。
そうなる前に今の高値で下げ渡せば、向こうさんでも大事に扱ってもらえるわ。そうでしょう?」
「ですが……」
佐平は思った以上に悪い話で返事もできなかった。
呼び出された理由はユキの事だとは思っていた。いや、むしろ仕事を抜け気味な自分への叱咤だと思っていたのに。まさかこんな内容だとは。
「もう少し様子を見るつもりだが、少しでも稼ぎが悪くなれば店替えは仕方ねえと思え。お前らもそのつもりで見ておけよ。いいな?」
花見の言葉は絶対だ。今更佐平ごときが何を言ったところで聞いてはもらえないことくらいわかっている。
ならばユキを見張り、これ以上奇行をさせないようにし、客を取らせるほかはない。男として好いた女に客を取らせたくないとの思いが渦巻くが、仕方がない。遊女の店替えはあっても男衆のそれは無いのだから。
佐平は自分の手元から離すつもりは毛頭なかった。ならば、せめてこの店に置いたまま、そばにいることしかできないと悟る。
「はい、わかりました。今以上に客を取らせ、店に貢献させます」
心にもないことを口からつぶやき、思わず眉間にしわをよせる。
「そう。じゃあ、まかせたわよ。売上さえ落ちなきゃ、店は何もいわないからね。頼んだわ」
桔梗の言葉に腹の中で唾を吐き、佐平はその場を後にする。
その足で、部屋で休むユキの元に足を運んだ。彼女は相変わらず窓を開け、外を眺めていた。
「ユキ」
「あ、佐平さん……。どうしたの? ちょっと怖い顔」
「なんでもねえ。それより、もう寒いからいい加減にしとけ。風邪をひくぞ」
「うん、わかった。ごめんね」
佐平が障子を閉め始めると、ユキは火鉢のそばに座った。その彼女の頬を触り「こんなに冷たくして」そういって掻巻をその肩にかけた。
「今もまだ眠りたくないか?」
「うん、そうだね。でも、泊りの客を増やしてくれてるから大丈夫」
「少し痩せてきた。飯は食えてるか?」
「うん。食べてるよ、大丈夫。佐平さんは心配性だから」
そう言って屈託なく笑う目の前の少女は、ひとりのユキ。梅岡ではない。
掻巻ごとユキの背を後ろから抱きしめる佐平。
それなりに長く顔を合わせながらこんなふれあいは初めてで、ユキは驚き動きを止める。でもすぐにその背の温かさを受け入れ、掻巻から手を伸ばし彼の手に触れた。佐平の指に自分の指を触れさせ、わずかなぬくもりを感じている。
それだけで十分だった。肌など触れなくてもわかる想い。
言葉に出さずとも伝わる気持ち。互いを慕う熱。
自然にこぼれる笑み。ふたりにとってそれが答えだった。
この笑顔を見ていたいと願い、佐平は苦汁の選択をするのだった。
男としての欲と我儘を通すことが彼女にとっての苦しさだと知ってもなお、自分の手から離すことなどできなかった。
自分のことだけしか考えていないと罵られようとかまわない。きっとユキも同じ気持ちでいてくれると、何故かそう思えて。
なるべく客を取らせ、夜には泊りの客を宛がうように段取る。
時にそばにいて彼女の手を握り、髪をなでる。
甘い言葉など何ひとつ口には出来ないが、それでもたくさん話をした。
ユキの気が済むまで話を聞き、返事をする。それだけで彼女は満足そうに笑ってくれた。その笑顔が佐平は心から好きだった。
寒い冬を迎える準備を一鶴楼もし始めるころ。
ユキは咳をし始めた。「大丈夫か?医者を呼んだ方が?」との問いにも、大丈夫だとしか答えないが、里では薬など飲んだことはなく頑丈にできているからと。
今まで風邪すらもほとんどひいたことのないユキの言葉に、素直に皆が信じ始めていた。すぐに良くなると、治ると信じて疑わなかった。
「佐平さん」
一人眠るユキの声が、名を持つものに届くことはなかった。
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