第29話
「ユキ!!」
佐平が伸ばした手がユキに触れることなく、彼女は階段を転げるように落ちていった。お高と肩をぶつけた後体制を崩したユキは、身体を斜めにしたまま一瞬宙に浮くようにその身をゆだねていた。
まるで諦めと、そうなることが運命だったのだと受け入れるように。
急ぎ駆けつけた佐平が見た時には、彼女はすでに階段に体を打ち付けた後で、一段一段転がる様に下まで落ちている途中だった。
「キャー!」と、遊女たちの悲鳴が耳に響くが、肝心のユキの声が聞こえない。
身体を打ちつけるように落ち続けるユキを追いかけ、佐平も階段を駆け下りた。そして、最下まで落ちたユキに手を伸ばす。
「ユキ」
表玄関の斜め前に構える立派な階段。
佐平は床で横向きになり倒れるユキに、そっと手を伸ばす。
「ユキ」と呼んでも目を開けることなく、返事もしない。
佐平はそっとユキの肩を揺するも、反応はなかった。
あの落ち方からして骨に異常はないように思えるが、それでも身体を打ち付け痛いはずだ。佐平はそっとユキの下に腕を差し込み、ゆっくりと抱きかかえた。
「佐平。こちらに」
名を呼ばれ振り向けば、そこには桔梗が立っていた。お高も階段を降りて来て、佐平の背に手を回すと桔梗について行くよう促した。
「さあさあ、見世物じゃないよ。梅岡が足を踏み外して階段を落ちちまった。
皆も気をつけるんだ。さすがに大事を取って今日は休ませるからね。
梅岡の分まで気張って働くんだよ!」
お高が遠巻きに見守っていた遊女や男衆に声をかけた。
昼過ぎの時間帯。ぽつぽつと起き始めた遊女が身支度のために動き始めた頃だった。心配そうにしている者も、これ幸いにと客引きに力を入れようと思う者と様々だが、お高の声に異を唱える者は一人もいなかった。
佐平はユキを抱きかかえながら、桔梗に誘導され奥の座敷へと向かった。
後からついてきたお高が急いで布団を敷くと、ユキを寝かすよう言われる。
ユキは気を失ったまま目を覚ます気配がない。
「お高さん、俺」
「大丈夫、何も心配しなくていいから。お前は急いで医者を呼んできておくれ」
お高に言われ黙って頷いた。佐平は立ち上がり急いで医者に向かう途中、
「ユキの子はこれが元で流れるからね。お前もそのつもりで、いいね」
佐平は桔梗にそっと耳打ちをされた。一瞬、理解が出来ずに呆然としていると「早く迎えに行って来な」そう言われ走ってその場を後にした。
花街の医者は何でも診る。内臓も、怪我も、そして産婆の代わりすらも。
医者の元に息を切らし駆けつけると、状況を聞かれありのままを話して聞かせた。
「子おろしの話をしたら、急に走って逃げだして。それで階段を落ちてしまったんです。そのまま気を失って、まだ目覚めません」
その話を聞いた医者は「なるほど」と一言。
「花見さんは何と?」
「花見の親方はまだ。桔梗さんはこれが元で流れるって。まだ診てもらってもいないのに。腹の子はどうなったんでしょう?」
「どうもこうも無いだろう。主が流れたと言うなら、流れた。それだけだ」
医者は助手に荷物の支持を出すと、往診のために一鶴楼に向かった。
思っていた以上の大荷物で、佐平が荷物持ちとして後に続く。
一鶴楼では未だ目を覚まさぬユキが横になっていた。
何も言わずとも阿吽の呼吸でわかっているのだろう。眠ったままのユキを囲み手際よく道具を並べ始める。
「先に始末をしますよ。目が覚めて暴れても困りますからね」
医者の言葉に桔梗とお高は頷き、
「佐平。お前は呼ぶまで向こうで待ってな。目が覚めた時にひと暴れするかもしれないからね。そうしたら押さえつけるんだ。わかったね」
佐平はお高の言葉に無言で頷き、座敷を出るとそのまま襖を閉めた。
佐平は先ほどの桔梗の言葉がやっと理解できた。これから堕胎処置をするのだと。流れていてもいなくても、ユキの腹の子はこうなる運命だったんだ。
佐平は不思議な思いだった。ユキが悲しむことを想像しながらも、ほっとする自分がいた。良かったと思う気持ちが強く、非常な男だと苦笑いがこぼれた。
ユキはまた、誰のものでもなくなった
そんな思いが彼の中を駆け巡る。
しばらく廊下の端で奥座敷を見ながら待っていると、襖が開きお高が顔を覗かせて手招きをする。急いで駆け寄ると、医師の診察が終わったから荷物を持って送るようにいわれた。
襖の隙間から覗くと、ユキはまだ眠ったままだった。
「ユキは?」
佐平の問いに医者が答える。
「痛み止めを口に含ませたからね、まだしばらくは目覚めないと思うよ。
さあ、悪いが荷物を持っておくれ。客を待たせたままだ」
佐平は来た時と同じように風呂敷に包まれた大荷物を抱え、医者とその助手の後を付いて歩いた。
道中、佐平は何気に言葉を口にする。返事など期待せずに。
「ユキは大丈夫でしょうか」
「骨は無事だ。打撲があるから、しばらくは痛みもあるし後も残るだろうな。
二、三日は無理をしない方が良いが、その後は客を取れるだろう」
「そうですか」
大したことが無く良かったと喜ぶべきだろうが、何故か佐平は素直に喜ぶことが出来ず、顔色を変えずに生返事をするのだった。
「惚れた女を心配するのは構わないが、手を出していい相手じゃないだろう?
店のもんに手を出すのはご法度だ。わかってるなら、それ以上顔に出すな。
おめえも痛い目を見たいんか?」
「は?」
佐平は医者の言葉に思わず聞き返した。そんなことは無いと、無いと言いたいのに、何故か大きな声で言いきれない自分がいるのだ。
女を好きになったことなどない佐平は、その言葉の意味が上手く理解出来ずにいた。
「なんだ、無自覚か? まあ、まだ若い。そばに居れば気持ちが深くなることもあるだろうよ。遊女と男衆の話はこの街じゃ珍しくも無いからな。
だが、たとえ惚れた女でもここでは商品だ。あの子らのお陰で俺たちは、暖かい飯を食わしてもらってるんだからな。おめえごときじゃ、あの子を守り切れるわけがないんだ。悪いことは言わん、諦めろ」
佐平の前を歩く医者は淡々と話している。自分のことを言われているのに、どこか他人ごとのように感じてしまう自分がいる。
妹の代わりだと思っていたけれど、彼の胸の内はまだ覚悟が足りずにいた。
荷物を届け医者を無事に送り届けると、佐平は急いで店に戻った。
「何かあればいつでも呼ぶように」その言葉を預かり、走るのだった。
急いで一鶴楼に戻ると、ユキはまだ眠ったままだった。
「今日は様子見で、店を休ますからね」お高の言葉にうなずき、佐平は後ろ髪を引かれながら仕事場に戻った。
時折こっそり覗くが、ユキは眠り続けている。
店も客が引け、後は泊まりの客を残すのみになった頃。佐平はユキが眠る奥座敷へと向かった。襖を開け中を覗くと、ユキはまだ眠っていた。
少しだけ寝返りを打ったのだろう、布団にしわが入り顔の位置も変わっていた。良かった、無事だったと安堵した。
人形のように身じろぎひとつせずに眠り続けるユキに、佐平は恐怖を感じていたのだ。このまま目覚めなかったらどうしようと。しかし、寝返りを打てるなら大丈夫そうだとほっと息を吐き、静かに襖を閉めた。
そして、その晩はユキが眠る座敷の前の廊下に座り、夜を明かすのだった。
目が覚めて気が付いた時に誰もいないのは不安だろうから。一番に自分がかけつけられるように。
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