第37話
一河の地に冬が訪れる頃。辰巳の願いでひっそりと和歌は身請けをされ、一鶴楼を後にした。
共にこの世界に足入れをしたユキの知らぬことだった。
その頃、ユキは眠れぬ身体に鞭打つように客を取り、金を稼いでいた。
一人になる事を恐れるために、辛いとはむしろ思わずに。
そして、ゆっくりと彼女の身体を蝕むようにそれは浸食していった。
ユキは止まらぬ咳に、色々なものを試してみる。痰切飴や花梨の砂糖漬など、良いと聞けば試してみたが効果はどれもパッとしなかった。
微熱も続き、ついに血痰を吐く。恐ろしく思うけれど、それよりも客を取らなければとの思いでユキはそれを隠し、客を取り続ける。
だが、ついに見つかる時が来てしまった。
店に出る前の早夕飯の時間。その頃になると食欲もなく、呼ばれなければ部屋から出ようとしなかった。
見習い遊女に呼ばれ向かう途中、突然咳込みうずくまるように背を丸め、ユキは苦しそうに咳をしていた。
口元を着物の袖で隠し咳をしていたその顔をゆっくりと上げると、着物の袖口に鮮血がこびりつき、彼女の口元も赤く血塗られていた。
それを見た見習い遊女が「ひぃ!」と悲鳴を上げ、お高や佐平が駆け寄る。
「ユキ!」。
咄嗟に佐平がユキを背で隠し、庇うようにその姿をさえぎる。
お高もその鮮血を見て一瞬驚いてはいたが、「奥の部屋に連れて行きな」と、佐平に指示を出し収束をはかった。
「いつからだい?」
かつてユキが豊川の死に水を取った奥の小部屋。ここに送られると言うことはそう言うことなのだろうとユキは悟る。
「血を吐いたのは少し前くらいから」
「そうかい。今、佐平に医者を頼んだ。ちゃんと診てもらって養生するんだ。
いいね」
こくりと素直に頷くユキ。
その後、医者の診たてで結核と診断された。不治の病と恐れられ、感染することから隔離を余儀なくされる病。
特効薬などあるはずもなく、気休め程度の薬を出され後は養生するしかない。
「梅岡が結核を患ったって? やっぱりあの時格下の店に売っちまえばよかった。とんだ疫病神だよ、まったく」
「店の者には箝口令を引いておけ。直接見たって言う見習いにもよく言ってきかせておくんだ」
「はい。それはもちろん」
座敷では花見と桔梗、お高の三人がユキについて話し合っていた。
「今、ここから動かすのは人目があります。いざとなれば薬で」
お高が伏し目がちに口にする。
それを聞いて、花見と桔梗は顔を見合わせ「そうだな」と答えるのだった。
「今までの娘たちを見ていても半年持った子はおりませんから、この冬を耐えられるかどうか? あの娘はこの店に十分貢献してくれました」
お高の言葉が宙を舞い、誰も言葉を発そうとはしなかった。
結核の人間を置いておいて、良いことなど一欠けらも無い。むしろ悪しかない。
それでも病の人間を預かってくれる場所などあるはずもなく、追い出そうにも顔の知れた売れっ子遊女はどこにも行くことが出来ない。
結局、損を承知で店が最後を看取る他はないのだ。
「一緒に入った若松は金持ちの旦那に身請けされたっていうのに、こっちはとんだ貧乏くじだったね。
お高。後は頼んだから、精々早く始末できるようにしておくれ」
桔梗は煙管の灰を火鉢にポンッと捨てた。
「ま、恨まれてもたまったもんじゃねえからな。その辺は上手い事してやれ」
桔梗と花見の言葉にうなずくと、
「あの子の面倒は佐平にやらせようと思います。喜んで引き受けてくれるはずですから。佐平にうつったらうつったで、暇を出せば良いだけです」
「あんたも、相当悪いことを思いつくねえ。そうだね、それが良いよ。
あの二人、いい仲なんだろう? 死なばもろともだ、丁度いいじゃないか。
下手に心中されるより、よっぽどいいよ。お高、良い事思いついたね」
口角を上げニヤリと笑う桔梗の顔は、心根が表情に現れていた。醜く歪んだその顔を見て、お高は反吐が出る思いをかみ殺していた。
医者の送り迎えを済ませ戻った佐平を呼びつけ、お高がユキの話を聞かせる。
「あの子、結核だったよ」
「結核?」
「私もここにいて何人か見て来たが、助かった者は一人もいない。薬もないし、後は本人の寿命を待つしかないんだ」
「そ、そんな……。なんとかならないんですか? だって、まだあいつは十七でしかないのに。そんなこと」
「確か冬が生れ月だって言ってたね。十八になるまで持つかどうか? 気候の良い、空気の綺麗な所ならあるいは……。だが、ここを動かすのは人の目があるから出来ないよ。あの子の為にも、せめて穏やかに終わらせてやろうじゃないか。
佐平、悪いがあの子の面倒をお前が頼まれてやってくれないか?」
お高は佐平の目を見て問いかける。答えなど決まっているのに。
「わかりました。俺にやらせてもらえること、感謝します。
ありがとう、お高さん」
お高は薄っすらと笑みを浮かべ、佐平の肩に手を置き、「頼んだよ」とその場を後にした。
一人残された佐平は、体を震わせ走り出した。裏口近くまで来ると、膝を抱えしゃがみ込んで一人むせび泣く。
どうして? どうして? と心の中で繰り返しても、誰もその答えをくれはしない。声を上げずに泣くその喉は、熱く苦しい。それでも誰にも見つからずに大きな体を隠すように、少しでも楽になりたくて泣き続ける。
代われるものなら代わってやりたいと願っても、どうにもならずに一層切なくなるだけだった。
佐平は泣くだけ泣いて着物の袖で目元を拭うと、ゆっくりと立ち上がり大きく息を吸った。こんな所で泣いていたって何も変わらない。
一人でいるのを嫌がるユキのそばに行き、笑うのが自分の役目だと覚悟を決めるのだった。
「ユキ?」
奥の小部屋の前で佐平は声をかける。
「佐平さん?」
中からユキの声が聞こえ、佐平は少しだけほっとした。
これからはユキに悟られぬよう、明るく振る舞おうと決意を新たにし、部屋の前で無理に笑ってみた。きっと引き攣っているに違いない。
それでも笑い続けると決めたのだから、と。佐平は明るい様子で襖を開けた。
「ユキ、晩飯だ」
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