第30話


 明け方近く。ここ花街の朝は遅い、陽がさし始めても人の目は覚めない。

 ユキが眠る座敷の前で床に座り夜を明かした佐平は、目の前の部屋の中から物音を聞き慌てて飛び起きた。

 ゆっくり襖を開け「ユキ」と声をかければ、「佐平さん?」と聞きなれた声で返事が返ってきた。

 佐平はほっとして静かに部屋に入り、ユキの隣に腰を下ろした。


「具合はどうだ? 体は痛むか?」


 ぼんやりと瞳を開けるユキの視線は焦点が合ってはいなかった。

 ユキの頭に手を置き「まだ早い。もう少し寝ていろ」と声をかけた。

 痛くないならそれでいいと、佐平はユキの頭を撫で続けた。

 ユキの瞼はすぐに閉じられ、そのまま寝息を立てて再び眠りについた。

 それを確認すると、佐平は厠に行こうと部屋を後にする。

 廊下の先でお高に出くわし、「さっき一瞬目を覚ましましたが、すぐにまた寝ました」と伝えると「そう、行ってみるわ。あんたも少し休みなさい」言われて急に疲れを思い出し、佐平は少しだけ布団の上で眠ることにした。

 


 佐平と入れ替わるようにユキの元に向かったお高は、彼女の足元に立ちその寝顔を眺めていた。表情を消しぼんやりと見つめるその視線は、宙を浮き実態をとらえてはいないように見えた。

 かつて遊女として現役だった自分と、目の前で眠るその娘を重ねているのかもしれない。


 かつて『高藤』と呼ばれ、切れ長の目に上背の高いその姿は、他の娘らしい遊女と違い毛色の違った者を好む客から人気が高かった。

 花見の妻である桔梗と時期が被り、二人でこの一鶴楼を盛り立てた時代もあった。だが、今はそれも昔話しだ。

 結局、身請けをしてくれる者に出会う事のないままに、年季が明ける前に格下の店へと下げられる予定だった。可愛げのない自分ではそれも運命だと受け入れ、金子の安い店に鞍替えすると思った時、桔梗に声をかけられた。

 当時、すでに花見の妻として一鶴楼の切り盛りを手伝っていた桔梗に、一緒に店を手伝わないかと言われ、二つ返事で承諾をした。

 表舞台に出ることなどないとわかっている。だが歳も重ね、これ以上客を取ることに身体の負担を感じていた身としては、願ってもない話だった。

 裏方の仕事でもなんでも良いと思い、尽くす覚悟で引き受けた。

だが、結局任される仕事は「汚れ仕事」ばかりであった。

 誰にでも良い顔をしたい桔梗の裏で、汚い事にも手を染め、やりたくない仕事を彼女は引き受け続けてきた。


 ユキが階段を落ちたのは、お高が上手く肩をぶつけたことによるものだ。

 あの日、仲の良い佐平の説得で頷いてくれればと願い、ユキの元に向かわせた。彼女だって無謀なことをしたくはない。できるなら医者の手で安全に処置出来たなら、身体の負担も少なくてすむのだから。これから先の人生で、再び妊娠を望むこともあるかもしれない。無理な堕胎は身体への負担も大きい。二度と子が産めぬ身体になることもあるかもしれない。せめてそうならないようにしてやりたいと思う。

 だが、店側は違う。花見も桔梗も、ここにいる娘たちを人間としては見ていない。ただの商品であり人形でしかない。

 今までも、何度ユキのように嫌がる娘たちの腹の命を葬ってきたかわからない。主の指示とはいえ、自分が生きる為とはいえ、罪悪感がないわけではない。

 できるならやりたく無いと思うだけで、現実にはそれを拒むことはできない。


「このまま目を覚まさなければいいのに」


 自分の娘と呼んでもおかしくない歳頃の娘たちの未来を思わない日はない。

 腹を痛めて子を産んだことは無くても、同じ経験をしてきた身としてはこの店を出た後の彼女たちの将来も憂いていた。

 年季が明けたところで身請けする人間がいなければ、彼女たちはたった一人で町に放り出されてしまう。

 仕事先を斡旋したところで、幼い頃から身を売る事だけしかしてこなかった子に、世間一般の仕事がこなせるはずが無い。

 ここに居れば、ただ客を相手にしているだけで食う物にも困らず、住む場所もある。それに遊女をしていた話は尾ひれをつけて彼女たちの周りを包囲し、暗い色に染め上げていくだろう。

 少しでも幸せになればいい、なって欲しいと願いながら、お高はユキの髪を撫でた。


 

 その日の夕方近く、目を覚ましたユキはお高に手伝ってもらい床の上に身を起こしていた。医者にも三日は様子を見ろと言われている。明日も様子を見るよう言われ、ユキは大人しく頷いた。


「腹の子は……」


 幼さの残る薄い腹に手を当て、ぽつりとつぶやいた。

 

「ダメだったよ。だが、これで良いんだ。産んだ所で生かしてもらえるかもわからない命だ。この世の光を見ることなく散った方が、未練も残らないさ」


 お高はユキの手に薬の入った湯呑を持たせ、そう答えた。


「はい」


 あれだけ子おろしを嫌がっていたのに、ユキは諦めたかのように大人しく頷いた。

 お高の勘が危険を訴える。今まで何人このような娘を相手にしてきたかわからない。その時の経験が危ないと訴えてくる。


 この子は覚悟を決めたかもしれない


 今はまだ体も痛むだろうし、人の目がある。悪いことはしないだろう。だが、元に戻り一人になればわからない。腹をくくった人間は、迷うことをしない。

 お高は夕飯の支度をするためにユキの元を離れると、佐平を探した。


「佐平。梅岡は最悪のことを考えているかもしれない。なるべく目を離さないようにするんだ。いいね」


 突然呼び止められ小声で話しかけられた佐平は、ユキの状態を聞き、驚きを隠せなかった。


「どういうことですか? ユキは? 梅岡は?」

「私の気のせいで終わればそれが一番いいんだ。ただ、すこしばかり気になったからね。体の様子を見て、大丈夫そうならすぐに客を取らせるよ。そうなれば人の目があるからね、大丈夫だと思うけど」


 腕を組み佐平に話す顔は真剣で、冗談を言っているとは思えなかった。

 

「わかりました。俺も気を付けて見るようにします」

「頼んだよ。客が取れないとなったら格下に下げ渡されるかもしれない。

 そうならないためにも、あの子を守っておやり」


「お高さん……」

「なんだい? 気が付いてないとでも思ったのか? みんな知ってるよ。知ってて、お前は下手な真似をしないと思ってるってことだよ。男としてそれが良いかはわからないけどね」


 お高は佐平の肩をポンと叩くと仕事に戻った。

 男として……。使用人として信頼をされている。けれど、男としての度胸がないと、そう言われ返す言葉が浮かばなかった。

 自分もユキも、いま仕事を失うわけにはいかない。自分の事ではなく、彼女を守るためにどんなことも受け入れると決めた。

 男として不甲斐ない、根性なしだと笑われても構わない。

 ユキを守り抜くと決めた佐平の覚悟もまた、揺るぐことのない強いものだった。



「ユキ?」


 佐平は少しだけ襖を開け、ユキが休む座敷を覗き込んだ。


「佐平さん」


 ユキは横になっていたが、佐平の顔を見ると起き上がり微かに口角を上げ笑っていた。

 

「目が覚めたって聞いて。どうだ? 体は痛むか?」


 ゆっくり首を横に振ったユキの顔は白く、血の気を感じさせなかった。


「顔色が悪い。食えるならいっぱい食って、元気にならんとな」

「うん、ありがとう。もう大丈夫だから、心配してくれてありがとう。

 お店はどう? お客さんは?」


「店の事は大丈夫だ。今は自分の体を一番に考えてゆっくり休むんだ」

「佐平さん。ありがとう」


 膝の上に置かれたユキの手を取り、佐平は両手で握りしめた。


「冷てえ。寒くねえか? おめえはもっと我儘を言っていいんだ。

 これからは何かあったらすぐに俺に言え。守ってやるから」


 佐平の言葉にユキは顔を上げ、その瞳を覗き込んだ。

 その顔は穏やかな笑みで満ちているようで、佐平は少しだけ安堵した。

 しかしその後のユキの言葉を聞き、佐平は殴られたように思いを沈ませた。




「佐平。ありがとう」


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