第31話


「佐平。ありがとう」


 ユキは佐平を呼ぶときに『さん』付けで呼んでいた。

 遊女として客を取るようになってからは、その立場の違いを知らしめるように佐平と呼び捨てにしている。

 遊女と使用人の男衆。まだ年若い娘たちを守ることを生業にしていても、その身を生かされているのは、彼女たちの働きあってこそだ。

 遊女や女郎と呼ばれ、嫌な客にも笑顔を振りまき足を広げる。

 どれだけの屈辱と辱めを受けているか。

まだ若い娘が捨てた矜持の上で、男衆たちは生きているのだから。

 呼び捨てにし、少しくらい乱暴に扱ったとしても、咎めるものはこの街にはいない。

 最初は頑なに嫌がったユキも、周りから言われ、聞かされ、佐平を始め男衆たちを呼び捨てにするようになった。

 それは、遊女として身を晒す自分への切り替えなのかもしれない。

 ユキが佐平と呼び捨てにする時は、遊女としての梅岡になっている時だから。


 ユキが最後に言った「佐平」は、すなわち遊女の梅岡に戻ってしまったことに違いない。

 佐平はユキの心の覚悟と危うさを感じ、かける言葉を無くしてしまった。

 言いたいことは山のようにある。でも、頑なに心を閉ざし始めたユキに届かない気がして、その言葉をぐっと飲みこんだ。



 それから二日後。ユキは客を取るために客引きの店前に顔を並べていた。

 ユキは部屋を与えられるほどに人気のある遊女だった。

 店に出てから月日を重ねても垢抜けることのない、その独特な田舎臭さが安心するのかもしれない。多くの遊女は着飾り、女としての体や仕草を武器に客の気を引こうとする。だがユキは、まだ幼さの残る雰囲気のままにその身をゆだねる。大人しく我儘を言わぬその姿は、男たちの庇護欲を誘うのかもしれない。

 怪我をして仕事に復帰した後の彼女は、今までの幼さに加え、どこか愁いに満ちた表情をするようになり、少女から大人の女性に変化しようとしているようだった。その一瞬を逃さぬようにと、ユキの客は途切れることを知らない。

 

「梅岡。もう体は良いのか? 怪我をしたって聞いて心配していたんだ」

「佐伯様、心配していただいてありがとうございます。もう大丈夫です。

 今日はお泊りいただけますか? うちを抱いて眠ってくれますか?」


 客に買われ腕を組んで部屋に向かうユキ。その手は男の腕にしっかりと回され、離れぬように強く握られる。

 夜を共にと乞われ、客はその気になり宿泊を告げる。それを聞き、お高や使用人たちは準備に入る。時間で買う者よりも宿泊の方が金の入りが良い。

 店側は「よくやった」と顔をほころばせ、甲斐甲斐しく世話をし始める。


「梅岡に頼まれたら嫌とは言えないな」

「佐伯様。今日は思いっきり甘えさせてくださいね」


 背の低いユキが客を見上げるようにほほ笑む。だが、その笑顔は少し前の少女のそれではない。恥じらいを無くし、代わりに手にした悲しみと諦め。それと少しばかりの希望。

 まだ十七のユキにも娘らしい夢がある。叶わないと知りつつも、捨てきれずにいる女としての淡い期待。


 客との偽装の恋ではなく、本当の恋を。

 わずかしか思いのこもっていない賛辞よりも、只ひと言の優しさを。

 数え切れぬほどの肌のぬくもりよりも、手をつないだ温かさを。


 普通の、本当に普通の少女のような人生を送れたら。ごく当たり前の願いがこの街ではとても難しい。それを知ってしまったら、もう上手くは笑えない。

 少女が少女ではいられなくなってしまっていた。



 翌朝、宿泊した客を玄関まで見送ったユキに桔梗が声をかける。


「梅岡。最近、一段と客足が良いようだね。怪我をしたときはどうしようかと思ったけど、何もなくて良かったわ。何か褒美をやろうね、何が良い?」

 

 桔梗は満足そうな笑みでユキに話しかける。その姿は優しさを滲ませているようで、実は商人としての思惑を秘めている。

 今一番勢いに乗っている遊女に旨い蜜を吸わせ、調子に乗らせる。

 若い娘に流行りの簪ひとつでも買い与えれば、もっと客を取り店のために働くはずだと、それくらいにしか思っていないのだ。


「欲しいものは無いです。今のままで大丈夫です」


 疲れたように気だるい雰囲気を纏ったユキは、梅岡のままに答えた。


「そうかい? なら、何か甘い物でも差し入れしようね。食べておくれ」

「あ! それなら、栗が……。栗が食べたいです」


「栗? ああ、お前の里は栗が取れるんだったね。ちょうど栗の時期だ。

 里の栗は無理でも、用意しようね。待っていてちょうだい」


 桔梗は薄っすらと笑みを浮かべユキの前から去っていた。

 安く上がったと喜んでの笑みかもしれない。それでもユキは嬉しかった。

 この地に来てもう数年。栗を口にしてはいなかったから。

 里にいた頃、栗を取りにみんなで山に入っていた。

栗のイガは藁で編んだ草履では、突き抜けて足に刺さってしまう。

 栗拾いの時は木で作った下駄を履き、足で殻を割る。そして竹を割いて作った箸で栗を取る。大きくて形の良いものは行商人に売り、小さく形の悪い物や虫食いを自分たちで食べる。鍋で湯で、それを包丁で二つに割ってほじるように食べたり、力のある父が包丁で皮をむき、あま皮を母が剥き栗ご飯にしたりした。

 ほのかに甘く香りの良い栗は、それだけで御馳走だ。

 甘い物などめったに口にできない子らの、贅沢なおやつだった。

 それは、素朴で純朴なユキそのもの。


 だが、桔梗から届けられた栗はユキが想像していた物とはまったくの別物で、栗を餡で包んだ饅頭だった。ならばせめて栗だけでもと饅頭から取り出しても、それは砂糖で甘く煮た物で、本来の栗の味も香りも消し去っていた。


「佐平。これ、皆に配ってくれる?」

「え? 食べないのか? だって、おまえ栗が食べたいって」


「うん。でも、いらない。栗の味がしないから。もういらない」

「ああ、そうだな。饅頭じゃ、おめえの言う栗じゃないか。わかった、欲しいやつにくれてくる」

「ありがとう」


 自分の部屋の窓から外をながめたまま、櫛で髪を梳いていた。

 ここに来る前に買ってもらったという柘植の櫛。何かあるたびにその櫛で髪を梳き、大事そうに懐にしまう。なんの飾りもない、商品としては最低品位の粗末なものだ。今はもっと豪華できらびやかな櫛も簪も持っているというのに、ユキは常に胸にしまい、それで髪を梳くのだった。


「ユキ。まだ眠れねえのか?」

「眠れないわけじゃないよ。見たくない夢を見るから眠りたくないだけ。

 でも、誰かが隣にいる時は見ないの。不思議だけど。

 だから、なるべく客は泊りにしたいから、そのつもりでいてちょうだい」


 子を流してからユキは寝覚めが悪かった。悪い夢を……、見たくない夢を見るからと眠ることを嫌がり、一人で眠ることを怖がった。

 怪我をして休んでいた時から眠りたくないと訴え、食欲も落ち青白い顔を晒していた。それでも少しずつ改善している風ではあったが、それは本人が我慢をしていたに過ぎなかったのだろう。

 夜中に悲鳴を上げて目を覚まし、男衆の手を煩わせたこともあった。

 眠れない体は次第に悲鳴を上げ、奇行を繰り返すようになっていく。

 眠りたくないからと夜中に歌を歌ったり、突然泣いたかと思えば声を上げて笑いだしたりする。産むことを望んだ子を流したことの衝撃の大きさだと、周りは理解を示してはくれていた。時間がきっと解決してくれると。

 不思議なもので、客の前では奇行を起こすことはなく、むしろ寂しげにする様子が庇護欲をそそるのだろう、受けは良かった。


「まだ時間がある。手を握ってやるから、少し眠るか?」

「うん。そうだね」


 ユキは床に横になると、横を向いて窓の外を眺めていた。

 佐平はユキの手を握り、頭を撫でながらユキの眠りを誘う


「寒くないか?」

「うん、大丈夫」


 佐平はユキに掻い巻きをかけ、暖を取らす。


「うちの里は、もう少しすると冬の準備をするの。正月前には雪が降るから。

 年が明けると雪が深くなって、一番寒くなるんだ。

 うちはね、その頃に産まれたんだって。雪が一晩中降ってる夜に産まれたから名前がユキなの。簡単でしょう?笑っちゃうよね」

「綺麗な名前だ。雪のように白くて綺麗な。良い名前だよ」


「そうかな? 良い名前かな?」

「ああ、美しい名前だと思う」


「そっか、少しは考えて、思ってつけてくれたのかな?」

「当たり前だろう。子を思わない親はいねえよ。幸せを願ってつけた名だ」


「うん、そうだね」

「ああ、そうだ」




「うち、お腹の子に名前もつけてあげられなかった……」


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