第26話


 同じ日、同じ時に皆と花火を見たユキは、始めて見たその美しさが忘れられず、しばらくの間佐平や他の遊女を捕まえては綺麗だったと話して聞かせていた。

「綺麗だった」「雷は嫌いだけど、花見の音は平気」「忘れられない、もう一度見たい」と何度も同じ話をし、そして最後には「でもね、里で見た蛍の小さな光も綺麗なんよ。皆にもあれを見せてあげたい」と話して聞かせるのだった。

 それを聞きながら佐平は、そんなささやかな夢を叶えてやりたいと願った。



 花街の日常は変わらない。変わるとすれば、店に顔を出す客が違うだけ。

 与えられた仕事が普通と違うだけで、彼女達の日常は町の娘たちとも変わらない。同じように時を重ねていくだけ。



そうして月日は流れ。

ユキは十七になり、和歌は十九を迎えようとしていた。

 代り映えのしない日常の中。同じ花見の下で働きながら、遊女と芸者では身を置く立ち位置が違う。直接顔を合せることはないけれど、内と外とでその存在を確かめることは出来た。

 お座敷に呼ばれた行き帰り、和歌が町なかを歩いて回る時に、遊女屋の中からユキの姿を見ることがある。

 互いの存在に気が付けば、微笑み手を振ったりもしてみせた。

 毎日、毎回ではないけれど、時折見るその姿で互いに元気でいることを確かめあっていた。

 隣に並び身を寄せ合いながら花見の前で頭を下げた二人は、お互い幸せになりたいと願っていた。無理ならば、せめて相手だけでも幸せになれるようにと願い続ける。


 それなのに、運命とはどうして悪戯に少女たちを翻弄するのだろうか。




 それは突然だった。

 ある日、いつものように和歌が自分の部屋から町を見下ろしていた時の事。

 芸者置屋の二階に部屋を持つ和歌は、座敷に出る身支度をする前に、部屋の窓から花街を見下ろすのを日課にしていた。

 よく晴れた日には、自分で洗った手ぬぐいを窓辺に干したりしながら、行きかう人を眺めたり、灯りゆく提灯の灯りを眺めたりしていた。

 そんな時、今自分がいる置屋の隣から人の出入りが目に入る。

 ふと視線を下ろせば、花見のいる本家から出て来る男の姿があった。


 ぼんやりと眺めていた和歌の心臓は「ドクン」と音を立てて動き出す。

 忘れていた。忘れるように、忘れなければと思い、思い出すことを禁じていた、その人の姿がそこにはあった。

 

「小太郎!」


 和歌は夢中で部屋を飛び出し、置屋の前を通り過ぎようとする小太郎に向かって駆け出していた。

 階段を転げるようにおり、草履を履くことすらも忘れて裸足で外に飛び出そうとする。だが、それを玄関そばで見張りのように外仕事をしていた男衆に呼び止められる。「若松! どうした?」その言葉にハッと我に返ると、何でもないとしどろもどろに言い訳をし、すごすごと部屋に引き下がっていくしかなかった。


 急ぎ部屋に戻ると、再び窓辺に座り外を眺める。

せめてもう一目、後ろ姿でもいいからもう一度見たいと願いながら。

 どこ?どこにいるの?と、視線をさ迷わせると、少し離れた木の陰に隠れるようにして小太郎が立ち、こちらを見ている。

 まさか彼も自分に気が付いてくれたのか?と、喜びで胸がいっぱいになる。

 窓から大きく手を振り合図を送ると、最初から気が付いていたのだろう、向こうも小さく手を振ってくれた。それだけで和歌の心は熱くなった。

 二度と会えないと思っていた人がいた。その瞳に自分を映し、手まで振ってくれている。それだけで少女の胸は熱くなった。

 小太郎はあの時よりも少し痩せてはいるが、以前よりももっと落ち着いた風であり、男前を上げているようだった。

 初めて会い、身体を合わせたあの日から何年も経っている。

 忘れられてもおかしくないのに、覚えていてくれた。それが嬉しくて和歌の頬は自然に緩んでしまう。


 声など届く距離ではないし、大きな声を上げれば周りに気付かれてしまう。

 二人はただ見つめ合うだけで、声を聞くことも、指を絡ませることも出来ないまま口惜しい時間を過ごしていた。


「若松。そろそろ支度をしてちょうだい」


 和歌の背から姉芸者の声がする。「は、はい!」と慌てて振り返り、咄嗟に窓を隠そうとする。その慌てた姿が気になったのか、「何?面白い物でもいた?」と、姉芸者はつかつかと近寄り窓から外を覗き込む。

「あ!」と隠す間もなく隣に立った彼女は、「なんだ、何もないじゃない。早くしなさいね、時間がないわよ」そう言うと「ピシャリ」と障子を閉め部屋を出て行くのだった。

 「ほっ」とするのも束の間、急いで障子を開けて外を見るも、もうそこに小太郎の姿は無かった。

 やっと見つけたその姿はあっと言う間に消えてしまった。

 でもこれで良いんだ。仕方ないのだと言い聞かせ、和歌は座敷に出る支度をし始めた。



 姉芸者や荷物持ちの男衆と共にお座敷を終えた帰り道、他愛もない話をしながら置屋に向かって歩いていた。

 昼間の小太郎のことを思い出しながら、皆の輪から少しだけ遅れて和歌が歩いていると、突然肩に『ドン』と衝撃を感じた。

 両手で抱えていた手荷物が地面に落ちると、「あ!」「すいやせん。酒で足がふらついちまって。申し訳ねえ」と、ぶつかり合った二人が同時に声を上げた。

 しゃがんで荷物を拾おうと二人同時に膝を折り顔が近づいた。すると、

「明日、裏の祠で待ってるそうです」と、微かに聞こえる声が耳元にささやかれた。慌てて顔を上げ男の顔を見るも、知らぬ顔。

 男は何事もなかったように「いやぁ、こんな綺麗な芸者さんと肩を合わせられるなんて運がいい。どうも、申し訳なかったですね。じゃ」と言ってそそくさと去って行った。

 「若松、大丈夫だった? なんだか調子の良い男だったけど、あんた何か盗まれてないかい?」

 心配して声をかけてくれる姉芸者に、

「ちょっとぼんやりしていて。手提げの荷物は出ていないから大丈夫です。心配かけました」とほほ笑んで見せた。

 「そう、ならいいけど。あんたは意外に抜けてるところがあるからね。さ、私の横にお並び、一緒に戻ろう」

 そう言って優しく声をかけてくれ、和歌は今度こそ皆に遅れないように置屋に戻るのだった。


 今晩の座敷はこれで終わり。和歌は浴衣に着替えると、一人部屋で考えた。

 先ほどの男は「明日、裏の祠で待ってるそうです」と言った。

 誰がとは口にしていない。それでも、その相手がだれかなど、もはや考えるまでも無い。きっと小太郎だ。小太郎がまだこの地に残り、自分に会いたいと思ってくれている。そう思うと、昼間とは違う何かが身体の内側からせりあがるような気持ちになってくる。

 その晩、和歌は横になっても眠ることができず、まんじりともしないまま朝を迎えた。


 


 花街と呼ばれる一河の地には小さな祠があった。

 運河の入り口近くの片隅に据えられたその祠は、何を祀っているのかも、誰が管理しているのかも今は知る者もいない。だが、この祠を心の拠り所にし、遊女や芸者たちが掃除をし、お供えを上げたりしながらその姿を守り続けている。

 和歌も何度かここに足を運び、願をかけたことがある。

 女たちは日々様々な願いを唱える。もっと客が付き売れっ子になれるように。

 早く年季を返し自由になれるように。遊女とはいえただの女だ。客に惚れることもあるだろう。そんな男を自分のものだけにしたいと、無理とわかっていても、神に何かにすがりたくなるとここに来て手を合わせるのだった。


 花街の朝は遅い。そんな中、夜も明け切った頃に和歌は一人置屋を後にした。

 花街の中でなら外出は基本自由にできる。しかしその時には男衆が護衛として付いたりもするが、この時間帯はすでに客も船で引き揚げ、周りは各店の関係者がほとんどだ。それぞれの店の人間が他店の娘にちょっかいを出すことはしない。中には小間物などを扱う店もあり、そういった店に買い物にも出かけたりできるため、おかしな時間帯でなければ不審に思われることはなかった。


 和歌はその日、月の触り用の綿を買いに行くと言って出かけた。月に一度は必要になる物のため、特に疑われることは無かった。

 周りに気付かれぬよう、平静を装い祠に向かう。自然と気が急いて足取りが早くなる。この角を曲がれば到着すると、そう思った時。和歌は腕を掴まれ奥に引き込まれてしまった。

 突然のことで声も出せず、腕を掴んだままの男にその身を覆われてしまった。




「和歌」


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