第25話
辰巳が和歌の母である珠子を好いていたことは知っていた。珠子欲しさに父を騙し、戸倉の家を崩壊させたのだから。
だが、珠子は辰巳の手に落ちる前に実家に身を寄せ、難を逃れた。
珠子の兄が用意した縁談がどんなものかなど、和歌にはわかるはずもない。
それでも、辰巳の手で汚されるよりはずっと良かったはずだと信じていた。
珠子の身代わりに自分は買われたと知っている。それほどまでに母が好きなら、その娘の自分は無下にされることはないと高をくくっていたのだ。
なぜそんな風に思ったのかはわからない。わからないけれど。母の面影を移した自分を見て、たとえ母の代わりであったとしても自分はきっと大事にされるはずだと、そう思っていたのに。
それが何も知らぬ子供の幻想だと、やっとわかった気がした。
彼は自分を憎んでいる。なぜそうなのかはわからない。それでも憎く、自分の手を汚してでも許せぬほどに、その存在を認めるつもりがないことはわかった。
和歌は腰が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
人は驚きすぎると声も出ないらしい。衝撃が大きすぎて涙も出ない。
辰巳に突き飛ばされた腰の痛みが、次第にズキズキと増してきた。
花火を見る為に座敷の襖は開け放たれており、辰巳はいつもの席で座椅子に座り声を殺して泣いていた。
「なぜ、もう少し待っていてはくださらなかったのか?
そうすればあの方をお迎えし、私がお守りすることができたのに。
それなのに、それなのに……」
聞こえてくる辰巳の声はいつしか震え、掠れ、嗚咽を漏らすまでに変わっていった。
和歌は床に叩きつけられた身体を居直し、辰巳の嗚咽を聞いていた。
武家の家で産まれ育った和歌にとって、大の男が泣く姿など見たことが無く、心が揺れるのを感じる。
男が泣くなど許されない世界で育った娘の、軽蔑の思いなのか。
はたまた、思いもよらぬことに動転した同情に近いものなのか、どちらかは本人にもわからなかった。
辰巳の嗚咽は止まることを知らぬように、いつまでも声を殺し泣いている。
座椅子に座り、左手で口元をふさぎながら耐えるように肩を揺らしていた。
憎い男ではあるが、自分の母を想い泣いてくれている。その気持ちは間違いのない確かなものだと、娘として嬉しく思う。
辰巳の嗚咽を聞きながら夜は更け、辺りは夏虫の鳴き声が鳴り響き、静かに時間は過ぎていくのだった。
どれくらい経っただろうか。
和歌は縁側の固い板敷の廊下に座ったまま、辰巳を待った。
自分は買われた身、辰巳を一人残して去るわけにはいかない。それに、母を想い一人泣いてくれる人を置き去りにできるほど、和歌は情がないわけでもない。
静かで重い時間の後、辰巳がポツリ、ポツリと話しはじめたのだった。
和歌はそれを静かに聞いていた。
「私が戸倉直治に会ったのは、とある方の紹介でした。
武家の名だけでは食ってはいけないからと。時代の流れに沿い、事業を起こそうとしていたようです。
そのための資金繰りの相談を受け、商談をいたしました。
私にとっては旨味のない話でしたが、それでも利息が取れれば良いと、そんなつもりで戸倉の家にお邪魔しました。
借金の担保を確認するため、戸倉の邸と美術品や金目の物を見定める為に。
そこで、珠子さんにお会いしたんです。
あの方は初めてお会いした時から、私のような薄汚れた者にも変わらずに接してくださった。その優しさや、美しさに絆されたわけではありません。
私が珠子さんを始めてこの瞳に映した時、大きな衝撃を受けたのです。
あの方は、そう。仏様に似ているんです。私が子供の頃に預けられた寺院に置かれた、あの仏像に。
そして僕を守り、生かしてくれた乳母だった女性の面影を残したあの仏堂に。
珠子さんの神々しいくらいに眩しく美しいその姿は、私が唯一心を許せたあの、乳母に面影が似ているんです」
辰巳の生家が強盗に襲われたあの晩。乳母であり子守り役のその人は、辰巳を床下の貯蔵庫に隠し、守ってくれた。
「声を上げてはいけません」と、きつく言われた辰巳はいつもの乳母とは違う何かを感じた。黙って言う事を聞き、床下の貯蔵庫に潜り込んだ。
物音の激しさと、大勢が走り回る音、そして泣き叫び喚き散らす悲鳴に、恐怖で震え身を縮ませるしかなかった。
乳母の女性にも子はいた。それでも仕えた主の子のために、自らの子を旦那に託し辰巳に乳を含ませ続けた。
厳しい親の代わりに愛情を与えてくれたのは、他ならぬ乳母だった。
腹を痛めて産んだ我が子にろくに会えずとも、辰巳に愛情を注ぎ続けてくれたのだ。
助け出された後で聞いた話では、彼女は傷を負った痛みと死の恐怖に耐えながら逃げ惑い、最後は彼のいる貯蔵庫の扉の上で絶命していたという。
まるで彼の存在を自らの屍で覆い、包み隠すように。
その手に抱けぬ我が子の代わりだったのかもしれない、そんな代替の愛情でも、辰巳には必要なものだった。そうして気が付けば十歳にして心を許し、親よりも信頼できる唯一の存在になっていた。
身寄りもなくなり預けられた寺院で、慰み者となり心が荒んでいく中、彼の目に止まったのが等身大の仏像だった。子供ゆえに名もわからぬその仏像に乳母の面影を重ね、その場にいる間、それだけが彼の心の拠り所になっていた。
あの仏像があったからこそ心折れず、今の自分があると思っている。
その仏像に、乳母に、珠子が重なったのだ。
欲しい物は何でも金で手に入れて来た。本当に心から欲しい物などもうないと思っていたあの頃。心が乾ききり、惰性で生きていたあの頃に出会ってしまった。それは運命なのだと血が沸き立つ思いがした。
その肉体が、熱情が欲しいわけじゃない。ただ、手に入れたい。
手に入れてそばに居て欲しいと、ただそれだけを願った。
他の男どものようにその人を汚すつもりは微塵も無かった。ただ、笑ってそばにいるだけで、自分の名を呼んでくれるだけで良いと。そう願った。
その人の笑顔を守りたい。守るためならば何でもすると、そう思っていたのに。寸でのところでそれはスルリと指の隙間からすべり落ちてしまった。
「あの方を手に入れる為に、戸倉の家を破綻に追い込んだ。とても簡単でしたよ。まるで赤子の手をひねるくらいにね。
あなたのお父上は本当に無能な男だった。代々受け継がれた武家の名の上に胡坐をかき、自分の手で何かを築き上げることも、人を育て導くこともしてこなかったのでしょう。あの男を守り援護しようなどという人間は一人もいなかった。
彼がどこに行ったかはわかりません。ですが一人で生きていけるほどの知恵があるとは到底思えない。それこそ、私が手を下すまでもない人間です」
くくく……と、嫌な顔をして辰巳はほくそ笑んだ。
「珠子さんを買った男達は皆、今頃は店をたたみ一家離散でもしてどこかに隠れ暮らしているでしょう。嫌々買わされた者もいたようですから、最後の温情です。
ですが、珠子さんを身請けした男は許しません。骨の髄まで、その血の一滴迄もこの世に残しはしない。汚らわしいあの男の血筋を、ただの一人も後世には残しません。早く殺してくれと懇願するほどに苦しんで逝きましたよ。
私の前で、家族の前で、跪き命乞いをして泣き叫び、見苦しい姿をさらけ出していましたがね。今までだった何人、何十人と言う罪もない人間が同じように命乞いをしてきたはずなのに、あの男は叶えてこなかった。
それなのに、自分だけ叶えてもらえると、何故思うのでしょう? 私には理解できません」
嬉しそうに話す辰巳を和歌は恐ろしく感じるとともに、憐れに思う。
心が麻痺し、人の心を持たぬ地獄の鬼のように成り果ててもなお、珠子を想い、乳母を想い、仏を愛する彼は、真の愛を求める子供に見えてしまっていた。
花火の後、話すだけ話した辰巳はふらりと座敷を出て行ったまま戻ることはなかった。一人残された和歌は、初顔合わせの晩と同じように独り座敷に残され一夜を明かすことになる。
それからの日々は、今までと変わることはなかった。
辰巳と二人で会う事もないままに、接待の客と同席をしたり、他のお座敷に先輩芸者と共に顔を出しては縁を繋いでいった。
母珠子のことは何もできないままに、放っておかれている。
今更どうすることもできないことはわかっているが、それでもせめて墓参りはしたいと思っても、和歌は辰巳の連絡先を知らない。
何かあれば花見を通してのやりとりになる。
しかし、今まで和歌の方から連絡を必要とすることはなく、どうしたものかと思案したままに、月日は過ぎていった。
和歌は彼にとってそれくらいの存在価値化しかないことに、この時の彼女はまだ気が付いていなかった。
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